第3章 第4話
その夜、最後のお客さんをふたりで見送ったあと。
「こんな目の前にムーンバックスが出来たら、うちみたいな弱小カフェはひとたまりもないよ……」
思わず弱音が口を衝く。
「考えようよ、今こそ考えるときだよ、お兄ちゃん」
そう言う礼名の顔も真っ青だ。
礼名とふたり、店のカウンターに佇んで。
「やっぱり例の計画を前倒しするしかないか?」
「……」
例の計画、とは『カフェ・オーキッド』の改装計画だ。
それは、お店を改装し、通りに面してクレープの持ち帰り販売を併設すると言うアイディア。
僕たちもこの小さな喫茶店が何の工夫もなく、いつまでもやっていけるとは思っていなかった。だから自分たちなりに店の立地や今の商品とのシナジーを一生懸命考えて、出て来た答えがクレープ屋の併設だった。ただ、そのためにはどうしても店舗の改装が必要になる。
「まだ、クレープ焼き機すら買うお金も貯まってないよ」
「だからさ、この店舗を担保に融資を受けたらどうだ?」
「ダメだよ! それだけは絶対ダメだよ、お兄ちゃん」
語気を強める礼名。
ふたりで店舗改装の話をしたときも、僕は融資を受けてすぐ実行してはどうかと提案した。だが礼名は強く反対した。
「貧乏人はお金を借りちゃダメだよ! 頑張って貯めようよ!」
彼女の持論だ。
持たざる者は借りるからより貧しくなり、持てる者は貸すからより豊かになる。だから貧乏人は借りちゃいけない、何があっても借りちゃいけない、と言うのだ。ある意味シンプルでとても分かりやすい理屈ではある。
「でもムーンバックスが出来てからじゃ手遅れになるかもだよ」
「それでもダメだよ、それにさ……」
礼名は何かを考える風にして。
「斜め前の店舗の着工タイミングといい、ムーンバックスが出来ることといい、何か感じない? これ、桂小路だよ。桂小路が裏で糸引いてるよ。納豆みたいにネバネバに糸引いてるよ。もしそうなら、ここでの借金は致命傷だよ。わたしとお兄ちゃんの、この楽しい毎日の息の根を止めることになるよ。地獄へ真っ逆さまだよ」
「そこまで悲惨になるのか?」
「そうだよ、生き地獄だよ。もし借りたお金で改装着工した直後に、桂小路が手を回して、銀行が返済を迫ってきたらどうなると思う? わたしたちひとたまりもないよ。それが狙いだよ、絶対それが桂小路の狙いなんだよ!」
「もの凄い最悪のケースを読むな、礼名は」
「読めると言う事は起きると言う事だよ。借金は絶対ダメだよ!」
礼名はカウンター左側の、ふたり掛けのテーブルに歩み寄る。
カチャッ
そして、通りに面した小さな窓を開ける。
「この窓をクレープ販売の窓口に改装しようとしたんだよね……」
僕らは暫く無言で考え込んだ。
だけど、そんなにいいアイディアがすぐに湧いて出るわけもなく。
「はあっ」
小さく嘆息する礼名。
「取りあえず、晩ご飯の準備をするね」
そう言い残して、礼名は台所へ戻っていく。
「難しいな……」
店の戸締まりを済ませると、僕も居間に戻った。
沈んでばかりいても仕方がない。
取りあえずはテレビをつけてみる。この時間はニュースをやっているはず。
カチャン……
次のニュースです。日本の企業連合がインドネシアの
地熱発電プラント工事を落札しました……
「へえ~、やっぱり倉成グループって凄いんだ。東南アジアで地熱発電プラントを着工するんだって」
ニュースに流れるテロップを何気なく眺めていた僕は、次のシーンに目を奪われた。
「あれっ、この人! 礼名、なあ、この人!」
「どうしたのお兄ちゃん…… 地熱発電の仕組みがどうかしたの?」
礼名が顔を向けたときには、僕が言ったシーンは既に終わっていた。
でも確かに……
僕はパソコンを起動すると倉成グループの情報をググりまくる。
「えっと、えっと…… あっ!」
やっぱりだ。
僕の見間違いじゃなかった。
「ほら礼名、これ見てみろよ」
「なになに? あっ、この人、今日の渋いお客さんじゃない! 有名な人なの? 倉成銀行頭取…… 倉成壮一郎…… って、もしかして」
「そうだよ、倉成さんのお父さんだよ」
「!」
礼名はハッと自分の口に手を当てる。
「やっぱり…… やっぱり全て桂小路の陰謀だったんだ! わたし達と倉成さんを近づけて、このお家を担保に改装資金を借りさせて、そして豹変するんだよ。わたしたちからこの家を奪って、わたしたちの楽しい暮らしを破壊して、わたし達をあの窮屈で冷徹で、陰謀渦巻く桂小路に連れて行く気なんだよ!」
何だか色んなところに無理がある推理だが、『絶対ない』と言えないところが怖かった。桂小路家の噂はそれほどまでに悪いのだ。
「でもさ、あの紳士、僕には悪い人に見えなかったけど」
「うん、わたしもそう思う。きっとあの人はいい人だよ。だけど桂小路に弱みを握られてるとか、何か事情があるんだよ。裏で桂小路が操ってるんだよ」
礼名は右手をわなわなと震えさせ、そして言い放った。
「わたし絶対負けないよ! ムーンバックス、上等じゃん! 返り討ちにしてやろうよ! 血祭りに上げてやろうよ! 目にもの見せてやろうよ!」
「礼名……」
「クク、ククク…… ふわっはっはっは!」
腰に手を当て高らかに笑い上げる礼名。
追い詰められると燃えるタイプなのか、瞳に炎が見える。
しかし。
「はっはっはっ…… はっ…… はあっ……」
ひとしきり笑い終わると、彼女は力なく嘆息して。
「……と、笑ってはみたものの…… どうしよう。気合いだけじゃ勝てないよ。根性だけじゃ生きていけないよ。ねえ、どうしよう、お兄ちゃん!」
また青くなる礼名。
「大丈夫だよ。きっと大丈夫だよ。僕も考えるから。一緒に頑張ろう」
「お兄ちゃん! うんっ。ありがとうお兄ちゃん。お兄ちゃんがそう言ってくれたら、お兄ちゃんさえ一緒なら、礼名は何にも怖くないよ!」
こんな時こそ僕が頑張らなきゃ!
兄として礼名を守り抜かなきゃ!