第3章 第3話
「マスター、オーダーです! 乙女のモーニングセットふたつっ」
礼名の声に我に返る。
太田さんと細谷さんの特注オーダーだ。
僕は彼女達のサンドイッチを作り始める。
目の前に座る紳士は置いてある雑誌を読むわけでもなく、スマホを弄ぶわけでもなく、ただ僕の作業を見つめている。彼に出したスペシャルサンドイッチはまだ手も付けられていない。もしかして、何か気に入らないことがあるのかな。
そんなことを考えながら紳士の前のサンドイッチを見つめていると、僕の視線に気が付いたのか、彼はそれに手を伸ばした。
「んっ、これは美味しいですね」
その言葉に僕は胸のつかえが、すうっと抜ける。
「よかったです。気に入って戴けたようで何よりです。そのサンドイッチにはこの商店街の肉屋さんご自慢のハムを使ってるんですよ。パンも近所のお店から仕入れてまして、うちの自慢なんですよ」
うちの自慢、と言うより礼名の自信作なのだ。使ってる材料もさることながら、中に挟んである礼名特製の卵焼きこそが絶品なのだが。
「確かに美味しいハムを贅沢に使ってますね。でも全体のバランスが最高だ。材料もさることながら作った人の料理の腕がとっても光ってますね」
よかった。本当に喜んで貰えてるようだ。
ちょうどカウンターへ戻ってきた礼名が、それを聞いて破顔する。
「ありがとうございます、ありがとうございます、もう一度ありがとうございますっ! よろしければ雑誌とかお持ちしましょうか? 経済誌は置いてないんですけど、月刊の科学誌とかもございますよっ」
「ははっ、明るくて気の利くお嬢さんだね。ありがとう。でも、いいですよ。少し考え事をしたいので」
紳士は穏やかな笑みを浮かべると、また静かにサンドイッチを頬張った。
今日は普段よりお客さんが多い。
だから僕も礼名もいつもより忙しかった。
忙しいと時間が過ぎるのも早く感じる。
からんからんからん
「いらっしゃいませ~、あっ、三矢さん! カウンターでよろしいですか?」
商店街のお肉屋さん、恰幅がいい三矢さんが入ってきた時も店内はかなり混んでいた。
「ごちそうさん」
ちらりと店内を見回してカウンターの紳士が財布を取り出す。
「あっ、ありがとうございますっ」
それを見ていた礼名が、ぱたぱたとレジに入る。
「お兄さんと仲が良さそうですね」
「はいっ! お兄ちゃんとわたしはそれはもう海よりも深く、太陽よりも熱く、国会議員のヤジよりも激しく愛し合っています。お兄ちゃんはとっても優しくって頼りになって、わたしはすっごく幸せですっ! じゃあ一万円お預かりします」
初めてのお客さんなのに何言ってるんだ。引かれるぞ、礼名。
しかし、その紳士は全く動じる様子もなく。
「ははっ、そんなにお兄さんが好きなんだ。じゃあまた」
「ありがとうございますっ! そうなんです、お兄ちゃんは世界一わたしのことを想ってくれて…… あっ、お客さん、お釣りっ!」
「いや、美味しかったからお釣りは受け取って置いてください」
「あのっ、そんなわけには! お釣り八千四百円もありますよっ、あのっ、お客さんっ!」
しかし紳士は軽く手を上げドアを閉めると、商店街の人波に消えていった。
「お兄ちゃん、どうしよう」
ドアの前まで追いかけていた礼名が振り向いて僕を見上げる。
「う~ん、取りあえず封筒に入れて置いておこう。また来てくれるかも知れないし」
「そうだね、そうする。しかしさっきのお客さん、渋くて格好良かったね」
「なるほど。礼名はおじさんもいける口なんだ」
僕の意地悪な質問を礼名はあっさり受け流す。
「うん、あのお客さんは好きだよ。お兄ちゃんも将来あんな風になるんじゃないかなっ」
「そりゃあ無理だ。僕は一万円から、「釣りはいらねえ」なんて絶対言わないし」
「そうかなっ? 案外言いそう……」
帰りは歩いて行ったけど、来るときは社用車で乗り付けてきた紳士。
ちょっと不思議な人だったな。
な~んてことを考えていると、常連さんと立ち話をしていた三矢さんがカウンターに腰を下ろす。
「いらっしゃいませ。今日もサンドイッチのモーニングで宜しいですか?」
「うん、頼むよ。ところで見たかい? 悠也くん」
「見たって何を、ですか?」
「この店の斜め前、工事してる建物に入るお店の名前」
「えっ、知りませんよ。もう看板とか上がってるんですか?」
「うん、さっき看板を上げていたんだ。あそこの一階はムーンバックスが出来るみたいだよ」
「ええっ! ムーンバックス!」
思わず大声を上げてしまった僕。
ガシャン!
三矢さんに持って行こうとしていたグラスを床に落とす礼名。
ムーンバックスと言えば、向かうところ敵なし、飛ぶ鳥を片っ端から落としまくって日本中に勢力を拡大している大人気のコーヒーショップだ。コーヒーのバラエティも豊富で、味も評判で、ケーキやスコーンやマフィンなんかも揃っていて、お洒落で、ともかく集客力抜群のカフェだ。そんな強大すぎるライバル店が目の前に出来たら……
「あ、ああ、あああ……」
割れたグラスを片付けようと腰を下ろすも頭がテンパっているのか、礼名の手は震えている。
「グラスの片付けは僕がやるから。礼名は先に三矢さんにお冷やを出してあげて」
「あっ、ご、ごめんなさい、お兄ちゃん」
新しいお冷やを三矢さんの横に置くと、礼名はペコリと一礼し、店の外へ駆けていく。
やがて。
「本当だ。どうしよう、お兄ちゃん……」
戻ってきた礼名の顔は青ざめ、その手は小刻みに震えていた。