第20章 第4話
待ち合わせの部屋には既に藤院理事長と礼名が待っていた。
「いかがでしたか、男子寮は」
「ええ、校舎と同じく施設は立派でした」
皮肉を込めてそう言いながら僕は部屋を見回す。普通の教室半分程度の部屋の中には立派なピアノが一台。
「あら、施設だけでなく生徒も自慢なのだけど」
彼女は高杉の労をねぎらうと、授業へ戻るよう命じる。そして自らも席を立った。
「ごめんなさい。少し用事があるので三十分ほど待ってて貰えるかしら。その間このピアノでも弾いて待っていてちょうだいな。ドアを閉めたら防音は完璧だから気兼ねしないでね」
彼女はグランドピアノの鍵盤蓋を開けると手を振って部屋を出て行った。
「お兄ちゃん、男子寮はどうだった?」
「ああ、高杉の部屋も案内して貰ったけど、立派なのは間違いないね。寮の自習室は男女共用らしいし」
「うん、そうらしいね。わたしは新しい部屋を見せて貰ったよ」
礼名はちらりピアノを見ている。
「あ、久しぶりだろ、弾いてみたらどうだ」
彼女は無言で小さく頷くと立ち上がった。
「凄いね、スタインウェイのピアノだね」
そしてゆっくり鍵盤の上に手を揃える。
やがて紡がれる心地よい音色。
久しぶりに聴く礼名のピアノは相変わらず美しかった。
慈しむような優しい動きで鍵盤を叩く礼名。溢れ出すその音は一粒一粒が輝いて綺麗な色彩を感じさせる。僕の大好きだった礼名のピアノ。
軽くショパンの子犬のワルツを弾き終えるとリストを弾き始める。あまり詳しくはないがラ・カンパネラだったか?
昔、僕も礼名に教えて貰って猫ふんじゃったを弾いたことがあるが、彼女の弾くそれは全く違った。音の粒が違う。礼名が紡ぎだす旋律はカラフルな色彩を帯びるのだ。
笑顔で鍵盤と戯れる彼女を見ながら高杉の言葉を思い出す。
「さっきの話の続きっすけど、ほら聖應院って音楽科があるじゃないっすか。理事長は妹さんの名前を知っていたらしいっすよ。凄いらしいっすね、ピアノ。何て言ったっけ? 中学で有名なコンクールに入賞したって」
あの時、笑顔でピアノを手放した礼名。
だけどその心中を想うと僕は今でも胸が苦しくなる。
「このお家が一番大切だよ。お家のためならピアノも売ってしまおうよ」
「だけど礼名、売ってしまったらもう弾けないんだよ」
「当然だよ。どっちにしても、もう先生にも習えないんだしさ。お金掛かるんだよ、ピアノ。だからお願い」
「でも礼名……」
「この子はきっと次のご主人さまにも可愛がって貰えるからさ、わたし悲しくないよ。ありがとう、ピアノさん」
あれからもうすぐ一年。
さすがに長いブランクの所為だろう、時折運指を確かめるように弾く礼名の表情は忘れていた宝物を発見した子供のように輝いている。
願ってもない話。
そう思った。
一瞬、麻美華の顔が脳裏をよぎる。だけど礼名のためならば。
曲を弾き終え振り返る礼名に僕は笑顔で訴える。もっと聴きたい。
優しくお辞儀をする彼女はまた前を向いてゆっくり息を吐く。
ショパンの練習曲、何番だったっけ。
彼女が奏で始めたこのメロディーはコンクールで演奏した旋律だ。
高杉の話によると、藤院理事長は自身も音楽に造詣が深いらしい。あのコンクールにも招かれていたという。
僕には演奏の善し悪しなんか分からない。だけど礼名の演奏はすぐに分かる。他とは違う。僕の大好きな暖かい音色から優しい礼名の気持ちが届いてくる。
いつもお客さんを楽しませて、商店街を和やかにして、僕を幸せにしてくれる礼名。だけど、礼名にだって好きなことがあるはずだ。やりたいことがあるはずだ。叶えたい夢があるはずだ。
パチパチパチパチ……
礼名が鍵盤からゆっくり手を離すと後ろの方から拍手が鳴った。
「藤院理事長!」
いつからそこに立っていたのか、彼女は拍手をしたままピアノの方へと歩み寄る。
「素晴らしいわ。ブランクがあったなんて信じられない。いや、あの時よりももっとよくなってるわ」
「ありがとうございます。でも、あの時って?」
「ああ、ワルシャワ国際コンクールよ。貴女が出ていた」
礼名は一瞬驚いて息を飲む。
「私、聴いていたのよ、貴女の演奏。凄く輝いていたわ。途中小さなミスがあって入賞止まりだったと思うけど、私は貴女の演奏が一番好きだったわ」
「…………」
「ねえ、どうかしら。うちの音楽科へ来ないかしら。勿論専攻はピアノよ。講師陣も胸を張れるわ!」
「だけど、わたしにはコンクールに出たり演奏活動をする時間もお金も……」
「ご存じかしら、大友倫太郎さん。あの人が貴女のパトロンになってくれるわ」
「「!!」」
大友倫太郎。
大友財閥の首領であり、大友王子の父親。
何故か先日オーキッドにやってきた彼だが、一体どうして?
「そんなことして貰う理由がありません!」
「礼名!」
僕は礼名の横に歩み寄る。そして、例え大友の支援がなくても僕らを支えてくれる人は他にもいることを伝える。いや、今考えるべきはそこではない。礼名のやりたいことを、礼名の夢を叶えることを第一に考えなくちゃいけない。今こそ礼名の背中を押さなきゃいけないときだ。今でも礼名はピアノが好きだ。さっきの笑顔が、あの優しい音色が教えてくれる。
「だけどお兄ちゃん……」
彼女の反論は、しかしいつもの切れがない。
「お金のことは考えるな。いいか礼名、自分のやりたいことだけを考えるんだ。礼名が見た夢を取り戻すんだ」
「わたしの、夢……」
一瞬の沈黙を置いて、礼名は鍵盤に手を載せる。そして紡ぎ始めたメロディは僕が好きな、オーキッドのBGMにもよく流している曲だった。
Only trust your heart
ジャスでよく演奏される親しみやすいスタンダードナンバーを軽快なテンポで奏でていく。中学の頃はジャズなんか弾いてなかったのに。即興?
時折僕に微笑みながら演奏する礼名。僕は小さく手拍子で応える。
これ、もしかして僕のために?
「お星様の言うことなんか聞いちゃいけない。お月様の言うこともシカトだよ。夢なんか、そんなの信じちゃいけないよ……」
綺麗なメロディを奏でながら小さく呟く礼名。
この曲ってそう言う歌詞が付いていたっけ。他の何も信じるな、自分の心だけを信じるんだよって歌。
やがて。
曲を弾き終えた礼名は鍵盤蓋を閉じゆっくり立ち上がると深々と頭を下げた。
「藤院理事長、本当に身に余るお話をありがとうございました。だけどわたしは南峰をやめません。ごめんなさい」
「えっ! どうして? 貴女なら立派な演奏家になれるわよ! 間違いない! 今日の演奏だって、うちの音楽科に入ってもピカイチだわ!」
「今日の演奏がコンテストの時よりよかったとしたら、それはきっとお兄ちゃんがいるからです。お兄ちゃんが聴いてくれたから、このピアノも頑張っていい音を出してくれたんです」
いや、僕は関係ないだろ、礼名!
「だけど、わたしはお兄ちゃんとオーキッドで働いている時が一番楽しいんです。嬉しいんです。ワクワクするんです。それがわたしの気持ちです」
清々しいほど晴れやかな表情でそう言い放った礼名は、まるで子供の頭を撫でるようにピアノを優しく撫でると、僕の前に立った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「本当にそれでいのか! 自分の気持ちを抑えちゃいけないよ!」
「うん、抑えてなんかいないよ。わたしはあのお店でお兄ちゃんとふたり暮らしたいんだ。それが礼名の素直な気持ち。一年前と変わらない本当の気持ち。さあ、帰ろうよ!」
テーブルに載せていた鞄を手に持つと、藤院理事長に頭を下げる礼名。
「ちょっと待ってよ! もう一度考えてよ! こんないい話はないわよ。常識じゃ有り得ない話よ! 神代さんはピアノが好きなんでしょ! そうじゃなきゃあんな音は出せないわ!」
「はい、ピアノは大好きです。だけどわたしが一番大切にしたいのは今の生活なんです。貧乏かも知れません、多忙かも知れません、だけどお兄ちゃんとふたりで生きていく今が何よりも楽しいんです。お兄ちゃんさえ迷惑じゃなかったら……」
僕を見上げる礼名。迷惑なわけはない。僕だって礼名と一緒がいいに決まっている。
「だけど礼名、本当にそれでいいのか」
「当たり前だよっ! わたしを誰だと思ってるのっ! オーキッドのナンバーワン、神代礼名だよっ!」
大きな声を張り上げて小さな胸を張る礼名。
その屈託のない笑顔を見て、僕も藤院理事長に頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「ちょっ…… そ、そんな……」
「では、失礼します」
「お待ちなさい貴方たち。このまま何もなしで帰れると思っているの! そう簡単には帰さないわよ!」
理事長は両手をあげるや、大きく二回手を叩く。
するといつから待っていたのか、部屋に大友王子と高杉が現れて僕らの前に立ちふさがった。
「神代、悪いっすけど、このまま帰すわけにはいかないっす」
「高杉お前……」




