第3章 第1話
第三章 ふたりのお店は絶対負けません(そのいち)
「お店の前に、何が建つのかな?」
朝、店の前で開店準備をしていた僕はその声に振り返る。
白いワンピに赤いリボン。
手作り給仕服を身に纏った礼名が、食パンを手に買い出しから戻ってきた。
「さあ、二階建ての店舗っぽいけど、一階はコンビニかな……」
「あっと言う間に形になっていくね」
「建物ってこんなスピードで建つんだね」
店の斜め前は一ヶ月ほど前から工事中だった。
元はコイン駐車場だったのだが、何かの建物が建つようだ。
僕らの喫茶店、カフェ・オーキッドは商店街の外れにあるけれど、幹線沿いに少し歩くとイベントホールやショッピングセンター、それにこの街で一番大きいアニメショップもあって、休日は結構人通りが多い。立地的にはコンビニが出来そうな気がする。
「まさか、新しい喫茶店が出来るんじゃないよね」
「はははっ。まさか。何もうちの目の前に建てる理由もないしさ」
さあ、今日は土曜日。いよいよ営業開始だ。
少し曇った空模様。
だけど予報によると雨は降らないらしい。
「いらっしゃいませ~」
八百屋の仕事の息抜きに高田さんがやってくる。
「よっ、礼名ちゃん。今日もますます別嬪さんだね。悠也くんとはラブラブかい?」
「はいっ、勿論です。わたしとお兄ちゃんとの絆は永遠に不滅です」
「そうかあ、また当てられちゃったな。でも、たまにはおじさんもいいもんだよ。野菜屋のおじさんとかな」
「あ、はい……」
「いつも家でオニババに虐げられてる、男の心をさ」
「あ、あの……」
「礼名ちゃんみたいな可愛い子に癒して欲しいよな」
「どこの誰がオニババかしら……」
「げっ、お前いつの間にっ! だ、だじげでっ、ぐぶほっ」
●★△?♂ぐきっ★◎♀?べこっ
奥さんのウエスタンラリアットからのオニババドロップキック炸裂を必死で止める礼名。
「はあはあはあ…… お、奥様いらっしゃいませ」
「はあはあはあ…… いつもごめんね礼名ちゃん。今日もモーニング頂戴ね」
いつもの光景、いつもの笑顔。
今日も順調な滑り出し。
開店一時間もするとテーブル席は満席だ。
僕は休むヒマなく注文をさばき続ける。
と、皿洗いをしていた礼名が何かに気が付いたように顔を上げた。
「お兄ちゃん、凄い車だよ」
礼名の視線を追い、窓の外に目を向ける。
一台の黒い高級車が店の近くに滑り込んできて。
運転手が恭しくドアを開けると、眼光鋭い紳士が降り立った。
「誰だろうね。こんな商店街に何の用かな? 斜め前の工事中の建物の関係者かな」
僕は意識を手元のポットに戻すとコーヒーを淹れ始める。
やがて。
からんからんからん
「いらっしゃいませ~」
扉を引いて入ってきたのはさっきの紳士。
グレーのスーツに茶色の小さなサイドバックを持った、五十歳前くらいの長身の男だ。
「カウンターになりますが宜しいでしょうか?」
「はい、いいですよ」
礼名に向かって穏やかにそう言うと、彼は僕の前に座る。
「こちらがメニューになります。モーニングはフレンチトーストとサンドイッチからお選び戴けます」
彼の横に立ち丁重にメニューを差し出した礼名は、僕にだけ見えるようにチラリ目配せをする。
「さっきの凄い高級車の人だね」
目でそう訴えてくる。
だから僕も目配せして返した。
「そうだね、誰なんだろう」
丁寧にお冷やを差し出す礼名に、紳士はオーダーを伝える。
「この、『ロマンスティーセット』を」
「あの、えっと……」
一瞬、言葉を失う礼名。
僕も驚いてサンドイッチを切る手を止めた。
ロマンスティーセットはカップル向けに開発した当店で一番値段が高い商品だ。三種類のケーキにお好きなパフェとお好きなパンケーキを全て二人分、飲み物は当店のメニュー全てが飲み放題。ラストオーダーまで三時間と言う、内容も値段も冗談のような商品。カップル向けなのでお二人様用メニューなのだが、高すぎるのか、未だに一度も売れた例しがない。
「あの、お客様、こちらはお二人様用のセットでございまして」
「あ、そうか。じゃあ……」
その紳士はあっさり折れると、またメニューを見ながら。
「じゃあ、このスペシャルサンドイッチとハワイコナを」
「あ、はい。承知しました。お飲み物はサンドイッチのセット扱いにして百円引かせて戴きますね」
礼名は僕を見るとお客様に分からないように目配せした。
「このお客さん、値段の高いものから順に頼んだよ」
「だって運転手付きの高級車で来たんだよ」
僕も目配せで礼名に答える。
「凄いお金持ちなのかな?」
礼名の目がそう返す。
すげえ、僕たち兄妹、目と目で通じ合ってる。
などと感心している場合ではない。スペシャルサンドの準備をしなくては。
「サンドはわたしに任せて、マスターはコーヒーお願いします」
今度は言葉を口に出して、自称『お店のナンバーワン』こと、礼名が微笑んだ。
「わかった」
僕は最高級豆が入った缶を開けるとハワイコナをグラインダーに掛ける。他店より少し多めを中挽きにして浮いた渋皮は飛ばしてしまう。ポットのお湯は沸騰したあと少し覚まして。挽き立ての豆はネルドリップに入れて豆全体にお湯を浸透させてから暫く蒸らす。そして円を描くようにゆっくり丁寧にお湯を注いでいく。細かい泡が綺麗に立つと、胸のすくような甘いコーヒーの香りが漂ってくる。
窓越しに見た鋭い眼光は消え失せ、目の前に座る紳士は僕の作業の一部始終を、ただ穏やかに見つめていた。
「礼名、頼むよ」
「はい、マスター」
礼名は出来たてのコーヒーと、ハムをふんだんに使ったスペシャルサンドイッチをトレーに載せて。
「はい、お待たせしました。ハワイコナとスペシャルサンドイッチです」
カチャリ
「ありがとう」
彼は右手でゆっくりカップを持ち、そのコーヒーをひとくち啜ると顔を伏せた。
美味しくなかったのかな? 少し心配。
思いきって声を掛けてみよう。
「今日はこれからお仕事ですか?」
「い、いえ…… あとは家に帰るだけです」
「と仰ると、今まで徹夜でお仕事だったとか?」
「いえいえ、今朝海外出張から帰ってきたばかりで。だから今日はゆっくり休みます」
海外出張か。早朝着の飛行機だったのかな、それとも空港のホテルで一泊とか。いずれにしても多忙なんだな。
「大変ですね、お疲れでしょう」
「いや、慣れてますからね。それよりマスターこそお若いのに大変ですね」
「あ、僕も慣れてますからね」
「お店、繁盛してるんですね」
彼は店内をぐるりと見回す。
「ははっ、小さな店なのですぐに満席になるんです」
紳士はもう一度カウンターに置いてあるメニューを開く。
そして、読み物のように、じっくりと眺めていた。
やおら。
「営業は、土曜と日曜だけなんですか」
「あっ、はい。実は僕も、ここにいる妹も、どちらも高校生でして」
「そうですか。本当にえらいですね」
二人とも高校生というところ、驚くかな、と思ったが、案外あっさり流された。
「でも、それで生活は大丈夫なのですか?」
「あ、はい。そこはご心配なく」
「あっ、これは余計な事を言いました」
軽く頭を下げる温厚そうな紳士。
まあ確かに楽な生活じゃないけど、何とかふたり暮らせてる。
倉成さんには驚愕された、とっても質素な暮らしだけど。
そう言えば、今日は彼女の誘いを断った日なんだな。
僕はふと倉成さんの事を思い出した。
三日前の彼女との会話を。