第16章 第4話
校長室には定年間近の宮川校長と歴史の平尾先生、そして礼名が座っていた。
「ああ、神代くん、こっちの席へ……」
僕の頭はまだ混乱している。
礼名をそこまで追いやったのは誰だ! 麻美華じゃない、僕だ! 礼名のことを一番よく知ってるはずなのに、どうしてこの選択肢に気がつかなかったんだ!
「神代くん、まあともかく座り給え」
「あっ…… あ、はい」
礼名は胸を張って毅然としている。いつもの明るく優しい印象とは違う、強い意志を持つ彼女がそこにいた。彼女のとなりでは担任の平尾女史が心配そうな顔をしている。五十歳独身と噂の小柄な先生だ。
「神代くんは知っていたのか? 妹さんはここをやめて単位制の高校へ編入すると言うのだが」
「……すいません、僕は」
「これはわたしが決めたことです。お兄ちゃんは関係ありません!」
毅然と言い放つ礼名。
「お兄さんに聞きたいのだが、お家の家計はそんなに厳しいのかな?」
「いえ、今はそれほどでも」
「これからのためです。これからお金が必要になるんです!」
「すまないけど礼名さんは少し黙っていてくれないか」
その言葉に礼名が唇を噛みしめる。
「家計の話だとしたら妹さんだけじゃなくお兄さんにも関係するはずだよね」
「はい」
「妹さんがやめなければならない理由は何なのかな?」
それはきっと進学費用を稼ぐためだろう。
先日も大学案内の本を開いて学費欄を見ながら考え込んでいたから、時間の融通が利く単位制高校に移りバイトに精を出すつもりじゃないだろうか。
だけど今はこの問いに答える必要はない。
僕だけこの学校に残って礼名がやめる。そんな選択肢があっていいはずがない。僕がここで言うべき事は決まっている。
「ともかく校長先生、礼名の件は一旦保留とさせてください。明日またご報告に来ますから、少し時間をくださいっ!」
僕の言葉を聞いた宮川校長はその言葉を聞きたかったとばかりに満足げな顔で大きく頷いた。
「分かった。理解していると思うけど、いい報告を待っているよ」
ちらり礼名を見る。
「さあ礼名、教室へ行こう……」
「…………」
彼女は唇を噛みしめたまま僕をじっと睨んでいた。
「あの、平尾先生、小田先生、僕も礼名も気分が優れないので保健室に行ってきます」
真っ赤な顔をして僕を睨みつける礼名を見て咄嗟にそう願い出ると、先生方はあっさりOKを出した。ふたりの先生方は少し校長室に残るらしい。僕は礼名を促すと頭を下げて部屋を出る。そして廊下を歩き出そうとしてそこに長い金髪の少女が立っているのを見た。唇を噛みしめ目からは大粒の涙をポロポロと流す彼女はいつもの堂々とした上から目線の彼女とは全く違うリアクションを見せた。
「礼名ちゃん、ごめんなさいっ!」
* * *
三人は生徒会室へ向かった。
さっきは保健室と言ったがこの際行き先はどこでもいいはずだ。先生公認のエスケープだ。
麻美華は教室を出た僕をすぐに追って、礼名が退学届けを出したという小田先生の言葉を聞いたらしい。生徒会室に入っても立ち尽くしたままで涙が止まらない麻美華に礼名も困惑しているようだ。
「麻美華先輩の所為じゃありませんよ、遅かれ早かれ、いつかはこうなったんですよ」
「違う! 違う!」
さっきから「違う」としか言わない麻美華。礼名は生徒会室を見回すとペットボトルのお茶を紙コップに入れて麻美華に差し出す。
「落ち着きましょう、ねっ!」
紙コップを受け取り、中をじっと見つめた麻美華は一口啜ると小さく息を吐く。ようやく少し落ち着いた彼女は、小さな声で語り始めた。
「わたし、何でも自分の思い通りにできるって思ってたのかも……」
「……」
「きっと悠くんも礼名ちゃんも知っていることだと思うけど……」
彼女は半年前の出来事を語り始めた。林田会長が指名した書記も会計も、麻美華との間に起きたトラブルが原因で姿を見せなくなったこと。それでも林田会長は有能だったし、彼女を心配して桜ノ宮さんも手伝ってくれたり、自分自身にも取り巻きみたいな人がいて生徒会は問題なく回った。
「書記は漢字の間違いが多かったから小学生の復習をしなさいって漢字ドリルを買って与えてあげたら次の日から来なくなったわ。会計には計算ドリルね」
かなり屈辱的なことを言ったんだな、この人。
「だけど五月になってみんなと、そう、礼名ちゃんや綾音や、そして悠くんと一緒に色んな事をして、麻美華はとても楽しかった。それで、もしこのメンバーで生徒会が出来たらって思うと何だか嬉しくなって。だからそうしようって決めたの。そう、どんな手段を使ってでも、ね。けれども、礼名ちゃんや悠くんのことはひとつも考えていなかった。わたしのことだけ考えてた……」
最後は消え入るような声を絞り出す麻美華。こんな彼女は見たことがない。いや、想像すら出来なかった。それは礼名も同じらしく、さっきから麻美華を見たままじっと黙っている。
「私、また今度も同じ過ちを犯してしまって…… だから私、、ほんとに悪くて…… お願い礼名ちゃん、やめるなんて言わないで!」
震える声を絞り出す麻美華。
そんな彼女を見ながら礼名は大きく深呼吸をした。
「ああもう分かりました! 分かりましたから、泣かないでください」
「だけど……」
「礼名もちょっと意地になっていました。わたし副会長に立候補します。勿論学校もやめません。麻美華先輩と一緒に頑張ります」
「えっ?」
「だから顔を上げて下さい」
「い、いいの? 礼名ちゃん……」
「はい、礼名に二言はありません。そもそも、カレーが一週間続いたところで文句を言うお兄ちゃんではありません。掃除だって洗濯だっていつもお兄ちゃんが手伝ってくれます。だからホントは生徒会に入っても問題なんかないんです。ただ、将来の蓄えは必要ですけど…… まあ、まだ急ぎませんし」
「礼名ちゃん!」
どうやら一件落着しそうだ。安心した僕は生徒会室の会議テーブルに腰を下ろす。礼名と麻美華は暫く向かい合っていたが、やがて麻美華は思い出したように副会長の机から大きな封筒を取り出した。
「ねえ、この倉成の奨学金制度、考えてくれないかしら。倉成はあなたが警戒する桂小路家に繋がっているとか、何か悪いことを企んでいるとか、そんなことは決してないから、ね!」
「それとこれとは話が別です。借りたお金は返さなきゃいけないでしょ。それより先ずは貯金をします。借りて不仲になるよりも、いつもニコニコ現金払い。これが神代家のモットーです!」
そんなモットー、いつ決めたんだ、礼名。
「いや、だからこの特別奨学金は返さなくてもいいんだから……」
「そこが信じられないんです! それなら倉成財団のメリットは何なんですか?」
僕には分かる。麻美華は口実を作って僕たちを支援しようとしてくれている。しかし、僕と倉成の関係を知らない礼名にとっては当然の疑問だった。
「メリットって、そんなの必要ないでしょ? 私と悠くんは席が隣同士なのだし、だから、その、他人じゃないのよ」
「他人ですっ!」
「だから席がとなりで……」
「それは一点の曇りもなく完全無欠に他人ですっ!」
いつもとは逆に今日は麻美華が押されていた。
「ともかく、わたしたちは大丈夫です。さてお兄ちゃん、校長室へ前言撤回に行きましょう!」
こうして結局。
ことの経緯はどうであれ、生徒会選挙は麻美華の思惑通りに進んだのだった。




