第16章 第3話
それから、僕たちは無言のまま食事を終えた。
唐揚げと、ちゃんと豚肉が入った豚汁という豪華な夕食だったが、食べてる心地がしなかった。礼名は怒るわけでもなく、とは言え笑顔も浮かべず、ぽつり「お兄ちゃんが決めたことなら……」とだけ言うと考え込んでしまった。
トントントン
ベッドの上に転がっていた僕はノックの音に体を起こす。
「なんだい礼名? 入っていいよ」
ゆっくりとドアが開くと、お気に入りの青いワンピースを纏った礼名が立っていた。
「どうしたんだ? こんな夜に着飾って」
「だって、大好きなお兄ちゃんに会いに来たんだから……」
大人びて見えた。瑞々しい唇がいつもより朱色を帯びて、大きな瞳が妖艶な光を放つ。
「何驚いた顔してるの? 礼名だって化粧くらい出来るんだよ」
「いや、そんなことは分かってるけど。どうして……」
「お兄ちゃんを…… 襲いにきた」
「えっ?」
礼名は部屋に入ってくると、ベッドの横に歩み寄ってくる。
「お兄ちゃんを…… ううん、お兄ちゃんに襲われに、来た」
「おいおい、何言ってるんだ礼名! そんなことしちゃ……」
「さあ、今なら礼名が食べ放題なんだよっ! どんなことをしてもいいんだよっ! 攻めでも受けでもやっちゃうよ! 後ろから前から大歓迎だよっ! 一夜限りのアバンチュールでもいいんだよっ! 礼名、お兄ちゃんの言う事だったらどんなことでもしちゃうんだよっ!」
突然笑顔を作ると弾けたように喋り始めた礼名。だけど、その笑顔はどう見ても無理をしている風にしか見えなかった。
「お兄ちゃんだけに限定販売だよっ! 他の人には指一本触れさせないよ! 今ならすぐにご案内だよ! しかもお代は頂戴しないよ! ねえ、お兄ちゃん! だからお兄ちゃん!」
「ダメだよ礼名、そんなこと言っちゃ。礼名は身も心も清いままで初夜を迎えるんだろ?」
「そうだよ。だけど今日の事は非公式だよ、番外編だよ、ノーカンだよ! だからさ、お兄ちゃん……」
僕はベッドから跳び降りる。
そして足早に彼女の横をすり抜け部屋のドアを開けた。
「礼名が悪い子になったって、母さんに報告してくるよ」
「ちょっと待って! お母さんには言わないで!」
後ろに立つ礼名を振り返る。大きな瞳を見開いて僕を睨んだ礼名は、しかしすぐに自嘲気味に呟いた。
「礼名はそんなに魅力がないのかな……」
「違うよ! 礼名は魅力的だよ! 世界一綺麗で可愛くて優しくて……」
「!!」
しまった。つい本音が出た。礼名は妹、そこを忘れちゃいけない。
「そ、そう妹、妹だよ! 誰にも誇れる僕の妹だよ。僕の大切な妹だよ……」
「あはっ、やっぱりお兄ちゃんは優しいんだね。だけどみんなに優しいんだ。麻美華先輩にも綾音先輩にも。あの、ごめんなさいお兄ちゃん」
彼女はペコリと頭を下げる。
「わたし我慢できないって思ったの。麻美華先輩と綾音先輩とお兄ちゃんが生徒会に入って、わたしのいない生徒会でお兄ちゃんがずっとあのふたりと一緒だって思ったら、もう頭がどうにかなりそうで。だけどわたし、お兄ちゃんを信じる。麻美華先輩とか綾音先輩とか、どんな美女軍団に囲まれてもお兄ちゃんなら信じられる。だから、さっきはごめんなさい」
「……と言うことは、やっぱり立候補はしないんだ」
「そうだよ。だってわたしはお兄ちゃんとのこの生活を絶対守るんだ。そのためにはもっと貯金が必要なんだよっ!」
麻美華は手練手管を弄して礼名を生徒会に引き込もうとしている。礼名が何度断っても全然諦めない。しかし礼名も強情だ。彼女の思惑に乗るつもりはサラサラないらしい。
しかし、だ。
「立候補しなくても倉成さんが推薦したら、結局引き込まれてしまうんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。礼名にも考えがあるんだから」
「だけど、僕は生徒会を手伝うって言ってしまったんだけど……」
「きっと仕方なく、なんでしょ?」
礼名は一歩歩み寄る。その大きな瞳は僕の視線を釘付けにする。
「でも嬉しかったな。お兄ちゃんが礼名を綺麗だって誉めてくれて……」
微かな甘い香水の香りが漂ってきて、鼓動が瞬時に跳ね上がる。
「わたしはいつか妹を卒業して、お兄ちゃんのお嫁さんになるからね」
「妹って卒業できるのか?」
「あはっ、それもそうだね」
普段の明るい笑顔を見せた礼名は後ろ手を組んで窓の方へと歩み寄る。
そして夜空を見上げると、ゆっくり呼吸を整えた。
「だけど礼名は本気だからね」
* * *
翌日、いつも通りに登校すると学生鞄を開ける。
一時限目は数学、担任の小田先生の授業だ。
教科書とノートを取り出すと隣の席から声が掛かった。
「どうだった? 礼っちは覚悟を決めてくれた?」
「えっと、残念ながら断るつもりみたいだけど」
長い金髪が揺れ、驚いたように倉成さんは僕を見る。
「えっ! わたしの策から逃れる手段はないはずよ。どうあがいても礼っちは副会長よ」
僕も色んな方法を考えたけど、礼名が生徒会を逃れる手段はないように思えた。どんなに悪辣で下品な選挙演説を打ったとしても、礼名が信任投票に落ちるとは思えない。
副会長を逃れる方法ならある。一年の笹塚さんあたりを副会長に推薦した上で、自分は生徒会長に立候補すればいいのだ。しかしこの場合、副会長ではなく会長になってしまう恐れがあるし、麻美華が勝ったとしても会計に指名されたらそれまでだ。
文化祭のステージで麻美華が弄した策によって、麻美華が会長、礼名は副会長で決まりと言う空気は学校中を支配していた。
「諦めが悪いわね、礼っち。逃げ道なんかないのに……」
ガラガラガラ……
麻美華がそう呟いた瞬間に、予鈴より早く小田先生が入ってきた。
「神代いるか! おい、ちょっと来てくれ!」
慌てたように教室へ入ってきた先生は僕を手招きすると急いで廊下を歩き始める。
「どうしたんですか? 小田先生」
「どうしたもこうしたも、ともかく校長室へ来てくれ! お前の妹さんが退学届けを出してきたんだ!」




