1-4 怪異顕現
激闘を終えた後の校舎は、普段以上に静かに感じる。それに疲労の所為か、熱に浮かされたような浮遊感があった。
「それで、敦賀さんの処遇なんだけど……病院に連れてった方がよくない? でも、医者にどう説明すりゃあいいんだろう」
俺は敦賀さんを横目で見ながら、小隈さんに尋ねた。強く殴りすぎたから骨折の心配がある。さすがに放置してさよならっていうのは心が痛む。病院に連れて行かないわけにはいかないだろう。
「近くに学校の息のかかったところはあるから、行くならそこに……」
「お気遣い……なく」
小隈さんの言葉を遮ったのは、敦賀さんだった。声色は弱々しいが、根っからの勝気さは失っていないようだった。もう普段の調子をいくらか取り戻したらしい。
「あなたたちの……手を借りるまでも……ありませんわ……」
「殴っといてなんだけど、無理してるようなら引っ張ってでも連れてくよ」
すると敦賀さんは何がおかしいのか、小さくくすくすと笑った。
「ふふっ……言葉通りの意味ですわよ……」
ちょいちょい、と小さく手招きをしたので、身を屈めて近づこうとした。
だが、
「ちょっと……迂闊に近づいちゃ」
と、小隈さんに肩を掴まれ引き留められた。
「はっ……いまさらそんな狡い真似……しませんわよ……」
「どうだか」
「あはは……まあそんなに警戒しないでも大丈夫だよ」
二人の犬猿っぷりに苦笑しつつ、俺は敦賀さんの言葉を信頼して傍に寄った。警戒する気持ちもわかるが、彼女のプライドの高さからして心配はないだろう、と判断したのだ。
「……ふん」
俺が近寄ると、小隈さんは面白くないのか、そっぽを向いてしまう。
そして、その時に――彼女とのリンケージが、ほんの少しだけど弱まった気がしたのだ。
ただ繋がっている間は何も感じないのに、突然流れ込んでくる力が減少したようだ。
(微かな変化も筒抜けってことか。こりゃ一度繋がったら隠し立ては無理だな)
リンケージは信頼関係によって前後すると聞いていたが、こうも露骨にわかるということに驚いた。まるで心を読む能力まで手に入れたような気分だ。
ということは、同時に……自分が信頼しているかどうかも、どれだけ表面上隠したところで相手に如実に伝わる諸刃の剣だということだ。
(嘘をつかない真実の絆と言うべきか、無慈悲で厳正な閻魔様のリードと言うべきか……)
内心困惑しつつも平静を装い、敦賀さんのすぐ傍にしゃがみこんだ。
「…………」
彼女はシャツをまくり上げて、自分の腹部――つまり俺が殴打した部分――を指差した。
「それじゃ、失礼して……」
これ実際のところ、かなりやらしい光景だよなぁと思いながら、興味津々視線を向けると――白い肌の一部が変色し、痛々しい内出血の痕となっていた。
「ちょっと……いやらしい目で見ないでくださる……?」
からかうような口ぶりに、思わず俺も笑って、
「難しい注文だねぇ……」
としみじみ言った。どうにも彼女がわざわざ傷口を見せつける真意が読み取れない。
「いいから……見ていて……」
疑問を読み取ったかのような言葉に頷き、(小隈さんとのリンケージがさらに弱まるのを感じつつ)じっと俺は傷を凝視した。
「……?」
最初は気のせいかとも思ったが……段々と、変化していることに気が付いた。
「色が……薄まってる?」
「ご名答、ですわ……」
徐々に、意識しなければ気が付かないくらいにゆっくりとだが……傷が癒えている。
「ヒーリング、ですのよ……」
なるほど。まだ隠し玉があった、というわけだ。そう言えば、次第に顔色も良くなってきている気がする。
「わかりまして? 気遣い無用、ですのよ……」
「りょーかい、医者よりよっぽど有能だ」
まったく、一体どれだけの数の超能力があるのか。きっと俺の貧弱な想像力では思いもよらない、理解を越えた能力も存在するのだろう。
そんな能力であっても、互いにシェアすることが出来てしまうのがリンケージ、ということになる。自分が一人ぼっちの超能力者ではなく、そんな不思議な縁を結ぶ力を持っていた、ということに、改めて驚きである。
「はあ、なんだか今日は、どっと疲れた……」
緊張が解けたせいか妙にふわふわとした気分だ。こんな気分は初めてだ。
「……いや、待てよ。何かがおかしい」
とても微かにだが、かちゃかちゃという音が聞こえた。騒動に気が付いた居残りの教師の足音か?
そう思って警戒していると、しかし、物音は廊下の先や階段の方ではなく、教室の方から聞こえてきた。
「なんだ……?」
どうにも落ち着かない。
謎の物音は、次にすぐ隣の教室でまで聞こえ始めた。誰かが残って戦いを見ていたとは思えない。では、このかちゃかちゃという、物同士がぶつかり合うような音はなんなんだ?
周囲を見渡しても、特にこれといって気になるところはない。せいぜい小隈さんが退屈そうに紙を広げたり丸めたりしているだけだ。
「……ちょっと! 何のつもり……?」
「へ?」
敦賀さんの抗議というか非難に視線を戻すと――彼女の体が、浮いていた。
「追い打ち? まだやるというなら……私も容赦はしませんわよ」
そう言って彼女は身を起こそうとするが、宙に浮かんでいる所為か、あるいは傷の所為か、上手く動けないようだった。
まるで水中に居るかのように、髪がふわりと広がっている。それに、被せていた制服やスカートも、ふわふわと広がり、そのまま風船のようにどこかへ行ってしまいそうになっていた。
「いや、俺は何もしてないよ。……つーか、俺も困ってるんだけど」
謂れのない抗議には、さすがに反論せねばならないだろう。
なぜなら、俺の体もふわふわと浮かび始めていたのだ。
「じゃあ……」
俺と敦賀さんは打ち合わせたかのように、一斉に小隈さんの方を見た。
「……? 何、二人してふざけてるの?」
「よくもまあぬけぬけと……一目見たときから陰気だとは思っていましたけど、まさかここまで陰険な方だとは、存じ上げませんでしたわ!」
小隈さんもまた、謂れのない怒りをぶつけられ、カッとなって怒り出した。
「は、はぁ!? 私、何にもしてないし!」
そう、そのはずだ。
「あなた、透さんとリンケージしてサイコキネシスが使えるようになったからって……」
「いや……違う」
「え?」
――俺は、自分の能力について、少なくとも覚えたての小隈さんよりは知っているつもりだ。
あくまでも俺の能力は物体を操る能力であり、それを応用して自分の体を持ち上げることで疑似的に浮かせることが出来る。
その時の感覚は、水中を漂うようなものではなく、柔らかい土台の上に立っているような妙な感触だ。
しかし今は、まるでプールの中にでもぶち込まれたような、独特の浮遊感がある。この感じは、俺の能力ではありえない。
「一応確認しておきたいんだけど……二人とも、例えば……そうだな、あるのかわからないけど、物体浮遊とか、飛行とか……そんな感じの能力って持ってたりしないよね?」
その質問に二人は訝ったが……しかし、すぐに何かを察したようにハッとした表情へと急変する。
「ない」
「私も、ですわ。……ということは……」
敦賀さんと小隈さんは深刻な顔で見つめ合った直後、すぐに周囲を忙しなくきょろきょろと見まわし始めた。俺は完全に置いてけぼりだ。
「え? 何事? まさか……別の超能力者!?」
「違う……けど、これは」
「ええ、間違いなく……」
――ドンッ。
「……何、今のお――」
「危ないっ!!」
何か鈍いものがぶつかるような音に振り向こうとした瞬間、小隈さんが叫んだ。
「……ッ!!」
「うぇっ!?」
突如、俺は敦賀さんに腕を掴まれて――、
――直後、数メートル離れた別の教室の前に居た。
「ほら、しゃんとなさいな!」
凄い剣幕でいきなり叱咤された。が、何が起こったのかすら、わかっていない。
「え? 何? なにご……と……!?」
自分が敦賀さんと共に瞬間移動させられたことに気が付き、動揺している最中、さらに混乱を加速させるものが目に飛び込んできた。
まず感じたのは――丸くて白いな、という何の捻りもない印象だった。
そして、それから――宙に浮かび壁に引っ付いたそれが、細く……異様に長い二本の腕を備えていることに気が付いた。
何より、無機質でゴムのような、光沢のない白い肌を持つそれが、ぐるりと動いた瞬間――生き物なのだ、と脳が判断を下していた。
「――テケテケだ」
俺は廊下に浮かぶその化け物を見て、自然とそう呟いていた。
「ちぃっ!」
宙に浮いた状態で、敦賀さんは俺の腕を掴んだまま、化け物を挟んで分断された小隈さんを睨んだ。
化け物は壁に土下座するかのように腕をくっつけると――体を壁に押し付けぐにゃりと潰れた大福のようにひしゃげた。
なんだかその動作は――力を溜めているようにも見えた。
「ふッ!」
得体の知れない怪物が行動を起こすよりも早く――再び光景が一瞬で切り替わり、目の前すぐに小隈さんの顔が現れる。
「!?」
突然のことに小隈さんは、俺と敦賀さん、それから化け物を慌てた様子で交互に見つめるが、
「逃げますわよ!」
と、敦賀さんが言って小隈さんを掴んだ直後には――まるでチャンネルを変えるかのように、景色が点々と移り変わった。
……テレポートには、当分慣れそうにない。
「はあっ……はぁっ…………」
……まるで先ほど俺と小隈さんが逃げ出したのと同じように、再び空いている教室へ逃げ込んだ。見回りの先生がうろついている頃であり、見つかると非常に面倒なことになるだろうが――そんなことを気にしている余裕はなかった。
頭の中で俺は、脳裏に焼き付いた白い影の姿を反芻していた。あんなものは生まれてこの方見たことがない。生き物だと咄嗟に思ったが、そもそもアレは……なんだ?
「はぁっ…………ふぅー……」
「ごめん、助かった」
肩で呼吸する敦賀さんに心からの感謝を告げる。傷口の痛みと、恐らく連続でのテレポートによる疲労の所為だろう、額には玉の汗が滲んでいる。
「ほっ……本当、ですわよ……」
ほとんど余裕のないやつれかかった表情で、力なく笑った。ハンカチを取り出すと、せめての気遣いに俺は汗を拭きとる。
「…………あ、ありがとう」
小隈さんは「言うのは癪だけど」という感じだったものの、視線を逸らしつつ、それでも礼を述べた。
「さすがに……アレ相手だと、一人じゃ……荷が重いから…………あなたでも、居ないよりは……マシですものね……ふふっ」
こんな時でも強がりな態度だけは崩さない。さすがの小隈さんも、怒りはしなかった。
「あれが……クラッカー、ですわ……」
「は? クラッカー? 何それ」
「……ああ、まだ説明してませんでしたわね…………小隈さんに邪魔されなければ、私、とっくに済ませていたはずなのですけれど……」
「なっ……ぐぅっ」
小隈さんは嫌味に反論しようとしたようだが、文句を言っている場合じゃないと理解したのか、なんとか言葉を飲み込んだようだった。
「実は……私たちは、二つの任務を命じられて参りましたの。一つは、あなたの勧誘……。もう一つが……クラックの収束です……」
「クラックって言うのは……ある意味では、私たちと同じ。リンケージの展開が失敗した結果、いろいろあって、異世界による浸食が引き起こされる現象」
「言ってしまえば……災害みたいなものですわ。浸食が引き起こされると……先ほどの無重力みたいに、異世界のルールが適応されることになります……。そして、それを止めるには……リンケージの核となるカーネルを破壊するしかない」
「……そのカーネルを持ってるのが、さっきの白い怪物。異世界の生き物……らしい。詳しい説明は、ちょっとしてる暇、ないから」
交互に話す二人の説明を受けて、なんとか俺は状況を呑み込む。
「つまり、あいつを倒さないと……」
「異世界による浸食が進行して、世界が大変なことになる」
非常に端的な表現だったが、だからこそ身に迫る危機感があった。
そして、そこまでの話を聞いて、ようやくひっかかっていたことに納得できた。
「……そうか。二人とも放課後の怪談に付き合ってくれたのは、俺の能力の確認と同時にクラックに関する情報収集でもあったわけか」
「ふふ……そういうわけ。わざわざ調べる手間が省けて……幸いでしたわ」
そう答える敦賀さんは小さく笑っていたが……依然として辛そうだった。
「敦賀さん。傷はあとどれくらいで癒えそうなの?」
傷口に手を当てながら、彼女は少し考えているようで、間をおいてから口を開いた。
「……完治、となると……三〇分以上はかかるでしょうけど……。とりあえず、動けるようになるだけなら……一〇……いや、五分で、どうにか……」
「……こんなことになるんだったら、もう少し手加減するべきだったよ」
今更すぎる半分冗談で半分本音を吐き出した。すると敦賀さんは、
「ホントですわよ……まあ、私相手に手加減できるなんて……思えませんけどね」
と、苦笑した。
「それにしても、あんな怪物どうやって倒せばいいんだ? 普段はどう相手してるの?」
いずれにせよ戦わねばならない以上、エキスパートである二人に意見を聞いてみた。
しかし、
「…………」
「あー……」
小隈さんは黙ってうつむき、敦賀さんは困ったように視線を逸らしながら声を漏らした。
「えっと、どうしたの?」
俺が困惑していると、二人は顔を見合わせて、それから「仕方がない」と言った感じで敦賀さんが口を開いた。
「大変申し上げにくいのですけど……私も、陽菜さんも……実際にクラックを目撃するのは、これが初めてですの」
「…………マジで?」
「ごめん……マジなの」
そりゃあ……言いづらいわけだ。思わず、ひきつった笑いになってしまう。
つまり、知識は俺より上だが、経験値としてはあまり変わらないというわけだ。絶望的な状況に磨きがかかってきた。
「となると……本格的に対策を練らなくちゃ勝ち目は薄いな」
顎を触りながら考えようとすると、敦賀さんが、
「でも……あまりわからない相手に策を練りすぎると……却って狙いが外れたときに危なくありません?」
と、もっともな指摘をした。
「いや、それは確かに一理あるんだけど、既に結構わかっている部分もある」
「お聞かせ……願えます?」
「うん」
俺はなるだけ力強く頷いて見せる。
「一緒に考えてほしいんだけど……まず、あの化け物が――とりあえず、テケテケと呼ぶことにするけど――出現した時、最初に気が付いた異変はなんだった?」
二人に向かって尋ねると、小隈さんが先に、
「えっと、無重力?」
と答えた。
「うん。恐らく奴は無重力下で実力を発揮する生物ということがわかる。と言うことは、無重力慣れしていない俺たちは、圧倒的に不利な状況で戦うハメになる」
「……改めて聞かされると、うんざりしますわね……」
敦賀さんは言葉通り、心底うんざりとした表情をしてみせた。オーバーにやっているが、実際問題辛い状況なのは間違いない。
「質問があるんだけど、テケテケを無重力下から引きずり出すことは可能なのかな?」
さすがにクラックについての知識を持ち合わせていない俺では、そのあたりのことがわからない。専門家の二人に尋ねるほかなかった。
「多分、無理だと思う」
「ええ……でしょうね。浸食現象はカーネルを中心として発生しますから……テケテケは常に無重力の中央に居る、ということになりますわ……」
小隈さんと敦賀さんは、あっさりと冷たい事実を突きつけた。
「じゃあこっちの有利な条件下で戦う、っていうのは無理か……」
相手がアウェーとなる条件で戦えれば一番よかったのだが、そう上手くはいかないようだ。だがこんなことで気を落としている場合ではない。
「そうだな、次は……相手の特徴だ。気が付いたことを列挙してほしい」
「特徴?」
「うん、特徴。身体的特徴、行動的特徴……まあそのあたりかな」
二人は少し考え込む。
先に口を開いたのは、敦賀さんだった。
「足がない、とか……蛇腹に折れた細長い腕、とか……そういうことですの?」
小首を傾げて尋ねられたので、俺は頷いて答える。
「そう、そういうこと。小隈さんは、何か気が付いたことある?」
「え? う、うーん…………あ。すごい勢いでタックルしてくる」
思い出したように小隈さんが答えた。
「うん、それも当たりだ」
「それで……何がわかるというんですの?」
敦賀さんは答えがわからないことに焦れたようで、答えを急かしてきた。さすがに勿体ぶりすぎたか。
「ごめんごめん。……つまりさ、特徴と行動を考えることで、ある程度相手の行動予測が出来るんだよ」
俺は考えを語る前に、テケテケの姿を観察していて気が付いたことを述べる。
「まず、奴には足がない。無重力下では歩く必要がないから、元々持っていないのか、あるいは退化したんだろうね。その代わりに、長く伸び縮みする腕を手に入れた。恐らく、作業用のマニピュレーターであり、肉体を固定するためのロープのような役割もあるんだろうね」
黙って俺の意見に首肯する二人を傍目に、俺は饒舌に続ける。
「そして、あの高速タックル。壁面にくっつけた腕を勢いよく突き出すことで弾丸と化す、無重力ならではのシンプルかつ効果的な攻撃法だ。恐らくテケテケの体は頑丈に出来ているんだろう。壁に体を押し付けていた時、ぐにゃりと変形していたところを見ると、柔軟で厚みのある皮膚によって――あるのかどうかはわからないけど――臓器等の重要な器官は保護されているようだ。つまり攻撃する際には、バットみたいな面での物理攻撃はあまり意味をなさないだろう。テケテケを殺すには、どこか弱点となる部分に点の攻撃を仕掛けるしかない。……もちろん、敦賀さんのエレキネシスが効果的なら話は別だけど」
言いながら俺は敦賀さんをチラリと見る。
「だといいんですけれどね……」
こればっかりは試してみなければわからないから、ひとまず置いておく。とりあえず、物理攻撃を前提とした計画の話を続ける。
「んで、実際に攻撃するとなったら……小隈さん。君の能力で武器を作ってほしい。大きな紙の予備はある?」
「えっと、鞄に……あ」
小隈さんのはっとした表情を見て、俺と敦賀さんも「あ」と言葉を漏らした。
「……さすがにあの状況じゃ、二人を連れてくるので精一杯でしたわ」
敦賀さんが口を尖らせながら、ぷいっと横を向いてしまった。俺だって別に責めるつもりはないが……とはいえ、慰めても文句を言われるだけだろうから、あえて放っておく。
「んー……こんな状況だし、仕方ないよなぁ」
俺は立ち上がると、ロッカーから一本の箒を取り出した。何の変哲もない、適度に使い込まれた自在箒だ。
俺は箒の柄を突き出して、
「小隈さん。これの先端、削ってもらえるかな。槍を作りたいんだ」
と、頼んだ。
「わかった」
すぐに小隈さんは手持ちの紙を"プリズム"でブレード状に変化させると、まるで鉛筆でも削るかのように手際よく槍を作り出した。
「ん、ありがと。それじゃ仕上げお願い」
「うん」
彼女が箒を握ると、たちまち尖った木の棒は、恐るべき金属の槍へと変貌を遂げた。
その光景を眺めながら、敦賀さんは、
「案外、私が思っていたよりは……便利な能力ですのね」
と、ちょっと素直じゃない褒め方をした。
「さて。あとは……この槍を差し込みやすい穴が、テケテケにあればいいんだけど……」
「穴ねえ……」
「うん。目、口、耳、鼻、肛門、陰部……どれでもいいから、目に付く場所にあるといいんだけどね。もしあれが、そういう普通の生物の特徴を持ち合わせているなら、だけど」
化け物に常識を期待する――なんともまあ、馬鹿馬鹿しいことだ。だが、最低限は常識的な怪物でないと、俺たちに勝ち目はないのだ。
「……先ほど目撃した時は、そんなに観察している余裕がなかった、と言うのが正直なところですけれど、とりあえずそれらしい部分は気が付きませんでしたわ」
「私も、動転しちゃって……ごめん」
「いや、気にしても仕方ないよ。こうなったら、次に遭遇したときに見つけるほかないし、最悪無理矢理突き刺すしか……!?」
――突然、周囲の机や椅子が浮かび出すと共に……俺たち三人の体も床から離れだす。テケテケが近づいている!
「クソッ、気付かれたか!?」
逸る俺とは対照的に、落ち着いた様子で小隈さんは、
「もしかすると……」
と、重々しい口ぶりで呟いた。さらに、その続きを敦賀さんが引き取って答える。
「クラックが進行してるんですわ……ここに、三人もシェアード・サイキックが集まってしまった所為で」
「どういうこと?」
「クラックの厄介な性質に、カーネルに反応してリンケージが強化される、というのがありますの。多分、今まではあなた一人だったから緩やかな変化だったのでしょうけれど、ここに来て私たちが転校してきた結果、一気にクラックが進んだ、というわけです」
「……それも見越した上で、私たちが派遣されたんだけどね。じわじわ異変が進むくらいなら、一気に進めてちゃちゃっと片付けろ、ってことみたい」
「いいんだか悪いんだか……」
俺は苦笑する。だが一人で相対するよりは遥かに勝機が高い分、幸運だと言える。
「とにかく、ひとまずの作戦は――作戦なんて呼べるようなものじゃないけど――隙を見て槍を突き刺して倒す。なんとも原始的な手だけど……。他にアイデアがあったらその都度提案する。で、だ」
言葉を切ると、二人はじっと続きを待った。
「戦力を冷静に分析すると……まず、この状況で一番動けるのは、無傷の俺だろう。だけど、俺には戦闘経験がない。となると、二人の内比較的怪我や疲労がマシなのは小隈さんだ。君が前衛として戦うべきだ……と俺は思う」
俺の提案に、小隈さんは神妙な顔つきになる。すぐに決意した瞳で、
「……わかった」
と、頷いた。
「それで敦賀さんには、多様な能力を使って補助に回ってもらいたい。電撃が有効かどうかはわからないけど、撹乱の効果は見込めると思う。何より、いざと言う時にはテレポートで戦線離脱が出来る。最悪、小隈さんがやられても、俺が囮になって君を逃がすくらいはできるだろう。君たちの本部から人を呼ぶことが出来れば、まあ、どうにかこの騒動を終わらせられるだろうし……」
「ちょっと……あなた、自分が何を仰っているのか、わかっているの?」
異様なものでも見るかのように、眉をひそめ目を見開いて、敦賀さんが俺に詰め寄った。もっとも、無重力下ではうまく動けないようでその場でくるりと回り出すだけだったが。
「非道なことを言っている自覚くらいあるさ。それに、君に罪悪感を抱かせることにもなるだろうね」
「だったら――」
怒気を孕んだ彼女の言葉を遮るように、俺は言い放つ。
「でも、それでも全滅よりはマシだ。この学校がダメになって、浸食が広がった所為で俺の家族や友達が犠牲になるよりは……君一人に後悔を背負わせる方が、遥かにマシだ」
「…………」
敦賀さんは絶句していた。
だがやがて、諦めたように笑って、
「酷い人ね」
と、呟いた。
「あはは、こんな状況で、どっか麻痺しちゃってるんだと思う。……それで、戦いになったら、俺は二人の補助に専念する。特にこの無重力状態じゃ、普通に移動するのもままならないだろうしね。そこで、俺の出番だ」
教室の柱や窓の淵に掴まって体を繋ぎ止めていた二人が、不意に空中でピタリと止まる。
「俺の"ウィンダム"で、何とかテケテケの攻撃から二人を守るよ」
あえて自信たっぷりに言った俺は、浮いたままゆっくりと回転しながら仁王立ちをして見せた。そのマヌケな姿に、二人はくすくすと笑った。
「あんまり期待しないでおく」
そう答えた小隈さんとのリンケージが、少しだけ強まったような気がした。
*
テケテケから逃げ延びて十分ほどが経過した。
もう居なくなってしまったのか、という懸念の必要はなかった。なぜなら、俺も、小隈さんも敦賀さんも、周囲の固定されていないもの全てが依然として手から離れた風船のように宙を漂っているからだ。
「テケテケがどこに居るかって、わかったりする?」
ダメ元で尋ねてみるが、すぐに敦賀さんが、
「さすがにそこまで便利な能力は持ち合わせていませんわ」
と呆れたように答えた。
「周囲に警戒しつつ、探すしか――」
「――……ぁぁああああ……!!」
「!」
遠くから聞こえた曖昧な音は、しかし紛れもなく絶叫だった。
「今のって!」
「多分、見回りの先生が……いずれにせよ、巻き込まれたのは間違いないね」
同時に――酷な話ではあるが――好都合だ、と思った。叫び声を辿れば、すぐにテケテケの居所に辿り着くことができるからだ。
「急ごう」
普通に歩くことができない無重力の廊下を、"ウィンダム"で三人分の体を引っ張りながら、声の聞こえた方角へと飛んだ。
移動している間にも、
「ぅわあああああ!!」
という悲痛な叫びが夜の校舎内に反響した。
テケテケの敵意の有無は判然としないが、恐らく近くに居る動くものは無差別に襲っているのだろう。ただの教師で太刀打ちできる可能性は万に一つもありはしない。これ以上犠牲者が増える前に、倒さなくては。
直進、途中を右、階段を上がり、Uターンしてまた上がり……自分が魚にでもなった気分で、虚空を泳ぐようにして風景を見送ってゆく。
皮肉なことに"ウィンダム"を使って高速移動するにあたり、却って無重力という状況は都合がよかった。重力がない分、普段よりも遥かに負担が少なく済むため、体力を温存することができるのだ。
そして、いよいよ事件の根源に辿り着いた瞬間――、
「――うわっ!?」
蒼白な肉塊が見る間に視界を満たす。それは紛れもなく、あのテケテケが弾丸の如く迫ってくる光景だった。
「うぉおおおっ……とぉっ!?」
咄嗟に"ウィンダム"で地面スレスレまで体を落とし低空飛行、まるで氷のサーキットを駆け抜けるボブスレーのように廊下を滑ってゆく。すぐ傍には力なく倒れ宙をふわふわと舞う見覚えのある男が三人。先生だ。テケテケにやられたようだが、死んではいないようだし、腕や首も変な方向に曲がっていなかったから、とりあえず"ウィンダム"で遠くへ押しやる。おっさん三人が空中を漂いながら飛んでゆく光景は、非常にシュールだ。
滑りながら、俺は体を回転させてテケテケの方へと向き直った。俺以外の二人はもう姿勢を起こして臨戦態勢を取っていた。
「…………」
空中で、異様なサイズの白いゴムまりが静止していた。いや、位置こそ動いていないのだが、そいつは惑星のようにその場で縦に自転しているのだった。
……改めて俺は、テケテケを観察する。
かつて男子学生が襲われた「ボールのようなもの」という証言に相応しい、ほぼ完全な球体。
だが左右の中心には、まるで主軸のようにして一対の腕がある。その腕は蛇腹に折りたたまれているため全長は計り知れないが……少なくとも三メートルはありそうだ。
腕の先端、手の位置にあるものもまた奇妙だった。間違いなくそれが手だとわかるものの、明らかに人のそれより指の本数が多い。花が開いたような、あるいはタコのような手は、放射状に十本近く並んでいるようだった。指の先端は平たい。先ほど手をべたりと壁面に密着させていたことや、主に固定の役割を担っているであろうことから考えると、吸盤のような性質があると予想できる。
そして、これは先ほど気が付かなかったのだが――全身にはビー玉ほどのごく小さなレンズ状の器官が等間隔で点在していた。これは……目、だろうか?
以上の目立つ特徴の他に弱点になり得るものを探すが――しかし、口・耳・鼻孔・性器・肛門に該当しそうな穴や突起は見つからない。
(そういうのが不要な生き物なのか、あるいは体内に隠しているか……?)
さすがにいくら考えても答えは出ない。精々、簡単に槍が皮膚を突き破ってくれて、あっさり殺せる相手であることを祈るばかりだ。
「……どうしたんでしょう?」
テケテケの様子を見て、敦賀さんが不思議そうに尋ねた。
「攻撃してこないな……」
コマのようにその場でくるくると回るだけで、何かをしてくる気配がない。
「こっちの出方を伺ってるのかな」
「どうする? 先に仕掛ける?」
小隈さんの提案に俺は少し考える。
(ひょっとして敵対の意思はないのか?)
そう思いかけてすぐに、どの道あれがどんなことを考えていたところで、倒さないことには異常現象が解決しないことを思い出し、自分の思考を振り払うように首を振る。
「……とりあえず、遠距離攻撃で様子見だ」
「わかった」
小隈さんは頷くと、制服の内ポケットから折り紙の手裏剣を取り出し、すかさず"プリズム"でコーティングして本物の手裏剣へと変化させる。
「本領発揮、ですわ」
敦賀さんはどこか嬉しそうに言いながら、両手の間に電撃をバチバチと走らせる。
「っ! 来るぞ!」
不穏な気配を察したのか、テケテケが急に動き出す。
テケテケは壁に右手を突き出すと、腕を軸にして振り子のように上下運動を開始。そして次の瞬間――唐突に向かい側の壁へ激突しバウンド、ピンボールの要領で壁と壁の間で反射を繰り返しながら、凶悪な高速ジグザグ軌道で俺たちへと迫る。
「はぁあっ!」
敦賀さんの両手から閃光が放たれ、バチバチという音を立てながらテケテケを迎え撃つ。
電撃を目の当たりにしたテケテケは、一瞬動きを止めると――俊敏に腕を伸ばして天井を掴み、自らの体を引き寄せて回避した。
「なっ!?」
自慢の攻撃が回避されたことに敦賀さんが吃驚した。
(反射神経は高いみたいだな……。やっぱり点在する小さなレンズは目なのか?)
だとすると……非常に厄介だ。可視範囲や視力は不明だが、球状の体に規則的に並ぶレンズには、死角がなさそうなのだ。というよりも、死角をなくすためにあれだけの数の目があると考えた方が妥当だろう。
(ひょっとしてさっき急に動き出したのは、敦賀さんの電撃に反応したのか……?)
目があるならば、光に反応しても何ら不思議ではない。しかも奴は高速で迫る電撃を回避するほどの動体視力を持っていた。ならば、数撃ちゃ当たるを実践するまでだ。
「出し惜しみはナシだ。ガンガンやっちゃってくれ!」
「気楽に言ってくれますわねぇ……っ!」
再び敦賀さんが電撃を放出。今度は一発だけではなく、時間差で複数個所を狙い逃げ場をなくす。
「いやぁッ!」
すかさず小隈さんも手裏剣を投擲。しかもただ投げるだけではなく、妹さんの"ムーンライト"を利用して加速、さらに殺傷力を高める。
だがテケテケは、まるでスーパーボールの如く廊下を縦横にバウンドし、巧みに電撃を避けきってしまった。
しかし――チッ、というかすかな音と共に、テケテケは驚いたかのように、空中で急に軌道を逸らして天井に張り付いた。
「当たった……!」
小隈さんが小さく呟いた。その声には僅かながら歓喜が滲んでいるようだった。
彼女の言う通り……手裏剣の一つが、テケテケの体表を掠ったのだ。うっすらとだが、一筋の傷がついている。残念ながらその傷口からは、なんら体液はこぼれ出てこない。少なくとも人間の皮膚よりは分厚いようだ。
電撃と手裏剣では、比べるまでもなく電撃の方が圧倒的に速い。不思議なのは、それにもかかわらず、電撃は躱せるくせにそれより遅い手裏剣に当たった点だ。
もしかすると……光って目立つ電撃より、闇に溶け込んでいる手裏剣の方が認識しづらいのかもしれない。
そして、小隈さんが"プリズム"で変化させた手裏剣で傷を付けられるということは、同じ能力で加工した槍でもダメージを与えられる可能性が高い、ということだ。
とはいえ……あれだけ高速かつ複雑に動いている相手、しかも死角がなさそうな相手に槍を突き刺すことは容易ではない。
「チィッ……一発くらい当たっておきなさいな!」
攻撃が当たらない苛立ちを露わにしながら、敦賀さんは電撃を打ち続ける。バチバチという音と共に廊下が白く染まる。
その時だった。
テケテケは先ほど同様に電撃を回避するが、その動きには変化があった――巧みに跳ねながら、どんどん距離を詰めてこちらへと近づいてきている!
しかも狙いは明確で、俺でも小隈さんでもなく、敦賀さん目掛けてまっしぐらだ。目立つ電撃攻撃が仇となったか?
――ごうっ、という風切り音と共に、砲弾の如くテケテケが突進する!
「おっとぉ!」
「ちょっ……きゃあああ!?」
すかさず俺は"ウィンダム"によって敦賀さんを天井スレスレへと持ち上げる。
……だがテケテケはなおも止まらず、寸前まで敦賀さんが立っていた場所にぶつかるや否や、勢いそのままに垂直急浮上した。
「うぉお、アブねえ!」
何とか当たらないように、まるでテケテケ同様の物理法則を完全に無視した軌道で敦賀さんを動かす。
「に、人形遊びみたいに振り回さないでっ!!」
自らの意思と関係なく乱暴に体を操られて、憤慨気味に敦賀さんが叫んだ。
「喋ると舌噛むから! 文句は後!」
「もういやああああ!」
俺だって本当は蝶よ花よと丁重に扱ってあげたいが、残念ながらそんな余裕はない。手を抜いたら、それこそ物言わぬ人形にされてしまうことだろう。
「小隈さん、攻撃して!」
状況について行けず、ぽかんとしている小隈さんに声をかけると、びくりと一瞬肩を震わせてから、慌てて、
「う、うん。たあっ!」
と、数枚の手裏剣を取り出して投げつけた。
……こう言うと怒られそうだが、敦賀さんを追っている間はテケテケの動きも単調になっている。行き先が予測できる分、先ほどよりも的としては狙いやすいだろう。
ヒュン、ヒュン、ヒュン……と時間差で手裏剣が舞い飛ぶ。
一枚目がテケテケに突き刺さる――と思いきや、寸前になってテケテケは飛び上がって壁に密着。手裏剣はそのまま廊下の奥へ……いや、躱された所為でその軌道上に居た人物目掛けて飛んで行ってしまう。
「やべっ!」
「あっ……」
俺と小隈さん、気が付いたのはほぼ同じタイミングだった。
「ひぃっ!?」
高速回転する手裏剣の一枚が、敦賀さんの頬を掠め、そのまま髪の毛を数本切り落としてから虚空へと消えて行った。
慌てて俺は敦賀さんに当たる寸前の一枚を"ウィンダム"でキャッチ。小隈さんも"ムーンライト"を操り残りの一枚の軌道を逸らしたことで、事なきを得る。
「こんのヘボピッチャー! 私じゃなくて化け物を狙いなさいな! はっ……もしや、どさくさまぎれに私を狙ってやがりましたわね!?」
頬から一筋の血を流し――といっても赤い玉になって浮かんでいるが――ながら、敦賀さんは語気を荒げ抗議した。挑発しているのではなく、本気で文句を言っているようだった。
「は、はぁっ!? 偉そうにしときながら一発も当てられない奴に言われたくないし! ていうか、私、あんたと違ってそんなに性格悪くないもん!」
小隈さんは小隈さんで、売り言葉に買い言葉といった様子で反論した。彼女も素の部分丸出しで憤慨している。
「やめてぇ! こんな状況でケンカしないでぇ!」
剣呑な状況でもこれだけ普段通りに言い争えるのはすごいことだなぁ、とある意味で感心しつつ、こんなマヌケなケンカの所為で死にたくない俺は、ちょっと泣きそうになりながらも何とか場を治めようと仲裁を試みる。
「口論でも殴り合いでも、後でやる分にはもう自由にやってくれていいから! お願いだから、今はテケテケとケンカして!」
……実際、精神的な余裕がないのだろう。だから普段よりも反射的に文句を言ってしまうのだろうな、と思う。俺も普段であればゲラゲラと笑いながら二人のやりとりを眺めていただろうが、今はとてもそんな状況ではない。
こんなくだらない応酬をしている間、テケテケは、まるでミラーボールのように片手で天井に張り付いたままじっとしていた。何をしようとしているのかはわからないが、俺たちの様子を伺っているような気がする。
(……意外と、好都合かもしれないな)
俺は動かないテケテケを見ながら――幸いにも、思いがけない形で挟み撃ちの形となったことに気が付く。テケテケを挟んで廊下の奥に敦賀さん、手前に俺と小隈さんという状況だった。
敦賀さんの電撃で撹乱し、その隙を突いて本命である小隈さんの投擲攻撃を叩き込んで体力を削る作戦に切り替えた方がいいかもしれない……そう考え、
「よし、挟みう――」
いざ伝えようとした時、
――ヒュンッ、と風を切りながら、テケテケが再び砲弾と化す。
しかも、今度の狙いは――敦賀さんではなく、小隈さんだ!
(クソッ! そっちはマズイ!!)
「小隈さんッ!!」
「うわっ……!!」
虚を突かれて出遅れた。俺は"ウィンダム"でなんとか小隈さんの体を引き寄せようとする。
――しかし、それよりも早く白い影が小隈さんへ激突する!
「ぐぅあぁ……ぁっ!!」
小隈さんは咄嗟に、腰から下げていた槍を自分とテケテケの間に挟み込み、防御を行った。だが勢いを完全に殺すことは出来ず、力負けして押し込まれた槍が腹に食い込む。これじゃあ思いっきり殴られたのとあまり変わらない。
「小隈さん! ……クソッ!」
急いで"ウィンダム"で小隈さんの体を引き寄せつつ、テケテケ目掛けて蹴りを入れる。闇雲な攻撃は当たることなく、奴はひらりと躱すとそれ以上深追いをせずに一旦引き、再び天井へと戻って行った。
「小隈さん、大丈夫!?」
俺はテケテケから視線を外さず、小隈さんとの間に割って入り尋ねた。もし、もう一発来ようものなら、今度こそ庇わなくてはならない。
「ごほっ……だ、大丈夫。戦える」
咽ながらも気丈に振る舞ったが、しかし、敢えてもう一歩踏み込んで尋ねる。
「小隈さん、怪我の具合はどの程度? 言っとくけど嘘はなしだ」
「ごほっ…………」
どうやら少し、話すのを躊躇しているようだった。だが戦力を正しく把握しないことには、策も立てようがない。
「お腹はちょっと痛いけど……多分、痣になって何日か痛む程度だと思う。けど…………その……右手が、ちょっとおかしい。捻ったのかも。……ごめん」
「いや、正直に言ってくれて助かる」
……そう答えたものの、実際厳しい。利き腕が使えないとなると、槍を突き刺す役は任せられない。となると、俺がやるほかないだろう。
そのためにはまず、敵の動きを止めなくてはならない。
先ほどの作戦会議で敦賀さんにテレポートについて尋ねてみたが、動き回る相手を捕まえるのはテレポートでも難しいという。となると、別の策が必要だ。
(何かいいアイデアは……ッ!?)
まるで思考を遮るかのようなタイミングで――テケテケが不意に天井から離れ、腕を伸ばす。そしてそのまま独楽のように勢いよく回転すると――まるで鞭のようにしなる腕が振り下ろされた!
「危ないッ!」
「わっ……」
それは明らかに小隈さんを狙った追撃だった。
これ以上はマズイ、と思った瞬間、考えるよりも早く勝手に体が動いて、小隈さんに抱きつくようにして庇っていた。
――バチィン! と、破裂音にも似た音が響いた。打撃は熱のような衝撃を伴って、背中を縦一閃に引き裂いた。
「っづぁああッ……!!」
かつて不良に顔面を力いっぱい殴られたことや、あるいは一度、能力による疑似飛行実験をした時に失敗して高所から落下して叩きつけられたことがあったが……その比ではない焼け付く痛みが、べっとりと張り付いた。
脳みそを焼き切るような痛みが走り、視界が明滅する。まるで背中に焼けた鉄の塊を押し込まれたような感覚に、意識が途絶えそうになる。
殴られた衝撃によって、俺は小隈さんに抱きついたまま、壁に激突する。ゴツン、という鈍い音は、多分小隈さんの頭か背中が壁にぶつかった音だろう。
「っつぅ……え!? は、箱崎くん!?」
ワンテンポ遅れて、小隈さんが俺の傷に気が付く。
「だ、大丈夫ですの!?」
そしてさらに、遠くから敦賀さんの声が聞こえた。普段なら大げさに痛がって甘えてみせるところだが……とてもじゃないが、無理そうだ。
「ぅうぅ……うぅうう……いってぇ……」
痛さのあまり、目の端に涙が滲む。こりゃあ当分、風呂もシャワーも無理そうだ。制服を突き破ってべロリと皮がむけて真っ赤に滲んでいるであろう背中の有様が、見えないにもかかわらずまざまざと目に浮かぶ。親や医者になんて説明したらいいだろう?
「え、ちょっと、ねえ! ど、どうしたら……」
小隈さんは、ただいたずらにおろおろと慌てていた。きっと俺の怪我への心配と、庇われたことへの罪悪感と、敵を倒さなくちゃという使命感と……そういうような感情が渦巻いて処理できていないのだろうな、とやけに冷静な分析をしていた。何か考えて痛みを誤魔化さないと、耐えられそうにない。
「て……テケテケを……俺は、いいから……」
「で、でも」
判断に窮する小隈さんを強く叱責するだけの余力はない。敵を倒さなければ、もっとヤバいことになるのはわかっているのだろうが、彼女は切り替えが素早いタイプではないということを、短いながらに理解していた。そしてそれが、ピンチを招いている。
「――くっ!!」
「ッ!?」
背後の声に小隈さんが振り向く。俺はと言えば――敦賀さんの声は聞こえたものの、まだ振り向くだけの気力が戻ってこないため、ただぼんやりと痛みに耐えながら小隈さんの匂いを嗅いでいた。ちょっと汗が滲んでいるけど、やっぱりいい匂いだ。できればこんな状況じゃない時に嗅ぎたかった。
「ぅぅぅぅう……つ、敦賀さんは……?」
「え? あ、その、テケテケが……今度はあっちを狙って……!」
ああクソっ、と俺は胸中で毒づく。最悪のパターンだ。
テケテケはまず敦賀さんを狙っていた。恐らく、電撃という最も視覚的に目立つ攻撃の所為だろう。しかし、途中で狙いを小隈さんに切り替えた理由は……テケテケにとって、小隈さんの手裏剣攻撃が厄介だったから、なのだと思う。
想像だが――テケテケはさほど視力そのものは高くないのだろう。あれだけ多くの目の一つ一つが、そんなに高い視力を誇るとは考えづらい。その代わりに動体視力が高く、光の強弱のようなわかりやすい現象には敏感なのではないかと思う。
だから電撃には対応できたが、夜の室内という光源に乏しい環境では、手裏剣のような飛来物は避けきれなかったのだと考えられる。もっとも、テケテケが俺たちと同じような視覚を持っている、という前提の話だが。
そして今、一応とはいえ小隈さんにダメージを与え(ついでに俺が一番のダメージを負ってしまい)足止めをすることができたために、再び敦賀さんに狙いを戻したのだろう。
(だが……それがわかったところで、どうにもならないな)
俺の分析が当たっていれば、テケテケの生態に関する第一人者にでもなれるだろう。しかしこの状況で肝心なのは、満身創痍の状況で、あいつをどうやって倒すか、だ。
「うぐぅぅぅぅう……!!」
「あ、無理しないで……」
小隈さんの制止を無視して(というか痛すぎて気にする余裕がない)、俺は無理矢理体を捻って敦賀さんとテケテケの方を見た。
「はぁっ……くっ……!!」
そこでは、縦横無尽に跳ね回りながら、腕を勢いよく振り乱すテケテケと、その攻撃を必死にテレポートで回避する敦賀さんの姿があった。
敦賀さんの顔には、汗と共に、明らかな疲労の色が浮かんでいた。連続でのテレポートによる疲労と、まだ完全には癒えていない腹の傷を抱えての戦いは、相当な困難を要するのだろう。
つまるところ――目に見えての劣勢だった。
「一か……八かだ…………ッ!!」
俺は暗闇を舞うテケテケの白い姿に視線を固定する。そして――見えない手を伸ばす!
「"ウィン……ダム"……ッ!!」
透明な力が、ついにテケテケに触れ――そのまま壁へと押し付ける!
全力で押し付けられたテケテケは、そのまま壁にめり込みながらもがく。
「い、いけぇ!」
小隈さんが叫んだ。その声と表情には、どこかすがるようなところがあった。
だが……俺はその期待に応えられそうにない、ということを悟っていた。
「くっ……押さえ……きれないっ!!」
俺が押し付ける力に拮抗するように、テケテケは両手で壁を掴んで体を押し戻そうとしていた。小柄な体でありながら、その力は俺の"ウィンダム"を上回っている。
「はぁっ……は――」
――不意に、敦賀さんの姿が消えた。
「――ぁっ……!」
直後、俺の耳元で荒い呼吸が響いた。テレポートしたのだ。
「あっ……あと、一分だけ、押さえ込んで、くださいましっ!」
ぜいぜいという息遣いでありながら、敦賀さんははっきりと俺にそう言った。その真意は測りかねるが……他にやるべきことが思いつかないため、従うことにした。
「頑張って……みる……。小隈さんも、お願い……!」
「え?あ、う、うん!」
言われてようやく思い出したのだろう、小隈さんも手を差し出すと――イミテーション"ウィンダム"によって加勢を行う。押さえつける俺の負担がいくらか和らいだ。しかしとてもじゃないが、押し潰して殺すことはおろか、数分押さえつけることさえ出来なさそうな抵抗感が伝わってくる。
「はぁっ……はぁっ……!」
「…………?」
敦賀さんの絶え絶えの呼吸が耳に入ったかと思うと……不意に、背中の痛みが薄らいでいることに気が付いた。脳に食い込み痺れるような激痛から、ただの――と言っていいのかわからないが――激痛にグレードダウンしていたのだ。半端じゃなく痛いが、今にも電源が切れそうになるほどの痛みではなくなっているのだ。
その間も、テケテケの抵抗は強まり……段々と透明な手が押し返されてゆく。
「はぁっ……!はぁあっ……!」
一方で、敦賀さんはフルマラソンを終えたランナーのような息遣いになっていく。
どうしたのだろう、と、そう思った瞬間――ようやくその理由がわかり、俺の口からは自然と感謝の言葉が零れていた。
「ありがとう……敦賀さん」
彼女は――俺の傷をヒーリングによって癒してくれていたのだ。
「はぁあっ……はぁあぁッ……!!」
自身も傷ついていながら――それでも、俺を助けてくれていた。背中の痛みが引いて行くのと同時に、俺の中で「絶対に倒さなければならない」という使命感が煌々と灯る。
「もぅ……だめ…………」
「敦賀さん!」
俺は倒れ込みそうになった敦賀さんを支えようとする……が、無重力状態の空間では、床に倒れることなく、ただ寝そべった状態で身を空中に投げ出すだけだった。
そしてテケテケも――いよいよ、見えない拘束から抜け出す寸前だった。
(考えろ! 考えろ! 奴の動きを止めて、殺す方法を……!!)
今は邪魔されず考える時間が、一秒でも欲しかった。俺は"ウィンダム"を緩めることなく、思考を加速させる。
「ぐぅ……!!」
小隈さんも必死に"ウィンダム"で押さえ込む。俺一人なら、もうとっくに抜け出されていただろう。仲間というものは――そして、リンケージというものは、本当にありがたいと痛感した。
(――リンケージ?)
俺は、自分の力ばかり使っていて……すっかりリンケージによって共有した"プリズム"の存在を忘れかけていた。
数十分前のことを思い出す――。敦賀さんの制服を拘束具とした小隈さんの能力。どうにかそれを利用して、また動きを止めることができないだろうか。
しかし制服では小さい。出来れば、奴の視界を塞ぐくらい大きな――。
「そうだ!!」
「えっ……!? くぅ……っ!!」
「ど、どう……か……しましたの……?」
小隈さんが俺の声に驚きながらも、敵を抑え込み続けている。気絶したのかと思った敦賀さんもか細い声で尋ねてきた。
だが答えるだけの時間は――もうない。
「うぁあ!」
ついにテケテケの力が上回って拘束を破り、自由を取り戻してしまったのだ。
奴はくるくると回転しながら様子を伺っている。きっと、不可視の攻撃を不思議がっているのだろう。とはいえまたこちらへ攻撃を仕掛けてくるのは時間の問題だ。
「小隈さん。とにかく、時間を稼いでくれ」
「何? どうする気!?」
「ゴメン、説明する時間が……待てよ……敦賀さん!」
「なん……ですの……今の私じゃ、役に立てそうに……ありませんわよ……」
「いや、一つだけ頼みがある。……とにかく小隈さん、頼んだ!」
俺は"ウィンダム"で敦賀さんを引き寄せると、そのまま背中へ密着させる。傷口が痛むが――ヒーリングのおかげで、ギリギリ耐えられる程度にはなっていた。
「掴まってて!」
それだけ言うと、一番手近な教室のドアを開いて教室に入り込んだ。
*
教室の中は、無重力の影響で机と椅子がゆっくりと回遊しているという、中々衝撃的な光景が繰り広げられていた。さきほど、敦賀さんとの戦闘後に聞こえた異音の正体は、どうやら浮かび上がった机や椅子が天井や壁にぶつかる音だったようだ。
「よっと!」
適当な椅子を一つ掴み、それから"ウィンダム"によって四本の足の根元をねじ切る。ぎぃ、という金属特有の嫌な軋む音を立てて、飴細工のように椅子の足が千切れた。
「これで杭はOK、と」
次に、当分は学校が休みになるだろうなぁと思いながら、しかし躊躇することなく――漂う全ての椅子と机を、校庭の方へと押し出した。
ガチャンガチャン、と凄まじい音を立てて机と椅子がぶつかり合い、ガラス窓を突き破る。校外に飛び出した机と椅子はすぐには落下せず、そのまま校庭の中ほどまでを等速直線運動で滑走し、それから急に落下した。無重力の範囲が、もう校舎外の結構な範囲まで広まっているのだ。
これだけの騒ぎでありながら先生が駆けつけてこないのは、恐らく、無重力に巻き込まれて身動きが取れないからなのだろう。ある意味、こんな現場を見られずに済むのだから、ありがたいとも言える。
「何、するつもり……?」
完全に疲弊しきった様子の敦賀さんが耳元で呟くように尋ねた。その声には独特の色気があった。が、そこに構っていられるほどの時間や余裕はない。
「敦賀さん、テレパシー使ってたよね」
「え? ……ああ、そう……ですね。使いましたわね……」
「小隈さんにテレパシーで言葉を伝えることはできる?」
「できますわよ……」
「じゃあ、俺が今から言うことを伝えてほしい」
壁を一枚隔てた廊下からは激しい戦闘が起こってるであろう衝突音が響いていた。小隈さん一人でどれくらい持ちこたえられるか……急がなくてはならない。
「これから――テケテケの捕獲作戦を始める」
*
「くっ……!!」
テケテケと呼ばれた白い怪物は、右に左に、上へ下へと機敏に撹乱をしながら、着実に小隈陽菜の体力を削ってゆく。現に腹部と右手の痛みは増しており、一日で蓄積された疲労もピークに達しようとしていた。
(だけど……さっきの箱崎くんに比べれば……!)
陽菜の脳裏に一筋の赤い帯が浮かぶ。自分を庇ったばかりに、箱崎透の背中に刻まれた痛々しい傷。本来であれば、自分が受けるべきはずだった傷。
限界に近い肉体を突き動かすのは、彼への罪悪感だけではない。
最大の理由は――成さねばらなぬという義務感だった。
小隈陽菜は、孤独であった。
超能力などという望まぬ力を生まれ持っていたばかりに、妹と共に両親に捨てられた。
辿り着いた先、同じ超能力者の集まりである学園でも、時に裏切られ傷つけあった。
だから彼女は、妹の菜月以外は、もう誰も信じないだろうと思っていた。
しかし、それが今夜変わってしまった。
ほんの僅かであっても、透を信じてしまった。
そして、生まれて初めて、妹以外の人間とリンケージを行った。
何よりも――自分で気がついてはいないのだが――あれほど嫌い否定していた自分の力を、透は信じ肯定し、敦賀明香里を打ち破ったのだ。
まだ透を完全に信じたわけではない。何を考えているかわからないところもあるし、あれだけ頭が回る人間だと、ただ自分を利用するためだけに優しく接しているのかもしれない。
それでも、陽菜の中には、自らを律する二つの義務があった。
一つは、クラックを収束させる任務を全うし、唯一の居場所である学園に対し自身の存在意義を示すという、生存のための義務。
そして、もう一つは――リンケージを伝わって感じる透の信頼と期待に答えなくてはならないという、人としての義務。
「負けて……たまるかぁっ!!」
迫りくる白い肉塊をバットで弾き飛ばし、伸縮する腕を受け流し、時に透の能力 "ウィンダム"によって自らを引っ張り避ける。一人ぼっちでの戦いにしては、上出来である。
しかし、気合や精神論で全てがどうにかなるはずもなく、じわり、じわりと押されていることはわかっていた。負ける未来が訪れるのは、時間の問題だ。
それでも逃げ出すわけにはいかない。
"――陽菜さん……お聞きなさい……"
「えっ!?」
不意に脳内に声が響く。陽菜は困惑して立ち止まる。
「何、今の……うわあっ!!」
危うくテケテケの攻撃を喰らいそうになるが、すんでのところで気を取り直し、何とか身を捻って回避する。
"時間がないから、手短に話しますわよ……"
唐突な声――それは紛れもなく、敦賀明香里からのテレパシーだった。
*
「……どう? 上手く伝わった?」
長い沈黙を保ったまま目をつむり続けていた敦賀さんが瞼を開いたのを見て、俺は待ちきれずに尋ねた。
教室が酷く静かな一方で、廊下ではずっと苛烈な戦いの音が続いている。飛び出したい気持ちが強くなるが――作戦のためには、我慢するしかなかった。
気が付くと、シャツの端っこを手が白く変色するほど強く握っていた。自分でも、心底焦っているのがわかる。
「多分、聞こえていたはず……ですわ」
「多分って、また頼りないね」
「仕方がありませんわ……だって、テレパシーで言葉を伝えることは出来ても……相手がテレパシーを使えない以上、返事は来ませんもの……」
先ほどよりはいくらかマシになったとはいえ、まだ呼吸が整っていない敦賀さんは、苦しそうに答えた。なるほど、テレパシーというのも便利だが、万能ではないのだな、と歯痒くなる。
「仕掛けは出来たんだ。後は……成功させるしかないさ」
一対一の過酷な状況を任せた上、さらに危険な"餌"の役割まで押し付けたことに心が痛むが、もうそれしか方法が思い浮かばなかった。
どの道、意地でも成功させなければ、合わせる顔どころか……全員の命がなくなってしまうだろう。
俺は段々と近づいてくる音を聞きながら、ドアに視線を向ける。
「さて……頼んだよ、小隈さん……」
*
「ぐぅっ……!!」
猛烈なタックルをバットで受ける。ギュルギュルという耳障りな音を立てながら高速回転を続けるテケテケに吹き飛ばされそうになるが、"ウィンダム"で自らを支え、何とか踏みとどまる。
段々と右手の感覚がおかしくなってきていた。段々と強くなっていた痛みが、いつの間にかほとんど感じられない。それどころか、指先の感覚もあまりなくなってきていた。先ほど捻ったまま何の処置もせずに戦いを続けているせいだろう、力が入りづらい。左手と"ウィンダム"がなければ、とっくにやられていた。
テケテケの回転が徐々に遅くなると、すかさず離れて天井へと戻ってゆく。数秒の思考か、充填か……知る由もない未知の待機を終えると、次の攻撃へと移行する。
今度は鞭のようにしなる腕が陽菜を襲う。
(なんとか……教室まで誘導しないと……!!)
上下左右から巧みに迫る白く長い腕をバットで受け流しながら、じりじりと後退する。重い一撃がバット越しに全身にビリビリと響く。骨が軋む感覚。気を、力を抜けば、あっという間にバラバラにされてしまいかねない衝撃を必死に耐えていた。
(次のタックルだ……その時、一気に片を付ける!)
折れそうな心と体を責任感と気合で誤魔化しつつ、攻撃から身を守ることに専念する。
「ぐぅっ!」
攻撃が重たい。敵が本気になったのか、自分の力が底をつきかけているのかはわからない。その両方かもしれない。
そしてついに、攻撃が止んだ。長い腕をパタパタと折り曲げながら体に引き寄せると、またその場で、ゆっくり、くるくると自転を始める。
(来る!)
今、この瞬間を待っていた!
陽菜は確信と同時に、"ウィンダム"で体を掴む。ぐん、と透明な手によって後ろへと引き寄せられる。
テケテケもまた、時を同じくして――獲物を逃がすまいと、直線軌道で陽菜目掛けて飛来する。最短距離をぶれることなく高速で移動しながら、みるみる距離を詰める。
「……はあっ!!」
不意に陽菜は身を翻し――迫りくるテケテケに背を向けた。自殺行為に等しいその行動は、しかし助かるためには不可欠の行動であった。
怖い。もし追いつかれたらどうしよう。失敗したらどうしよう。途中で策に気づかれて逃げられたら――陽菜の胸中で不安とプレッシャーが暴れ出しそうになる。決して誰にも見せるつもりのない、今にも泣きだしそうな顔をしながら、一枚のドアを見つめた。
「開いて……!!」
既にテケテケとの距離、三メートル。だと言うのに、陽菜は身を守るでも攻撃を仕掛けるでもなく、伸ばした手のさらに先を往く透明な手によって、ドアを開けたのだった。
ガラリ、という乾いた音を立てて、ドアは難なく開いた。たったそれだけの、日常の動作の一つが、今の陽菜には非常に重要なことだった。
そのまま開いたドアの向こう、教室の中に身を滑らすと――すぐそこに真っ暗闇が広がっていた。
「ひっ……!?」
陽菜は理解していたはずの暗闇と、いきなり真横から、ぐい、と腕を引っ張られたことに驚き、思わず情けない声を漏らしてしまう。
「……お疲れ様です」
自分の腕を掴んで引き寄せたのは、犬猿の仲にある敦賀明香里だった。
派閥が違うことに始まり、意地悪で、大嫌いなはずの彼女の顔を見て――陽菜は心の底から安堵していた。
そして、次の瞬間――、
ぼふっ、という音と共に、扉前に設置していたカーテンが大きく膨らんだ。まるでテルテル坊主でも作るかのように、カーテンのど真ん中に真ん丸の物体が飛び込んできた。
「――今だああッ!!」
天井に張り付いて待機していた俺は、クラウチングスタートの要領で足元を蹴って降下する。
テケテケは――暴れていた。そりゃあそうだろう。教室に飛び込んだ瞬間、目の前が真っ暗になったのだから。
敵の視界と体の自由を奪う方法を考えたとき――どこの教室にも暗幕カーテンがあることを思い出した。
ならば、このカーテンを教室の入り口に設置して、そこに上手いこと敵が飛び込んでくれれば、敦賀さんと戦った時のような拘束具代わりに出来るのではないだろうか、と考えたのだ。
その罠を作り出すためにカーテンを引き千切り、四隅をねじ切った椅子の足で固定。そして小隈さんにルアーの役割を任せ、テケテケの一本釣りを行ったというわけだ。
――と、ここまでは上手くいったのだが、問題はこの先である。
「うりゃあぁッ!!」
カーテンに飛びつくなり、俺はテケテケが逃げ出さないように、根元を手で縛り上げる。だが、その間もテケテケは脱出しようともがき暴れる。
「ぐッ! があッ! クソッ!!」
カーテンによって多少は威力が軽減しているとはいえ、体のあちこちを殴られると、やっぱり物凄く痛い。それに、このまま放っておけばカーテンを破って逃げ出されてしまうだろう。そうなれば一巻の終わりだ。
俺は何とか相手が抜け出る隙間がないほどに押さえつけると――、
「固まれぇッ!!」
――"プリズム"によって、カーテンを拘束具へと変貌させる!
「や、やったぁ!」
その光景を見た小隈さんが喜びの声を上げるが……しかし、事はそう簡単ではなかった。
「ぐはっ!」
「透さん!? ……きゃあっ!!」
俺は勢いよく弾き飛ばされ、そのまま壁にぶつかる。小隈さんと敦賀さんに、なんとか当たらずに済んだのが不幸中の幸いだ。
「つつっ……」
"ウィンダム"によって体を起こしながら、俺は暴れまわる金属塊を目の当たりにし、げんなりとする。
さすがのテケテケでもあの拘束具は脱出も破壊も不可能なようだ。それはいいのだが、やつの動きに合わせて鈍器と化したカーテンもまた一緒になって動き回るのだ。
……小隈さんの"プリズム"の利点でもあり欠点でもあるのだが――属性添加をした対象の重量には一切変化がないのだ。
一見すると金属質に変化するため重くなりそうなものだが、決してそうはならない。武器として扱うには好条件だが、一方でカーテンのような軽い物体であれば、重さで動きを封じることができないということになる。もっとも、素材がなんであれ無重力では関係ないのだが。
それでも……伸縮自在の殴打が来ないだけ、マシだと考えるしかない。それに動きやサイズ、視界が制限されるため、敵はもう力技以外でこの教室から逃げ出すことができない。
しかしこの状況――ガチャガチャとけたたましい音を立てながら、教室中にぶつかりまくって暴れまくるテケテケに近づくのは、言うまでもなく危険が伴いまくる。暴走トラックに突っ込むようなものだ。
金属製のテルテル坊主と化したテケテケは、全くもって動きを止める気配がない。仮に止まったとしても、俺が飛びつけば反応し、また暴れだすだろう。
だからこそ、せめて一瞬だけでも意識を逸らしたい。その隙を突いて攻撃することが出来れば……と考えたところで、ふと、あるアイデアを思い付いた。
「ねぇ、敦賀さん!」
危険な教室から一旦廊下へと避難しつつ、時折飛んでくる破片を避けながら声をかけた。
「なんですの……!?」
「あいつ――テケテケにもテレパシーって出来る!?」
「はぁ!? ……やってみなければ、わかりませんけど!」
「何をするつもりなの!?」
二人の疑問は当然だろう。俺は考えを伝える。
「あいつには、耳も口も見当たらない! だから音によるコミュニケーションは出来ないと思うんだ! 手話や文字みたいな、音以外の方法を使っているはずだ! だけど、聴覚ではなく直接脳内に言葉が届くテレパシーだったら、あいつの気を引くことが出来るかもしれない!」
説明を聞いた二人は面食らったようにきょとんとしてしまう。だがすぐに気を取り直し、
「やるだけ、やってみますわ!」
と言うと、敦賀さんはテケテケに視線を向けた。
「お願い!」
俺は急いで槍を手にすると、再び教室へ舞い戻る。見慣れたはずの教室が凶悪なモンスターによってズタボロにされてゆく様は、ある意味では爽快なものだ。
「行きますわよ!」
廊下で敦賀さんが叫んだ。攻撃に注意しながら、固唾をのんでテケテケを見守る。
「…………」
――それはまるで一時停止でもしたかのように、暴走オブジェは動きをピタリと止めた。
テレパシーが成功した、ということだ。いや、この際違っても構わない。
「…………やるかぁ!」
最高のチャンスを棒に振るわけにはいかない。
俺は槍を強く握ると、一世一代の大勝負に挑む賭博師の気分で地面を蹴った。
黒く輝く皺のある物体が目の前に迫る。未だ微動だにしない。
そして俺が、丸く膨らんだ部分に取り着くと――、
「――うっ、わあぁあッ!?」
案の定、テケテケは暴走を再開!
振り落とされそうになるが、そうはいかない!
「沈めぇッ!!」
"ウィンダム"によって全力で床へと押し付ける。突然降りかかる数百キロの衝撃は、さすがのテケテケであっても対応しきれないのだろう、押し戻そうとする抵抗を受けるも、こっちが競り勝ち、あっと言う間に着地させる。
「恨みはないが……死んでくれぇッ!!」
槍を振りかざし、腕の筋肉の限りに振り下ろす――!!
パキン、と薄い金属を砕いた直後――ずぶり、という嫌な感触が槍を通じ、掌を伝う。
生き物を殺す温くおぞましい感触。
虫を殺すのとは全く異質な、業を背負うような感覚……狩人が獲物を仕留める時は、こんな気分なんだろうか。
「ぐっ……硬ぇ……ッ!」
予想以上に――テケテケの外皮は固く、分厚かった。槍が深くまで刺さらない。
さらに――、
「うわあぁぁッ!?」
命の危険を感じたのか、テケテケは今までにないくらい激しく暴れ始めた! このままでは槍が抜けてしまう。それは即ち、敗北を意味する。
「ぐぅっ……くそぉッ、押し込んでやるッ!!」
意識を槍にだけ集中し、そこへ"ウィンダム"を全力で押し当てる!
拘束が解除され、テケテケは自由を取り戻し浮かび始めるが――槍はさらに深く突き刺さる!
槍の全長の六分の一ほどが埋まり、尚もじわりじわりと進行を続ける。
「おぉぉッ!?」
だが敵も抵抗を止めない! メチャクチャに部屋中を飛び回り、壁や天井に当たる度、全身を痛みが襲い、傷が増えて行く。
振り落とされそうになりながらも、必死に槍にすがりつく。
……俺は必死だが、テケテケも必死だった。急に床へ激突したかと思うと、直後、全力で体が持ち上がり――
「だぁ……ッ!!」
――体を壁とテケテケの間に挟まれる。
メキメキ、という聞き慣れない音が、体の内側から響いた。それと共に、息苦しくなる。体内の全てが押し出されるように、喉元まで不快感が溢れかえる。
「ごぼっ……!!」
やけに鉄臭いゲロが込み上げた。抑えきれずに口から漏れ出て行く。内臓も一緒に吐き出してしまいそうな、死の味が充満してゆく。
俺がこんなにも悲惨な傷を負ったというのに、なおもテケテケの突進は止まらない。あの都市伝説の如く、下半身を引き千切られそうだった。
「――離れろぉ!!」
朦朧とする意識を繋ぎ止めるように、小隈さんの声が飛び込んできた。
……彼女が叫んだ瞬間、腹部の圧迫感が不意に和らいだ。どうやら共有している"ウィンダム"によって、引き離してくれているようだ。
「ちょっと……ああもう! どうすれば……!」
敦賀さんも無重力に四苦八苦しながらも駆けつけてくれたようだが、打つ手がなく苛立っているようだった。
「ぉぐま……ざん……」
もういつでも意識を捨ててしまえそうだ。景色が涙でぼやけ始める。宙を舞う赤と黄色が複雑に混ざった吐瀉物を見ていると、なんだか無性に笑いだしそうになる。
「やり……押じ、で……!!」
「え!?」
「槍をぉ、押じでぇ……」
ごぼごぼとコーヒーが湧くような音を喉で鳴らしながら、何とか声を振り絞る。多分、俺を引きはがして助けてもらうよりは、槍を突き刺して殺した方が早い。
「槍を押して、って言ってますわ!」
「え? で、でも……」
「早ぐ……ッ!!」
小隈さんがそういう咄嗟の判断に窮することは、先刻証明済みだ。だから、強く言わなければ、ぐずぐずしてしまうばかりだろう。俺だってこんな若い身空で死にたくないのだ。
「早ぐッ!!」
「あ……あ、うん……!」
頷いて、手を翳した瞬間――再び腹部に容赦のない圧迫が戻る。
「ごぉああぁッ……!!」
「え、本当に大丈夫!?」
泣きそうな顔でちらちらこっち見て確認してる場合か。そうツッコミたくなるが、お迎えが近い今、マジで余裕が全くない。
「いいがら早ぐぁあッ!!」
テケテケがさらに圧迫を強める。なんか口と尻から内臓がチューブのマヨネーズみたいにはみ出そうだ。
(せめて死ぬならかっこよく死にたい……)
段々と自分の中で諦めが色濃くなってくる。だがそんな風に思っている間も、決して槍を押し込む"ウィンダム"だけは緩めなかった。
「何悠長にきょろきょろしてらっしゃるの!? さっさとなさいな!」
「や、やあああッ!!」
小隈さんが叫ぶと、槍はさらにテケテケの内側を目指して沈んでゆく。だが――あと一押し、足りない!
血液も酸素も足りなくなり、眠気と痛みで限界に近い肉体に鞭を打って、酸素の足りない頭を回転させる。何かいい方法はないか……?
「づ、るがぁ、ざぁん……」
「何!?」
俺は敦賀さんに声をかけるなり、辛うじて動く左手を差し出す。既にテケテケが暴れまわり彼女たちに向かうかもしれないという心配は必要ない。なぜなら、奴は槍を押し込んでいる俺を殺そうともがいているからだ。
「りん……げぇーじ……」
「ッ! わかりましたわ――」
――次の瞬間、敦賀さんが俺の左手に指を絡めていた。テレポート、俺も使えれば逃げ出せるんだろうか。そんな益体のない考えがぼんやりと浮かんだ。
「急いで!」
「あぁ……」
半ば自動的に頭と体が動く。
――神経が肉体から溢れ出し、外部へと拡張してゆく感覚。
そして何かに触れる感触と温もりが、力を伴って流れ込み、注ぎ込んでゆく――。
「はぁああッ!!」
リンケージが完了するなり敦賀さんは手を離すと、そのまま流れ込んだ俺の"ウィンダム"を振るう。
槍が全身の半分をテケテケに埋めるが、まだ――槍もテケテケも、止まらない!
「「「うおぉぉぉぉぉッ!!」」」
――三人の意識が同一線上に並んだ気がした。
見えない俺の掌の上に、透明な手が二つ重なる。
三人で、バラバラの位置と立場に居ながら、それでも、しっかりと重なり合う力強い手だった。
そして――一人では押し込めなかった槍が、泥沼へ沈むかのように深く沈んで行く。
――ばりっ。
鈍く裂ける音。
聞き覚えがなくても、その音が何を意味するのか、すぐに理解できた。
"死"が槍を這い上り、見えない手を伝わって――俺は戦いの終結を実感する。
テケテケはぐらりと力なく揺らぎ、そのまま"落下した"。
――重力が戻ってきたのだ。
「ぐぁぇっ……!!」
「うわあぁっ!」
「きゃあっ!」
俺、小隈さん、敦賀さんは、一斉に本来のルールが適応された世界に連れ戻され、重力に従って落っこちた。
咄嗟にカーテンの属性添加を解除したおかげで、何とか金属の塊に体を打ち付けることは回避できたが、それでも落下の衝撃は満身創痍の肉体にびりびりと沁みる。受け身すら取れない。
さらに立て続けに、学校全体からガラガラという騒音がけたたましく鳴り響く。宙を漂っていた机や椅子やロッカー等諸々の備品が落下する音だろう、ということはすぐに理解できた。
「……ぁあ……ぃ、ぇ……」
地に足の着いた、いや、地に背の着いた状態で、俺は天井を眺めながら痛みに浸っていた。
呼吸ができない。
喉に絡まった血液と吐瀉物の所為で、酸素が入ってこない。
だが、横を向き吐き出す気力もない。
「箱崎くん!」
「透さん!」
二人の声が聞こえたのはほぼ同じタイミングだった。視界の左右で、心配そうに覗きこむ二人の顔を見て、なんだか安心していた。
「あぁー…………」
お疲れ、とか、勝ったね、とか、大丈夫、とか。言いたいこと、言うべきことは色々あるのだが、言葉がまとまらない。どうしていいのかわからなくなってきていた。
「げほっ……おぇっ……」
喋ろうとするが咽てしまう。これ、病院行けば間に合うのかな。それとも俺は死ぬんだろうか。怪我の言い訳は交通事故あたりが妥当だろうか。
「陽菜さん! 透さんをうつ伏せにして、背中か鳩尾叩いて吐かせなさい! 駄目そうなら指突っ込んでゲロ全部掻きだしなさいな!」
「え? わ、私がやるの?」
「あなた以外に誰が居るっておっしゃるつもり!? 私はヒーリングして繋ぎ止めなければならないの! 一刻を争う状況ですのよ! ほら、さっさとやる!」
「う、うん」
押しに弱いと言うか、テンパりやすいというか。小隈さんは敦賀さんに急かされるがまま、仰向けの俺の体を起こすと、そのままうつ伏せに……
「ごぶっ」
……しようとして手が滑ったようで、俺は顔を思いっきり床に打ち付ける。鼻から激突し、殴られたような痛みに襲われる。もう戦いは終わったと言うのに。
本当は止めを刺しに来たんじゃなかろうか、彼女は。そんな疑問すら浮かぶ。
「あぁ!? ごめん、ごめんね!」
泣きそうな声で謝られてしまった。いや、頼むから、それよりも早く起こしてほしい。
「あなた助ける気あるの!?」
叱責を受けながらも、何とか小隈さんは抱き起してくれた。今度は落っことさないでね……と、まるで都市伝説のようなことを思っていると、強く背中を叩かれた。
「おぶぅぇええぇぇ」
――肺か胃か、とにかく体内に溜まっていた残りのものが全て堰を切ったように口から溢れだした。びちゃびちゃという不愉快な音と、鼻を突く匂いが立ち込める。
「うぅ……」
その光景に顔をしかめたのだろうか、小隈さんが深刻そうに呟いた。
女の子に介抱された上にこんな迷惑までかけるのは忍びないが、命には代えられないし、とてもじゃないが自分の意思で止められそうにない。
「はぁっ……はぁっ…………ああぁー……」
「大丈夫?」
心配そうに尋ねる小隈さんに背中をさすられている内に、茶褐色の滝が打ち止めになる。
「はぁぁぁあぁー……」
ようやく胸いっぱいに空気を吸い込むことができた。当たり前に酸素を享受できるというありがたみを、まさか学校で感じることになるとは夢にも思わなかった。
それに、段々と腹部の痛みも引いて来ていた。いくらか癒えていたが痛みを感じた背中の傷も、今では大分引いて来ていた。ヒーリングのおかげだろう。
「とり、あえず、これで、応急処置には、なりましたわね……」
俺とは逆に、先ほどよりも顔色が悪くなった敦賀さんが、静かに呟いた。
「……二人とも、本当にありがとう。おかげで死なずに済んだよ……」
やっとまともに話せるようになった俺は、まず礼を述べた。
「ううん。こっちこそ、本当はもっと率先してやらなきゃダメだったのに……」
「お互い様、ですわよ……。お互いに力を尽くさなければ、殺されていましたもの」
「そう言ってもらえると、助かるよ……しかし、まあ……」
俺はふらつきながら立ち上がり、教室を眺める。頭がクラクラとするのは、酸欠の所為か、血液が足りない所為か、疲れが原因か。心当たりが山ほどある。
空っぽの教室はそこらじゅう傷だらけ。しかも真ん中よりちょっと窓側のあたりの床には、ビリビリに破れたカーテンと、茶褐色の吐瀉物。
窓枠は歪み、窓ガラスはほとんどが砕け散っている。机や椅子は全て校庭に散らばっている有様だ。
さらに廊下にも凹んだ痕が無数にあり、あらゆる教室の備品が乱雑に転がっているはず。その上、ほぼすべての警報装置が鳴っているような――大惨事、と言うべき状況だ。
「これ、どうすんだろ?」
「後のことは――」
「――な、なんだこりゃあ!?」
小隈さんの言葉を遮った素っ頓狂な叫びに、俺たち三人は、声の聞こえた校庭をこっそり覗き込む。
そこには制服姿の警察官が複数人。パトカーも二台止まっている。続けて三台目が駆け寄ってきているところだった。
「見つかると……マズイよね」
「少年院行きはないでしょうけど、面倒なことには間違いありませんわね……」
「逃げないと。あ、廊下から鞄だけ取って来なくちゃ」
言い終えると小隈さんは急いで廊下から鞄を三つ持ってきた。受け取ろうとすると、彼女は首を横に振って断った。多分、まだ万全ではない俺に気を使ってくれているのだ。自分だって腕の痛いのを我慢しているだろうに。
折角だから、今は好意に甘えることにした。そして彼女は、嫌そうにしながらも、敦賀さんの鞄まで抱えていた。多少は恩義を感じているのだろう。
「んじゃあ裏口に急がないと……」
「その必要はありませんわよ。向かうのは屋上ですわ」
敦賀さんの言葉に耳を疑う。言うまでもなく、屋上は行き止まりだ。
しかしすぐに、
「あ、テレポートか」
と思い当たった。
「ご一緒するつもりがなければ、どうぞ二人でお逃げになってくれて構いませんわよ?」
緊張の糸が切れて元の調子が戻ってきたのか、いつもの悪戯っぽい笑いを浮かべていた。
「いや、女子からの誘いはなるだけ断らないようにしてるんだ」
俺も笑って応じた。
「で? あなたはどうするの、陽菜さん」
「…………お願い」
小隈さんは不服そうだったが、敦賀さんに頼るほかなかったので、渋々頭を下げていた。
もう敵が居ない夜の校舎は、妙に平和な空気が流れているような気がした。
もっとも、実際には警察がすぐそこまで近づいて来ており、とても平穏無事な状況ではないのだが。
俺たちはそれぞれに痛みや疲労を堪えながら、階段を駆け上がった。すると、すぐに閉鎖されている屋上のドアに辿り着く。
「オープン・セサミ、なんてね」
硬く閉ざされたドアは施錠されていて開けられない、というのは常人の話。"ウィンダム"で力を加えると、バキンという音を立てて、ドアはあっさりと押し開けられた。
屋上には少し肌寒い夜風が吹いていた。だけど、その風は学校の中に残る恐怖の残滓を消し去るような爽やかさがあった。
……これで学校の怪談もおしまいだ。足を奪われた少年の悲劇が起こることは、もう二度とないのだ。
「二人とも、掴まりなさいな」
感慨に浸っていたところを、敦賀さんの声で現実に引き戻される。
言われるがまま、俺と小隈さんは左右の手に掴まった。
「行きますわよ――」
――一瞬後。そこは、学校から見える位置にあるビルの屋上だった。
「逃走完了、ですわ」
「……ありがと」
「ホント、ありがとう……お、アレ見て」
屋上からは校庭がよく見えた。改めて離れた場所から見てみると、甚だ異様な光景だ。
警察もゴミ処理場のように乱雑に積まれた机の山を見て、困惑している様子だった。
三人でしばし眺めていると、さらに応援で二台のパトカーが駆けつけた。野次馬も段々と集まっているようだ。
「都市伝説が解決しても、今度は別の都市伝説ができちゃうよ、これじゃ……」
呆れたように小隈さんが呟いた。俺は思わず吹き出してしまう。
「あはっ、本当だ。しかも今度は大量の目撃者も居る。テケテケの怪談とは桁が違うな、あははは……あっ、いてぇ……」
笑うと腹部の傷が痛んだけど、それでも安堵の所為か笑ってしまう。まさか自分が怪談の中の怪物と戦うハメになるなんて、昨日の俺に言ったところで信じてもらえないだろう。
「今何時だろ」
段々と日常に戻ってきたという感覚を取り戻す中で、親に何の連絡も入れてないことを思い出した。さすがにあんまり遅いと心配するだろう。
「ん? 今は……七時半になるとこ」
「あれ? まだそんなもんなの?」
あまりにも長い戦いの所為で、時間間隔が馬鹿になっている。気分はもう真夜中だ。
「ねえ、透さん」
不意に敦賀さんに声をかけられたので振り向くと、彼女は一枚の紙を差し出した。
「今からこの病院に行ってきなさいな。傷は癒すことが出来ても、失った血液はどうすることもできないもの。そこの井畑って医者に事情を話せば、問題なく輸血してくれるはずですわ」
「ああ、息のかかった病院って奴か」
「そういうこと。終わったらちゃんと食事して、傷は痛むでしょうけどちゃんと寝なさい。どうせ明日から当分の間は学校も休みでしょうしね」
「ま、あれじゃあねえ……」
苦笑しながらちらりと校舎を一瞥する。
「あと、裏に私の仮住まいの住所を書いておきましたから、いらっしゃれば傷を癒して差し上げますわ」
「マジで? 随分と気前いいけど、俺、甘えちゃっていいのかな」
「後でたっかい治療費請求されるかもよ」
小隈さんがぼそりと嫌味を言う。しかし、
「あら、ご自身が無能で助けてあげられないからって、私に嫉妬するのはお門違いですわよ?」
……口げんかでは、敦賀さんに圧倒的な分があった。
「む、無能じゃない!」
顔を真っ赤にして怒る小隈さんを見てくすくすと笑いながら、敦賀さんは踵を返した。
「それでは、私、先に帰らせていただきますわ。それじゃあ、また明日」
「うん。また明日」
言い終えた瞬間、敦賀さんは掻き消すように居なくなった。
"――私、まだ諦めていませんから。覚悟しておいてね?"
「……!!」
頭の中に直接、はっきりとした声が反響し、俺は驚いて肩を揺らす。
「ん? どうかしたの?」
「……ああ、いや、なんでもない。疲れてんのかな」
敦賀さんの秘密の囁きのことは、あえて教えないことにした。言ったところで火に油を注ぐだけだ。
「私も疲れた」
そう言うなり、小隈さんは俺の横にちょこんと座った。
(これは……認められたってことかな?)
とりあえず、俺も黙って腰を下ろすことにした。
二人の間に静寂が訪れると、パトカーのサイレンやざわざわと騒ぐ野次馬の声がはっきりと聞こえてくる。
当事者じゃなければ、真っ先に俺も現場に駆けつけていただろうな、と思った。
風が髪を揺らした時、不意に小隈さんが口を開いた。
「多分、最低でもあと一週間は休みになると思う」
「え? ああ……まあ、授業やるにも、アレじゃあ無理だしねぇ。……あ」
「何?」
ふと俺は、怪我と逃亡で頭がいっぱいになって忘れていたことを思い出した。
「テケテケの死体って処理しなくてよかったのかな」
小隈さんは「ああ」と素っ気なく答えると、
「カーネルの憑代っていうのはね、死ぬとそのまま消えちゃうんだ。だから私たちが教室を出る頃には、もうきれいさっぱりなくなってたはずだよ」
「あ、そう。都合のいい話だね」
半笑いの俺に、しかし小隈さんは表情を崩さず――いや、少し深刻そうな表情に変わる。
何かマズイことを言ったかな? と思ったが、心当たりがない。
「……だからさ、私たちシェアード・サイキックも、死んだらそのまま消えちゃうんだって」
「…………!」
予想外の言葉に絶句してしまう。正直、今日見聞きしたことの中では一番驚いたかもしれない。
そのまま俺と小隈さんは、また黙り込んでしまう。喧騒だけが鼓膜を震わせるが、心にまでは届かない。
人は死んだら土に還る。最近はさらに、火にくべて燃やしてしまうわけだが……だけど、なんだかその工程すらもすっ飛ばし、跡形もなく消えてしまうのは……いくらなんでも味気なさすぎる。
「なんなんだろうね、私たちって。この世界に居ちゃいけない存在、なのかなぁ……」
寂しそうな顔で、落ち込んだような声で呟いた。その瞳の奥には表面に見える感情以上の、今にも子供のように泣き出してしまいそうな儚さが潜んでいるような気がした。
「……だからこそ、誰かと繋がっていたいんじゃないかな。形は残らなくても、思い出に残っていられるようにさ」
自分でも気障でクサいことこの上なく、しかも大した慰めにもならないことを言っているという自覚はあった。
だけど……そうでも思わないと、やってられないのだ。
「ただ居なくなるだけじゃ寂しすぎる。せめていつでも誰かのことを想っていられるように、覚えていてもらえるように、リンケージがある……と、考えるようにすれば、いくらか人に優しくなって、生きる張り合いが出てくる、かも?」
話している内に段々と恥ずかしくなってきて、つい最後になって、照れ隠しに茶化してしまう。
「……ふふ」
笑われたのか、笑ってくれたのか……どちらかはわからない。だけどまあ、笑顔になってくれたならそれで十分だ。恥ずかしいことを言った甲斐があるというものだ。
「ねえ、小隈さんたちはさ、これからどうするの? 事件も解決しちゃったし、もう元の学校に帰っちゃうのかな」
あまりこの話を続けるのもなんなので、別の話題を振ることにした。
「ううん。最初に言った通り、一か月は居るつもり。急な事件とかで帰還命令がなければ、だけど」
「そっか」
その答えを聞いて、どこか安心した。一か月の間は、まだ彼女と敦賀さんと一緒に、フツーの学生生活を堪能できる、ということだ。とはいえ、そのための学校があんなことになってしまっているのだが。
「箱崎くんは、どうするか決めたの?」
すぐ真横から覗きこまれるようにして尋ねられた。夜の屋上に二人きりと言うシチュエーションの所為で、なんだかドキドキする。
「んー……例の、君らの学校には、転校するつもりだよ」
俺の返答に小隈さんは少し驚いたように目を見開いた。
「……そんな簡単に決めちゃって、大丈夫なの?」
「いや、単純な話、他に選択肢がないってだけだよ。説明通りに国立の組織がバックにあって、しかも、俺みたいなそこまで目立ったことしてないような男子高校生さえも探し出しちゃうような相手だったら、素直に従っておくのがベストだろうからね。それに……」
「それに?」
わざとにやりと笑って見せてから、俺は得意げに口を開く。
「小隈さんや敦賀さんみたいな魅力的な女子が居る学校行きを断るのは、男として無理ってもんだ」
「つまり、バカなんだ」
ばっさりと切り捨てられてしまった。しかし、
「……私とあいつ、どっちが決め手なんだろ……」
と呟いたのを聞いてしまい、思わず本気でにやけてしまう。
小隈さんはハッとなり、俺のにやーっとした笑みを見て、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。
「う、嘘! 今のナシ! 幻聴だから!」
「いやぁ、そんなこと言われちゃうと、小隈さんが決定打と言わざるを得なくなっちゃうな~」
慌てる小隈さんを見ていると、つい苛めたくなる衝動に駆られるのは、仕方のないことだと思う。だって反応がいちいち大げさで面白いんだもん。
「帰る!!」
弾かれたように立ち上がると、そのまま彼女は脱兎のごとく走り出す。
「おーい、鞄忘れてるよー」
「……!」
……実に素直な子で、忘れ物を指摘するとつかつかと戻ってきて、差し出した手から鞄をひったくると、また急いでドアへと向かった。
そしてノブを回したしたものの……施錠されていたらしく、ドアが開くことはなかった。
赤い顔のまま、ばつが悪そうにこちらを振り返ったので、ゆっくりとした動作で俺も自分の鞄を掴むと、
「それじゃ、飛び降りますか」
と言って――"ウィンダム"で小隈さんを持ち上げ、そのまま俺の腕に持ち替えてお姫様抱っこをした。
「うわっ……! せ、セクハラ!!」
「あ、いたたた……」
抱きかかえた際の衝撃が腹に響く。やっぱり明日は敦賀さんの家にお邪魔して、治療してもらおう。一体どんな部屋に暮らしているのかも知れるし、一石二鳥だ。
「ふーむ、小隈さん結構軽いねっ――とぉ」
「きゃあ――――!!」
軽口を叩きながら、俺は躊躇することなくビルとビルの隙間に飛び降りた。
重力のままに落下したのも束の間、すぐに"ウィンダム"によって減速、まるでメリー・ポピンズのように、ゆっくりと優雅に落ちて行く。
「下へ参りまーす、ってね」
「も、もぉー! 死ぬかと思った! バカ!」
「ちょっ、暴れるとマジで死ぬから!」
慌てた演技をしながらわざと力を緩めると、ガクンと急降下し、落ちそうになる。
「え!? きゃあっ!」
「あっはっはっは、冗談だよ」
「っ!! も……もう怒った!」
小隈さんの怒声と俺の笑いが路地裏に反響する。だけど、道行く人の視線は荒れ果てた学校に釘付けで、誰一人として俺たちに気づくことはない。
人知れず始まった長い戦いの幕は、その真相を闇から闇へと潜めたまま、大きな痕跡だけを後に残して閉じていった。