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1-1 二人の転校生

 時は夕方四時三十分、場所は教室。


 既に大半の生徒は部活だなんだと個々の抱える用事のため去っており、本来であればこの時間には誰も居ないのが普通である。

 だが、今日に限って言えば、ちょっと様子が違う。

 部屋の暗幕は全て締め切られているが、かといってプロジェクターで映像を流すかと言えばそうではない。

 場に集まったおよそ十人の男女はと言えば……ことごとく神妙な顔をしていた。

 その視線は、頼りなくとも唯一の光源である懐中電灯に揺らぐ俺の顔に集中しており、一人として雑談に興じることもなく、固唾をのんで俺の話に耳を傾けてくれている。

「――で、さすがに三度目ともなると不思議に思ったんだ。「あれ? どうしてこの女の人は、雨の日に限って――しかも、雨の日になると必ずここに居るんだだろう。それにどうしていつも口笛を吹いているんだ?」……ってさ」

 俺もなるだけ深刻そうな表情を作り、さも「目の前の君に話しかけているんだよ」という雰囲気を醸し出しつつ、緩急を操りながら言葉を続けた。

「彼はもう好奇心が抑えられなかった。……ずっと後悔をしている、と言っていたよ。でも、ついに声をかけてしまったんだ。「ねえ、お姉さん。あんた、どうしていつも口笛を吹いてるんだ?」って。すると女は、ゆぅーっくりと、焦らすように振り向いた。張り付いた黒い髪の隙間に覗く、血の気のない真っ白な肌が見えた。その間も口笛は、ひゅうぅ、ひゅうぅと頼りなく響いている。そして、女は完全に振り向いた! 先輩はそして知ってしまったんだ! 口笛の正体を!」

 いよいよ物語の肝、クライマックスだ。

 俺は表情そのまま、しかし心の中で満面の笑顔を浮かべながら、一人一人の顔を見回す。水を打ったように静かな教室では、時計の針が動く音さえはっきりと聞こえる。

 みんなの怯えながらも続きを促すような視線を一身に受けつつ、俺はチラリと教室の最後方、ロッカーの上に置かれた、何の変哲もない青いポリバケツを一瞥する。

 ゆっくりと息を吸ってから、あくまで抑え気味に言葉を紡いだ。

「女の顔に開いた穴を、風が吹き抜ける音だったんだ」

 そして、俺が言い終わるかどうかというタイミングで――


 がたんっ!


「きゃぁあああッ!?」

 ――バケツが唐突に落下した。

 女子は口々に、一体どこからそんなに出るんだってくらいの大音量で絶叫し、思わず隣に座っている男子にすがりつく。

 一方の男子は、待ってましたと言わんばかりのいやらしい笑みを、嘘くさい気取った表情の奥に隠しながら、白々しく「大丈夫?」なんて言いながら肩を抱いていた。

「――以上、口笛を吹く雨女の怪談は、これにて終わりでございます」

 噺家の如く、恭しく頭を下げてから俺は立ち上がり、教室の電気をつけてやる。

「もぉ~、ほんっとに怖かったんだからねぇ!!」

「超ヤバかったぁ……。あたし今日寝れなくなるかもぉ……」

「だったらメールでも電話でもしてきてよ。俺、いくらだって付き合うよ!」

 怪談の時とは一変、俺はいつもの笑顔に戻り、思い通りの感想と調子のいい男子の受け答えに満足する。ま、これなら俺だけでなく、男子連中も満足してくれたことだろう。

「この後暇だったらカラオケでも行かない?」

「あ、行く行くー」

 いい気なもので、涙を浮かべ怖がったのも忘れたような軽い調子で女子は返事をしていた。

「透はどうする?」

「そりゃ行くよ……今日はおごってくれるんでしょ?」

 こんな図々しいことを俺が聞いても、もちろん誰もNOとは言わない。

「ええ、そりゃあもう喜んで払わせていただきますよ、透様。ホント、あんがとなぁ」

 そう。これは俺の立派な――先生にはもちろん内緒だけど――バイトだった。

 一回一人五百円、あるいは何かを奢ってもらうことを条件に得意の怪談を披露。こうして場を盛り上げて女の子をたっぷり怖がらせる……そんなバイトだ。

 俺はお金がもらえてうれしいし、何よりそのきゃあきゃあと怖がる姿を見られるのが、もうものすごーく楽しい。男子連中は意中の女子と仲良くなれて、ともすればさっきみたいに自然なスキンシップにありつける。これぞWIN―WINの関係というやつだ。

 教室を出て行こうとする面々を傍目に、教室の後片付けを始める。やりっぱなしにして教師に怒られ、放課後の教室使用禁止令が出たら困るからだ。

 転がっているポリバケツをロッカーの上に戻していると、男子の一人、高橋が声をかけてきた。

「しかし前も見たけど、マジでタイミングばっちりでスゲーな。どうやってんの?」

 高橋は不思議そうにバケツを眺めながら首を捻った。

「それは企業秘密。教えちゃったら、俺の存在価値なくなっちゃうじゃーん」


 バケツは自動的に倒れたわけではない。

 タイミングよく落っことせるような装置があるわけでも、ワイヤーで引っ張っているわけでもない。


 ――物心ついた幼稚園の頃には、呼吸をするかの如く、その力を当たり前に使えていた。


 例えば、ボールがあったとする。それは手の届かない離れた場所にある。

 普通ならそこまで歩いて取りに行くのだろうが、俺にはその必要がない。

 なぜなら、それはまるでどこまでも延びる手のように――見えない力によって、動かずにして手元に引き寄せることが出来るからだ。

 小学生の頃、ゲームをやった時か、超常現象解明!みたいな番組を見た時だったか、もう記憶は定かではないが、その時ようやく"サイコキネシス"という力だと知った。

 中学くらいになってからは、図書館でその手のオカルト本を読み漁っては見たが……この力の正体は結局何一つわからないまま、今に至る。

 そして俺はある時から、力を有効活用しようと考えるようになった。特に、人を驚かせたり楽しませたりするのに使おうと、そう思った。そりゃあこんなに便利な力があるんだから、使わない手はない。

 有効活用の一つとして、この怪談を始めてみたところ……これがスゲー受けた。

 最初はちまちまとやっていたのが、次第に学年中に噂が広まって、いつからか学校中の生徒――特に男子から――依頼を受けるまでになった。

 まあこんなに楽しく好き放題に話をして、しかもお金までもらえちゃうなんて、俺は恵まれてるなーと思う。そして、今後もこの調子でやっていければ、中々に楽しい人生が送れそうだと――そう思っていた。


 鞄を持って出て行こうとした矢先、まだ肝心の暗幕を開けてないことを思い出して教室に戻る。締めっぱなしにしておくと、ここでやっていたことがバレかねない。

「透、まだー?」

 俺は勢いよくカーテンを開けると、足早に教室を飛び出して、みんなの元へ駆け寄った。

「ごめんごめん、すぐ行く」



「へぇ、あれが……」

 全てを融かすようなオレンジ色の夕焼けを浴びながら、金髪の少女は呟いた。

 口ぶりはどこか愉快そうで、口の端が微かに吊り上っていることから、彼女が状況を楽しんでいるのは明白だった。

 少女は双眼鏡越しに教室の窓の向こうの男子生徒を見ていたが、すぐに彼は教室の奥へと引っ込んでしまった。すると彼女は双眼鏡を手放して、後ろを振り向いた。

「あなたはどう思います? 私は本物だと思ってますけど」

 気さくに話しかける少女とは対照的に、もう一人、黒髪の少女は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、不承不承とでも言いたげに口を開く。

「……そっちに教える筋合いはない」

「本当に釣れない人ねぇ、あなた。ま、あなたがどう思おうと、私にも関係ありませんしね。精々、邪魔だけはしないでくださいまし」

 慇懃無礼な態度に、黒髪の少女は無言で睨み付け、それを返事とした。

 だが金髪の少女は余裕綽々といった調子で、挑戦的な笑みを浮かべる。

「あら、もうやる気? いささか気が早いんじゃありません? ……何よりも、あなたに勝機がありまして? 妹さんとしかお付き合いの仕方を存じ上げないあなたと、人並みくらいには心得のある私とでは、持ち札の数が違いましてよ」

 馬鹿にしきったように金髪の少女はくつくつと笑う。黒髪の少女の口元がわなわなと震え、怒りを灯した目が細まる。

 夕暮れの屋上で二人の女子高生が会話している――取り立てて異様な光景ではないはずなのに、二人の間にはとても女子高生のそれではない、酷く剣呑な空気が流れている。

 ピリピリとした一触即発のムードの中、二人は互いの瞳を見据えながら、まるで時間が止まったかのように佇んでいた。

「……なんちゃってね。冗談でしてよ、ジョーダン」

 ひらひらと手を振りながら、金髪の少女は破顔した。

「それではまた明日、改めてお会いしましょう。……そうだ、折角新しい場所に来たんですもの! 無理にとは申しませんけれど、お友達作りの練習でもなさったら? ……ふふっ、あなたにとっては私と戦うよりもよっぽど難しいですわね」

 好き放題に、それだけ言い残すと金髪の少女は――その場から忽然と消えてしまった。まるで初めから存在して居なかったかのように、消え失せてしまったのだ。

 だが黒髪の少女は驚くどころか、動揺の欠片すら見せない。

 そして、残された少女は唇を一文字に結ぶと――消えた少女の忘れて行った双眼鏡を、床に勢いよく叩きつけた。

 幸い双眼鏡には傷一つなく、少女はしゃがんで拾い上げると埃を手で払ってから歩き出した。



 今朝はなんだが教室中が賑やかだった。どこか浮足立っているように落ち着きがなかったのだ。主に男子が。

「おはよ。なんかあったん?」

 俺は挨拶もそこそこに、教室の入り口すぐのところでたむろする悪友の一人、野村に声をかけた。すると野村は待ってましたと言わんばかりに、嬉々として迫ってきた。

「おいやべーぞ。転校生だって! しかも女子! しかも二人! しかもしかも、可愛いって話だ! いやっほう!」

「転校生ぃ? ……こんな中途半端な時期に?」

「いや、そんなことどうでもいいだろ。肝心なのは、このクラスにも一人来るってことだよ! 女子が!」

 いひひ、と笑いをもらす野村たちに合わせて、俺も笑って見せる。

 しかし内心では、五月半ばと言う微妙な時期にもかかわらず、二人もの転校生がやってくるという妙な事実が気になって仕方がない。同じ時期に二人も、となると、姉妹か何かだろうか?

 適当に相槌を打ちながら、頭の中では出るはずもない答えを考えているうちに、いい加減にしろとばかりにチャイムが鳴った。俺は素直に諦めて、席に戻って噂の転校生様の来訪を待つことにした。

 がらりと引き戸が開くのに合わせて、みんなが、おっ、と身を乗り出す。

「ホームルーム始めるぞー。さっさと自分の席に着けー」

 が、入ってきたのは(当然だが)担任の岡本で、みんな露骨に落胆した。岡本は岡本で空気を察したのだろう、「おいおい」と呟きながら教室を右から左へと見渡し、それから、

「ま、大事な連絡は特にないから、さっさとお待ちかねの本題に入るとしようか。……聞いてるやつも居るようだけど、うちのクラスに転校生だ」

 その言葉が言い終わるよりも早く、クラス一のお調子者である大木が「よっしゃぁあ!」と勢いよく立ち上がり拳を掲げた。続いて何人かが囃し立てるように歓声を上げた。

「うるさい、騒ぐな。……それじゃあ入って来て」

 岡本がそう言うと、ドアが再びがらりと開く。


 ――まるでそれは冷えた鉄のようだな、と思った。それが彼女への失礼な第一印象だったが、後にそれはあながち間違いでもないという結論に至ることになる。


 肩にかかるくらいの艶のある黒髪を弾ませながら、しかしその軽妙な動きとは対照的と言っていいほどに張りつめた空気を纏い、彼女は教室に足を踏み入れた。

 先ほどまでの大騒ぎがどこへやら、流れ込んできた彼女の空気が教室を満たしたように、水を打ったようにしーんとなり、全員が言葉を失ってしまう。

 彼女はぴたりと岡本の横で立ち止まった。そして、小さく頷いてみせるが……どうやらそれは挨拶代りに頭を下げたようだった。

「……あ、あー、それじゃ、自己紹介して」

 担任の岡本まで、一瞬とはいえ、遥かに年下の少女の空気に飲まれてしまっていたようだった。

 転校生は勧められるままチョークを手に取ると、カツカツと黒板に名前を書いて行く。女の子特有の丸っこい字ではないかっちりとした書体が、彼女という人間を物語っているようにさえ思えた。

小隈陽菜おぐまひなです。よろしく」

 か細いがきっぱりとした調子で、彼女は簡潔に名乗った。

 陽菜、という字面を見ながら俺は「あんまりおひさまって感じじゃあないなぁ」などと暢気なことを考えていた。どちらかと言えば月の方がまだ似合っている。

 それから、数秒の沈黙。

「……それだけ?」

 まるで教室に居る全員の言葉を代弁するかのように、岡本がぽかんと口を開けて尋ねた。

「特に、何もありません」

 ぴしゃりと言われた岡本は、諦めた様子で薄くなった頭をポリポリと掻いて、それから慌てたように付け足した。

「あー、小隈は家庭の事情で一か月だけの編入となる。短い間だが、みんな仲良くするように」

 ……彼女は野村の噂通り、顔立ちは整っている。身長は一五〇センチ半ばくらいと言ったところか。肌も白くて綺麗で、平均よりも痩せている方に見える。

 だが。かといって教室中を黙らせるほどの美貌の持ち主か? と問われれば――それは違うだろう。平均以上であることは認めるが、出会った瞬間に一目ぼれしてしまうようなタイプではない。問題は顔ではない。

 暗い……というと語弊があるが、なんというか、人を寄せ付けない雰囲気が漂っているのだ。視覚化するなら、さながらドライアイスの冷気とでも言うような、そういう無機的な冷たさを纏っている。クールビューティともまた違う。

「それじゃあ一番後ろの端っこの席が空いてるから、そこでいいか?ああ、目が悪ければ前の方の席に……」

「大丈夫です」

 岡本が言い終えるよりも先に、小隈さんは答えた。そして答えると同時にもう歩き出しており、みんなのざわつきと「何あいつ?」と言うような批難を含んだ視線を浴びながらも、何ら気にする様子もなく平然とした顔つきのまま席へと向かってゆく。

 すれ違い様に、俺はちらりと彼女に視線を向けた。

(家庭の事情ねぇ……単身赴任にしちゃ短すぎるから、離婚か……いじめもありうるか? ……うーむ、下世話な週刊誌みたいな想像しか浮かばんね)

「…………」

 彼女は俺の視線に気づいたのか、ほんの一瞬だけ俺のことを見た――気がした。いや、睨まれたのか? 釈然とはしなかったが、俺は思わずドキッとしてしまう。それは恋心なんてロマンチックな代物ではなく、自分のしょうもない考えを覗きこまれたというような、ばつの悪さだったと思う。

 折角見てくれている内に、と誤魔化すようにウィンクを返してみたが……ちょっと立ち止まるとか、頬を赤らめるとか、そういう可愛らしいリアクションは何もないまま去って行ってしまったので、俺はちょっと落ち込んだ。

 しかし意外にも、彼女の歩いた後から女の子特有のシャンプーのいい匂いがして、俺はその時になってようやく「小隈さんもちゃんと女子高生なんだなぁ」と実感したのだった。



 小隈陽菜は、とにかく打ち解けなかった。

 クラスの女子では一番人当たりのいい三上や、トラブルメーカー兼ムードメーカーの飯島、さらに人畜無害で温厚な綾瀬でも、小隈という鉄壁に傷を付けることも、わずかな隙間さえ見つけることも出来ず、すごすご退散する始末だ。

 昼休みになり、飽きずに飯島だけは積極的にアプローチを繰り返しているが……徒労に終わるのは結末を見る必要もないくらいに確実である。

 俺は昼飯を食いながら友達とその様子を観察していたが、表情筋がオフになってんの? と言ってしまいたいくらいに、ピクリとも表情を緩めることがなかった。

「な、透。二組の転校生、見に行こうぜ」

 ぼんやり小隈さんの様子を眺めながら、「さて、何をやったら彼女を笑わせたり驚かしたりできるだろう」と、ある意味数学の問題よりも難解な問題と格闘をしていた俺に、野村が提案した。

 そういえば今朝、転校生は二人だと言っていたな、と思い出す。

「よし、行こう」

 何の逡巡もなく俺は席を立ち、男子数人でぞろぞろと二組へ向けて旅立つ。

「……にしてもさー、あれ、小隈さんだっけ? あれ虐待でもされてたんじゃねーの? なんかコミュ障とも違うっぽいし」

 これからもう一人の転校生に会いに行こうというのに、案の定とでも言うべきか、話題は我がクラスの転校生のことだった。とりあえず俺は会話には加わらず、様子を見ることにする。

「親父に襲われそうになったとか?」

「お前そんなんばっかだな。脳みそエロ本でできてんの?」

「ハァ? 六割くらいで全部じゃねえよ。で、透くんはどう推理する?」

「えー、俺ぇ?」

 いきなり失礼全開な話題を振られて、俺は頭の中で言葉を選ぶ。いや、俺も人のことは言えない程度には失礼なことを考えてたけど。

「んー……まあ家族かはわからないけど、人間関係でなんかあったっぽい感じはするよねぇ」

 ああも他人に対して頑なな態度を取っている以上、かつて何らかのトラブルがあったんだろうな、ということは誰でも考えるだろう。ひょっとしたら苛めや、何かもっととてつもない人間不信の原因があるのかもしれないが、それがパッと思いつくほど人生経験豊富ではなかった。

「あ、おい、それどころじゃねえぞ!あれを見ろ!」

 自分で話題を振った張本人の野村が、話を放棄して開け放たれた二組のドアへと一目散に駆け寄った。

「おいやべぇぞ! 美人だぞ美人!」

「お前騒ぎ過ぎだよ……いやスマン悪い。これは騒ぐレベルだわ」

 感想を聞きながら、出遅れた俺は二人の肩越しに教室の奥を覗く。そこには男女入り乱れた人ごみができていた。

 かすかに見え隠れする、その中央には――、

「わおっ」

 と、見ただけで思わずテンションが上がってしまうくらいに綺麗な女子が微笑んでいた。

 なるほど、一流の女優やモデルに対して"華がある"と形容するのを知識としては持ち合わせていたが、たった今、その言葉を実感として理解できた。


 陳腐な言葉だが、まだ名前も知らない彼女は、まさに花のように美しかった。


 猫のように強気そうで大きな瞳、色気をたっぷりと含ませたようなぷるんとした唇、腰まではありそうなウェーブがかった金髪――そのどれもが、彼女を美人足らしめる要素として欠けてはいけないような説得力を持っていた。

 しかし身長はさほど高くはなく、小隈さんと同じくらいかちょっと高いくらいで、せいぜい一五〇センチ半ばといったところだろう。一方で結構しっかりと主張している胸がアンバランスで……端的に身も蓋もなく言ってしまえば――エロい。

「行くぞ!」

 野村が走り出したので、俺たちも急いで追いかける。お調子者でなくたって、お近づきになりたいと思う気持ちは抑えられないだろう。かくいう俺も、ぜひお友達かそれ以上の関係になりたいと思ってしまう。

 彼女の周囲はざわざわとうるさく、一体もう誰と会話しているのかもわからないような有様だったが、野村は果敢にも割って入る。

「いやぁー、初めましてぇー!」

 声をかけられて、一瞬だけ彼女は考えこむような素振りを見せた。

「初めまして。えっと、違うクラスの方、かしら?」

 小首を傾げながら、嫌な顔一つせずに彼女はこちらに微笑みかけた。耳をくすぐる声も可愛らしく、天は二物を与えずというのはやっぱり嘘なんだなぁと痛感してしまう。

「そうなんですよぉ。俺、野村。こっちは前田で、このスケベそうなのが菅原、んでこっちのニコニコしてんのが箱崎」

「おい、お前、人のことエロ顔とか言ってんじゃねえぞ」

「あ? だってマジだろうが。辞書のエロ単語にマーカー引いたとか、小学生の頃『人体の不思議』って本借りたまんま返してねえって話とか、エロエピソードに事欠かねえじゃん」

「おいふざけんなハゲ。殺すぞ」

 言い合いを始める二人と、完全に蚊帳の外で呆ける前田を余所に、俺は一人で先に挨拶を済ませることにした。

「どーも、初めまして。一組の箱崎透。よろしく」

 俺が笑うと、向こうも笑い返してくれた。美人の顔からはマイナスイオンが出ているに違いない――少なくとも、癒し効果は抜群だった。

「よろしくどうも。私、敦賀明香里つるがあかりと申します。お見知りおきを」

 古風なお嬢様染みた物言いにいささか面食らいながらも、不思議とその言葉づかいは彼女、敦賀さんにしっくりくるようだった。

 小隈さんは陽菜という名前なのにあまりそういう感じじゃなかったが、敦賀さんの明香里という名前は、本人の明るさを表現しているようで実に合っている、と思った。

「透、なーに抜け駆けしてんだよ」

「だってお前ら忙しそうにしてたから」

「ちげぇよ。超暇だよ。……あ、そうだ。ねー、敦賀さん。怖い話って興味ない?」

「怖い話、ですか?」

 言葉を繰り返しながら、敦賀さんはきょとんとした表情になる。当然ながら、いきなり切り出されても、一体なんの話だ? と思ってしまうだろう。

「そうそう。こいつさ、めちゃめちゃ怖い話が得意でさぁ……なあ透、歓迎会も兼ねて、今日やってくんない?」

「まあ! 私のために何かしていただけるのでしたら、喜んで参加させていただきますわ」

 俺がいいとも悪いとも言うより前に、勝手にことが進んで行ってしまう。まあ、特に断る理由はないし、むしろ喜んでやらせていただく所存だから、かえって好都合ではあるのだが。

「それじゃあ敦賀さんのささやかな歓迎として、放課後一席設けさせていただきますか」

「さっすが透! お前は出来る男だ!」

「ふふふ、楽しみにしてます。……けど怖い話だなんて、私、大丈夫かしら?」

 むしろダメな方がありがたい……と思ってる男子は多いだろうなぁ。そうは思ったものの、あえて俺は何も言わずに愛想笑いで誤魔化すことにした。



 あまり明るいうちから始めても雰囲気が出ない、ということで、放課後になってもすぐには始まらなかった。誰が抱き着かれる可能性が高いであろう、敦賀さんの隣に座るかという密かで露骨な争いも起こっていたようだが、残念ながら語り手となる俺には参加権が初めからなかった。その分、注目してもらえる語りでアピールするしかない。

「さて……そろそろ始めようか」

 日も傾いて来たし、いい頃合いだ。空は青色よりもオレンジの勢力が増してきている。俺が声をかけると、待ってましたとばかりに机を教室の後ろへと追いやり、男子のほとんどがそそくさと敦賀さんの隣を狙って座ろうとする。

 椅子取りゲームさながらの光景を目の当たりにした女子は「下心丸出し」と呆れたように罵倒していたが、当の敦賀さんはと言えば、その光景をちょっと困ったように笑いながら見守るだけだった。

「ん……?」

 暗幕を閉め終えて、扉横にある電灯のスイッチへと向かっていた途中、ふと教室の後ろへ目をやると――そこには意外な人物が佇んでいた。

 今日お目にかかったばかりの転校生、小隈さんだった。

(怖い話とか好きなのかな?)

 だが表面上、少なくともワクワクしているとか、楽しみにしているような雰囲気はない。一体、何が目的で参加しているのかよくわからなかった。案外寂しがり屋だったりして。

 小隈さんのことはひとまず置いておき、スイッチに手をかけると、一気に教室が暗闇に変わる。それだけでも、何人かはざわざわと騒ぎ始める。

 それから俺は、携帯電話の光を頼りにして教卓へ向かうと、岡本には内緒で教卓の奥の方にしまってある懐中電灯を取り出し、電源を入れた。

 教卓を背もたれにして俺は床に腰掛ける。倒れないように懐中電灯をそっと床に立て、普段の人当たりのいい(つもりの)笑顔から、わざと目を細めた怪しい笑みに変える。

「……それじゃあ、始めさせてもらおうか。そうだな、折角今日は転校生のために喋らせてもらうんだから……この学校にまつわる怖い話にしよう」

「学校の、怖い話があるんですか?」

 敦賀さんが抑え気味に尋ねてきた。俺は薄笑いを保ったまま、ゆっくりと頷いた。

「小学校、中学校、そして高校。学校と名のつく場所には、決まって怪談が"憑き物"だ。もしかしたらみんなの中にも、学校七不思議、なんてものを聞いたことがあったり、あるいは――実際に遭遇したり――そんな貴重な体験をした人も、いるかもしれない。もっとも、そんな体験をしてしまったら、普通ではいられないだろう。……俺にこの話を教えてくれたその人はこの後――いや、この話はまたの機会にしよう」

 女子の中には「やめてよー」と茶化すように叫ぶ子もいたが、それは怖さを誤魔化すためだろう。早くも表情が微かにひきつっている。こうしてまずは、耐性の低い人から怖がらせる。すると恐怖はインフルエンザのように、抵抗力のない者から順に伝播してゆくのだ。

「"テケテケ"という言葉に聞き覚えはあるかな。知らない人のために話しておくと……寒い冬のある日のこと、不幸にも列車に轢かれてしまった女性がいた。その体はまるでマトリョーシカを開いたみたいに、上半身と下半身で真っ二つになっていて、一目見て「もう助からない」とわかってしまう惨い有様だったそうだ。だがしかし、不幸にも冬の寒さの所為で血管が収縮してしまっていたため、彼女はすぐに死ぬことさえ叶わなかった。どれだけ激しい痛みが襲っただろう。いや、あるいは分断された自らの下半身を見て、これから訪れる死への恐怖に狂いそうになり、痛みなんて忘れてしまっていたかもしれない。……いずれにせよ、彼女は人生の最後に絶望の数分間を与えられてしまった、というわけだ。そんな彼女が安らかに成仏なんて出来るはずがない。それからというもの、失った下半身を求め、上半身だけで夜の町を歩き回る霊を目撃した、なんて噂が町中で流れるようになった。ソーセージみたいな内蔵を引き摺って、腕だけで這いずる少女の上半身……。その両腕で歩き回るときの音が「テケテケ」と聞こえるそうだ」

 ちょっと都市伝説をかじったり、夏場の恐怖特集なんかを見たりしていれば、一度くらいは耳にしたことがあるだろう物語。しかし、知っている物語であっても、こんな暗がりの神妙な雰囲気で聞かされると、やはり恐ろしくなるものだ。きっと想像力のたくましい何人かは、不気味な少女の上半身が迫ってくる光景を脳内に描き、一層の恐怖に襲われていることだろう。

 話をしながら、ちらりと主賓である敦賀さんの顔を見る。すると彼女は僅かに眉をひそめていた。

 掴みはよし、と思いつつ、さらに後ろで一人立っている小隈さんにも視線を向ける。光源から遠いため表情は判然としないが、その右手は左の二の腕のあたりを掴んでいた。それが癖なのか、あるいは怖さを紛らわせるための行動なのかはわからないが……ひとまず飽きて帰る気配はなさそうだった。俺はあまり彼女のことは気にせず、続けることにした。

「一般的なテケテケの怪談だと「この話を聞いた人の元に三日以内にテケテケが現れる」と続くことがあるが――そこは安心してほしい。少なくとも、俺が何年も前に聞いた時から今日にいたるまで、俺の前に彼女が現れたことは一度としてない。それにほら、こんな立派な足もちゃんとあるだろ」

 女子の何人かと、男子の二人くらいが、安心したように「ちょっとぉ」とか小さく声を上げたので、俺は「ごめんごめん」と笑って謝る。だが、安心させるのも策の一つだ。一度安心させることによって、その先の恐怖がより際立つというものである。より高いところから落下した方がダメージが大きいのと同じだ。

「一方で、テケテケの物語には別のパターンが存在する。それは学校を舞台とするパターンだ。さて、ここからが本題だ。……これは、去年卒業してしまった先輩から聞いた話だ。放課後、そう、丁度今くらいの時間だ。ある男子学生が言いつけられていた委員会の仕事をようやく終えて帰ろうとしていた時のことだ。もうすっかり校舎は燃えるような夕焼けによって黒い陰が落ち、校庭には部活に勤しむ学生の姿さえなかった。先生以外に残っている生徒は自分一人しかいないようだ。そして、こんな風に――」

 ――キーンコーン、カーンコーン。聞き慣れた大きな鐘の音がスピーカーから飛び出す。

 すっかり話に聞き入って時間を忘れていたみんなは、びっくりして「うぉお」「きゃぁっ」と叫びをあげた。わざと冗長に話すことで、時間調整をした甲斐があったというものだ。

 ……ちなみに、小隈さんの肩が小さく跳ねたのを見逃さなかった。ようやく見ることのできた素の部分に、俺は思わず吹き出しそうになる。

「おい、びっくりさせんなよチャイムぅ!」

 チャイムに文句を言ったって仕方ないだろうに。恥ずかしさを誤魔化すためだろう、男子の悪態と女子たちの乾いた笑いを聞きながら、俺もにっこりと笑い、さらに言葉を紡ぐ。

「――そう、こんな風に、校庭にチャイムが響き渡ったんだろうね……男子は気まぐれに、音のした校舎の方を振り向いた。誰も居ない寂しい校庭。黒々とした陰の所為で、圧し掛かるような印象を与える校舎。見慣れた景色が、いつもよりも重苦しくて、どこか奇妙だ。……そして、ふと、男子は違和感に気が付いた。それは至って普通の光景かもしれない。しかし、その時間には不釣り合いの光景だったんだ。「あれ? 教室の窓のところに……誰かいるぞ?」とね。遠目からではあったけど、はっきりとわかった。三階の教室の窓の向こうには白い影、セーラー服姿の女子生徒が居たんだ。さらに男子学生はあることに気が付いた。「三階の右端の教室と言えば、二年一組の教室だ。僕は二組だからクラスは違うけど……でもあんな子、見たことがないぞ? 転校生かな?」……じっと見ているうちに、彼女も彼に気が付いたんだろう。にっこりと笑いかけて、手を振ってきたんだ。不思議な魅力を持った彼女に、彼はちょっとときめいた。自然と嬉しくなって、笑顔がこぼれた。彼は精一杯、名前も知らない彼女に手を振り返したんだ。だが、その手は急にピタリと止まる。さらに、彼は全身から血の気が引いて行くのをはっきりと感じた。なぜなら、視線の先に居た彼女は窓に手を伸ばすと、笑顔のまま――」

 あえて、勿体ぶるように一拍置く。きっと誰もがこの先の展開は予想がついているのだろう。それでも息を呑んで緊張しているのが、ここからでもはっきりと感じ取れる。

「――右、左、と上半身だけで這い出してきたんだ。制服の丈に合わせて切り取られたかのように、本来そこにあるはずの下半身がない! だけど彼女は満面の笑顔を浮かべたまま、器用に腕だけで校舎を素早く降りてくる。目の前の信じられない光景に、男子生徒は固まってしまって動けない! だけど彼女はお構いなしだ。静まり返った校庭には、彼女が手を着いて走るテケ、テケという音だけが響いている。逃げなくちゃ、逃げなくちゃ! そう思っていても、脚が凍ってしまったように動かない。いや、もしかすると彼女に既に奪われてしまったのか? いつの間にか彼女は校舎を下り終えたようだ。今度は校庭を、まるで蜘蛛のように這う――しかしまるで犬のような速さだ! テケ、テケ、テケ、テケ……音はどんどん大きくなり、彼女の姿もどんどんはっきりとする。彼女の笑顔は変わらない。真っ白な肌に真っ白な制服。そこに映える真っ赤なタイと唇。優しく微笑みかけるより、いっそ化け物の顔だった方がどれだけマシだろう。そうすれば、彼も逃げ出せただろうし、間違っても手を振り返すこともしなかったのに――そう思っているうちに、テケ、テケ、テケ、テケ、と近づいてきて、ついに彼女は彼へと――」

 ――ガラァン!

 すかさず俺は教室後方に視線を送り、サイコキネシスによってバケツを落下させてみせた。

「きゃぁあああああああッ!!」

「う、うわああああああっ!?」

 最高のタイミングを見計らって落としたバケツは、やはりいい具合に恐怖を爆発させた。教室を絶叫が包む。

 さて、肝心の敦賀さんの反応はどうかな? と思った俺は、正面に座る彼女に視線をやると――その視線はやけに鋭く光っていた。予想外の刺すような迫力に、俺の方が息を呑んで気圧されてしまう。

 ……だがそれは一瞬にも満たない間のことで、しかも暗闇だったから確信が持てなかった。なぜなら、直後には目を閉じて「きゃあっ」と一緒になって叫んでいたからだ。その可愛らしい姿には、当然ながら迫力の欠片も感じられなかった。見間違い、だったんだろうか。

 俺はほんの少し困惑したが、場の叫びや鳴き声によってはっとなり、持ち直して話を再開した。

「――幸いにも彼は一命をとり遂げた。目が覚めると彼は病院のベッドの上に居た。まず一つ安心してほしいのは、彼の足が引き千切られていた、などということはなかった。だけど彼は、足を奪われていた――一体何を言ってるんだ? と思うかもしれないが、彼は目が覚めてから一度として、ぴくりとも足を動かすことが出来なくなっていたんだ。つまり――下半身不随になっていたんだ。その怪我と、そして、あんなわけのわからない怪物が居るというショックから、彼は転校したという。……くれぐれも、油断しないでほしい。テケテケは、話を聞いたかどうかに関係なく、今も正体不明の存在のまま学校を駆けまわっているのだからね。もしかするとさっきバケツが落ちたのは――いや、考えすぎということにしておこうか。……以上、これにてテケテケの怪談は終わりでございます。ご清聴、ありがとうございました」

 俺は涙目の面々に向かって恭しく頭を下げる。すると一斉に安堵の声が漏れ出した。

「もぉ~~今日のはほんっと怖かったんだけどぉ!」

「しかも後味最悪じゃん! 男子退治してきてよ!」

「いやでも美少女なんだろ? いざとなったらマネキンの下半身でも持って来れば人間になって結婚してくれんじゃね?」

 暗闇を保っていたカーテンを開けると、目のくらむようなオレンジ色の光が差し込んで教室を彩る。まさに、怪談と同じような雰囲気になりつつある。

「どうだった? 俺の話は。ちゃんと怖がってもらえたかな?」

 すっかり元通りに調子を戻し、俺は努めて明るく敦賀さんに尋ねた。

 敦賀さんは目尻を細い人差し指で拭いながら、

「怖すぎですわよ、もう。高校生にもなって、怖い話で泣かされるとは思いませんでしたわ」

 と、ちょっと怒ったように答えた。

「ごめんごめん。でもその反応がもらえたんなら、俺としては大成功ってことだね……ねえ、小隈さんはどうだったー?」

 教室の奥の小隈さんに声をかけると、みんなが一斉に「え?」という顔で固まった。どうやら小隈さんが居たのに気が付いてなかったようだ。何人かは怖い話を引き摺っているのだろう、いつの間にかいた存在を目にして小さく「ひっ!」と漏らしたのを聞き逃さなかった。

「…………別に」

 ぷいっとそっぽを向いてしまう。それから一瞬だけ、こっちの方を見たが――すぐに鞄を持って教室から出て行ってしまった。わざわざ残ってくれてたんだから、てっきりこれをきっかけに仲良くなれるかなーと思ったけど……駄目だったか。

「でー? この後どうしよっか。どっかカラオケかファミレスでも行く?」

「あの、申し訳ないのですけれど……私、この後用事がありますの。だから先に帰らせていただきますわ」

「えぇー!? 敦賀さん、帰っちゃうのぉ?」

 野村を始め、男子連中が軒並み落胆する。うーん、俺も出来ればもう少しくらい話をしたかったんだが。まあ用事だと言うなら仕方がない。こっちに来てすぐだから、家で荷物の整理だとかいくらでもやることはあるだろうし。

 去り際に敦賀さんが俺のところへやってきて、

「今日は本当に面白いものを見せていただき、ありがとうございました。……できれば、もっと仲良くなりたいですわ」

「……是非もなし、だね」

 最後の方は声を潜めていたため、俺以外には聞こえていなかったようだ。含みのある甘い言葉にぞくぞくとする。とても同い年とは思えない。

「それではみなさん、また明日。今日は本当にありがとうございました」

 一礼すると、敦賀さんは廊下へと消えていき、次第に足音も遠のいて行った。

「ちぇー。メインがいないんじゃ今日は解散だな。……あ、一緒に帰ればよかった」

「あんたみたいな変態、テケテケに襲われて死ねばいいのに」

「おい、そうなったら真っ先に菅原死ぬじゃねーか!」

「あー、今のうちに香典用意しとかなくちゃなー」

「え? 俺死ぬ前提?」



「……で? 陽菜さんはどう見ます、さきほどのアレは」

 学校近くのビルの屋上では、先日に引き続いて二人の少女が対峙していた。相変わらず二人の空気は険悪で、彼女たちの態度には棘があった。

「……あれくらいなら、まだ仕掛けって可能性もある」

 尋ねられた陽菜は不機嫌そうにしながらも、しかし意外と素直に答えた。

「確かにその可能性は否定できませんわね。噂では、あれが彼の常套手段のようですし、何かしらトリックだという線も捨てきれません」

 明香里も陽菜の意見に同意した。

「それで、例のバケツは確認しましたの? そのためにわざわざ一人で後ろに居たんでしょう。まああなたは輪に入れなかっただけ、という可能性の方が大きいですけど」

 陽菜の神経を逆なでする余計なひと言を付け加えると、明香里は意地悪そうにくつくつと笑った。陽菜の眉間がぴくぴくと動き、怒りを露わにする。

 だが陽菜は「怒れば向こうの思う壺だ」と思い直し、不機嫌さを拭えないままではあるが、深呼吸して感情を奥底へと無理矢理に沈めた。

「ワイヤーその他のそれらしいものは、何もなかった」

「ふぅん、そうでしたか。でもあなた、結構怖がっていらしたようですから、見落としちゃっただけかもしれませんわよ?」

「だっ……」

 明香里は悪戯っぽく笑いながら陽菜をからかう。さすがの陽菜も図星を指摘されて、言いようのない怒りが抑えきれなくなる。

「大体、そっち側に付き合う義理は、私にはない! 確かめたかったら、一人でやればいい!」

 顔を夕陽に負けじと赤く染めながら声を荒げて抗議する陽菜に、明香里はおどけてみせる。

「怒っちゃいやん♪ ですわ。今度のお誕生日に煮干しと牛乳でも差し上げましょうか? カルシウム摂れるって話ですわよ」

 馬鹿にしきった明香里に腹を立てた陽菜は、さらに声を荒げて叫ぶ。

「だったら、そのふざけた態度を止めなさいよ!」

「難しい注文をなさるのねぇ」

「っ……! わざわざ私を馬鹿にするために呼んだんだったら、帰るっ!」

「帰るのは結構ですけれど……一つだけいいかしら」

 踵を返す陽菜の背中に、明香里が問いかけた。陽菜は振り返らず、聞き返すこともせず、ただ黙って立ち止まった。

「…………」

「透さんの能力の有無はさておき……"さっきの話"の方は、本当だと思います?」

 その質問に、陽菜の感情から一気に怒りが消え去り、冷静な思考へと引き戻される。

 しばらく考えてから、明香里の方へ向き直ることなく口を開いた。

「……五年前に男子学生が下半身不随になる事故があったっていうのは、そっちも資料で見てるんでしょう」

 先ほどまでとは態度を一変させ、笑いを消した真剣な態度で明香里も首肯する。

「ええ。そして、その頃から先ほどの噂がまことしやかに語られるようになった、というのも存じてますわ」

「話はよくある都市伝説だし、まだ"クラック"かどうかはわからない。バケツが落ちた時も、特にそれらしい気配も現象もなかった。だけど"クラック"だとしたら、私たちが来た以上――」

「数日以内――いや、早ければもうすぐにでも――ことは起きる、と」

「…………」

 陽菜は背を向けたまま、黙って頷いた。

 それを見た明香里は一度俯いてから、すぐに軽い笑みを浮かべ肩をすくめて見せる。

「その時はその時、ですけれどね。せいぜい死なないように、お互い頑張るしかないですわ」

 唐突に飛び出した物騒な言葉に、しかし陽菜は同意も否定もすることなく、ただ無言のまま出口へ向かって歩いて行った。

 陽菜が重いドアを開いて、バタンと閉じるのを見届けてから、明香里は昨日と同じように、煙の如く屋上から掻き消えた。


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