4・23 唯と銭湯 5
そのころ男湯では……。
サウナのふたりから逃げて大浴槽にもどってきた唯が肩を叩かれビクッとなってふり返ると、そこには先ほどの常連組とは違う同年代の見知った男子が手をあげていた。
「よっ。麻宮」
「なんだトラか。びっくりさせるなよ」
クラスで仲のいい友人の三瀬虎之助の登場に唯がおどろきの声をあげる。
「悪い。そんなにびっくりするとは思わなかった。でも、なんでおまえがこんなところにいるんだ?」
「家の風呂が壊れたんだよ。おまえこそどうしたのさ?」
「おれはもともと銭湯好きなんだ。週に二、三回は銭湯にきてる」
三瀬はかけ湯をして浴槽をまたぐと、タオルを頭にのせて唯のとなり腰かけた。
「ここの常連なのか?」
「まさか。クラスの女子が番台にいるような銭湯の常連になるわけないだろ。脱ぐのが気まずいったらないわ」
「だな。あいつにはビックリした」
「今日、おれがここにきたのは偶然だ。たまには隣町に遠出してみようってことでネットで検索して、一番近場のここにきた。まさか椎名が番台してるとは思わなかったぜ」
三瀬が「んー」と湯の中で手足を伸ばし、気持ち良さそうに「ほっ」と息をつく。
「この開放感がたまらん」
「あー、わかる。おれも今日入ってみてあらためて銭湯の広さはいいなって思った」
「だろう」
なぜか自分が褒められたように得意げになる三瀬。
その顔が男湯と女湯をしきる壁にむけられる。
「そういや椎名に聞いたぞ。鹿島やおまえんちのお姉さまがたもここに来てるそうだな」
「おう。さっきも言ったけど家の風呂が壊れたからな」
「お姉さまがたはわかるけど、なんで鹿島まで一緒に?」
「家を出たところでバッタリ出くわしたんだよ。そしたらいきなりわたしも行くって言いだして」
「ふーん。まあそんなことはどうでもいい」
「だったら聞くな」
唯は半眼でにらみつけるが、睨みつけられた友人は彼そっちのけで、女湯と男湯をへだてる壁を恨めしそうに見あげている。
「大切なのは、この壁のむこうに鹿島や麻宮家美人三姉妹が裸で戯れているってことだ」
「銭湯だからな」
「椎名が言ってたぜ。上のふたりのお姉さまがたも麻宮先輩に負けずおとらずの美人だって」
「どうだろ。姉弟だとそういうところはよくわかんねえよ」
「余裕ぶりやがって! うらやましい!」
ようやく三瀬がこちらを見てきたかと思うと肩をつかまれてゆさぶられる。
お湯が跳ねて顔にかかるのがうっとうしかった。
「うらやましいことなんてないって。着替え手伝わされたりマッサージさせられたり、寝ぼけて抱きつかれたり、面倒くさいことこのうえないんだからさ」
「そんなことさせてもらえるのか! 想像の上をいく羨ましさだ!」
嫉妬で血の涙を流しそうな勢いだった。
「見たい見たい。女の裸が見たい」
「やめろ。恥ずかしい」
「せめて鹿島と麻宮先輩の裸だけでもイメージしてやる! 制服のうえから何度もイメトレした成果を今こそみろ!」
じーっと壁を凝視して妄想をふくらませているらしい三瀬。
「見ろよ麻宮。鹿島と麻宮先輩がキャッキャウフフと洗いっこしてるぜ。たまらん」
彼は幸せそうな顔でそう言うが、唯はそれだけはないなと頭のなかで確信していた。
そしてゆっくりとこの残念な友人から距離をとっていったのだった。
男湯で浜名がキャッキャッウフフな妄想を繰り広げていたころ、現実の女湯では……。
サウナから出てきたばかりの晶と涼子が角を突きあわせていた。
「また私の勝ちね」
「なに言ってるのよ。外に出たのは同時でしょ」
「わたしのほうが後から出たし」
「それを言うなら、入るときはわたしのほうが先だったわ」
「せこい」
「どっちが」
涼子との言い合いを続けながら、晶はひそかにほくそ笑んでいた。
実を言うとサウナに入ったのはブラフだ。次の勝負のための布石である。
冬の日などの寒さに強い晶にたいし、涼子は夏の日などの暑さに強かった。
そんなふたりがお風呂をステージに勝負すれば涼子に地の利があるのは当然である。
お風呂は基本、熱いものなのだから。
しかし、そんななかでも晶に有利なお風呂があった。
「次はこれで勝負よ」
水風呂である。
「ふーん」
「な、なによ? 逃げるの?」
「いいえ。いいわよ」
晶の思惑を知ってか知らずか(おそらく知って)、涼子はその勝負を受けてたった。
「それじゃあ勝負!」
いっせいに水風呂につかるふたり。
「冷たッ!」
さすがに逃げ出したくなるような冷たさだが、必死にたえる晶。
ここでしか勝てないことを知ってるのだ。
そしてそうそうに出ていこうとする涼子。
「って、早っ!」
涼子は水に足をつけただけで外に出て、近くにあったジェットバスに退避した。
「わたしの負けよ」
「な、なんかあっさりしすぎてて実感わかないけど……やったわ! 涼子に勝った!」
「やっぱり冷たいのは苦手」
「作戦勝ちってヤツね」
「皮下脂肪のあつい晶がうらやましい」
「……はい?」
「ほら、わたし、脂肪が薄いから」
「なっ……」
「脂肪で守られてる晶にはかなわない」
「こ、この女……それを言うためにあえて水風呂勝負を受けたのか」
「どこかで水風呂勝負をもちかけてくるのはわかってたわ」
ニヤリと笑う涼子。
これぞ肉を切らせて骨を断つならぬ皮膚を切らせて脂肪を断つだ。
麻宮涼子、機略縦横の一撃だった。
「あなたの勝因はその無駄にでかいふたつの脂肪タンク。つく場所が一歩違うだけで贅肉とよばれるその醜いかたまりが心臓を保護し、防寒着の役割をになっているから冷たい環境に適応できてるだけ。トドやセイウチと同じ。つまり……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
その単語だけは言わせてはならじと晶が慌てて待ったをかける。
慈悲をこう哀れな敗者の姿がそこにあった。
「つまりデブということ」
しかしこのときの麻宮涼子に容赦という二文字はなかった。
「い、いやあああぁぁぁぁ!」
浴室のタイルのうえにへたりこむ鹿島さんちの娘さん。
寸鉄人を刺す言葉とはこのことか。
だが、策士は策におぼれた。
涼子が燃やした野火が意外なところに飛び火したのである。
「へえ。涼子、あなた、わたしのことをそんなふうに思っていたのね。悲しいわ」
近くの大浴槽につかっていた沙希から地獄の底から響いてくるような低い声が発せられる。
「へっ?」
思いもかけない方向からのカウンターに、涼子はマヌケな顔を一番上の姉にむけた。
彼女のこんな顔はめずらしい。
麻宮家の女王がその凹凸のはげしい我がままボディを見せつけるようにして湯船から立ちあがる。
その底光りにする目を見た涼子の顔から血の気がうせた。
「バーカ」
晶にそう言われてもしかたない失態だった。反論できないし、している余裕もない。
「いくらあなたのようなツルペタが神に百度願ったところで手に入らないスタイルが妬ましいからといって」
「ツルペタっていうほどないわけじゃ……」
涼子は大きくはないがたしかなふくらみが感じられる自分の胸に手をおいて、口のなかでモゴモゴとつぶやいた。
「黙れ。話の途中だ」
「はい」
うなだれる涼子。これまた珍しい光景だ。
「まあまあ姉さん。涼子ちゃんも悪気があったわけじゃないんだから」
晶への悪気は百パーセントだったけれど。
晶もなにか言いたそうな顔をしたが、今回は黙りこんだ。
懸命な判断といえる。
「いいえ、許さないわ」
夕貴のとりなしにも聞く耳もたず。
「そんなだから男のひとりもモノにできないのよ」
その言葉の刃は弟命で他の男など眼中にない涼子ではなく、大学生にもなって浮いた話がひとつもない真ん中の妹の背中をバッサリと斬り捨てた。
驚いたのは夕貴だ。
彼女は「へっ?」っとマヌケな顔になり、
「胸がなけりゃ色気もないから男もいない」
どう考えても彼女に向けられているとしか思えないようなセリフに顔をひきつらせる。
「べべべ、べつに彼氏ができないのと胸の大きさは関係ないと思いますけど?」
「あら? どうしたの?」
本当になにも気づいていないという顔で沙希は首をかしげ、涼子よりもなだらかな夕貴の胸を見て、ああと納得した。
少し哀れみの眼差しで。
「家事が大変な夕貴の胸が大きくなくて良かったんじゃないかしら。これで色々と大変なのよ。下着選びとか肩がこったりとか、それに……」
「それに……バカっぽく見られたりとかですか?」
いま麻宮家の最終兵器が動きだした。
合気道三段。高校時代、鬼の風紀委員長として学び舎の秩序を完璧に守り通した妹が姉の眼力を真っ向からにらみ返した。
学生時代の沙希が胸のことで偏見の目で見られていたのを彼女はよく知っているのだ。プライドの高い彼女はそれが我慢ならず必死で勉強して一流大学に入ったことも。
「言ってくれるじゃない。このチチブ平原」
「どこの地名ですかそれ!」
風呂桶に満たしたお湯を沙希の顔に盛大にぶっかけた。
沙希の髪の毛先からポタポタとお湯が滴り落ちていく。
「ふっ……ふふふっ……久しぶりにやる? 麻宮家最強決定戦」
「そういうのが馬鹿っぽいって言うんです」
このとき滝の湯の女湯は二大怪獣大決戦の場と化したという。