時は過ぎねど
薄桜鬼とはなんら関係はないのです。
あと高知県を離れて久しいので土佐弁がエセ弁になっているかもしれません高知県民の皆様すみません。
「いつ行くがー?」
「明日の朝の電車に乗るつもりだよ」
ええーそんなに早いがー、と一斉に声が上がり、春一は苦笑した。
「わざわざ東京の高校に行くってどういうことながですか風間先輩」
「だってこの村には高校がないじゃないか」
「進学せんでここで就職しましょうよ」
「風間先輩ならみんな採用したがりますよ、なあ?」
「そうは言っても、将来君たちも進学するんだろ?」
そう言うと中学生たちは不満げにむくれた。数年前の自分もこんな表情で先輩方を見送っていたのだろうか。
「人気者はええなあ、風間」
聞き慣れた声と同時に乱暴に肩を叩かれ、振り返りながら答える。
「就職組に後輩が群がらないのは当然だろ、このままずっと残るんだから」
案の定、友人の居吹 煽がにやにやと笑っていた。
「それにしてもぐずぐずと居残っちょって、進学組で残ってんのはお前が最後やぞ?」
「そうみたいだね」
村唯一の小学校の体育館。壮行会の主役として招かれ、春一は舞台の傍で席に着いている。やって来た人々をざっと眺めても、ここに残るという居吹以外に同年代は見当たらない。
実際のところはわざわざ見回さなくても、今までの壮行会の回数を数えればわかるのだが。
誰が去ったのか、誰が残ったのか。そんなこと、名簿やアルバムを見なくても顔を思い浮かべながら数え上げられる。
今年中学校を卒業したのは春一自身を含め五人。
彼らだけではない。小学校の子供も中学校の後輩も、みんな知り合いだ。
人口が少なく高齢化もじわじわと進んでいるこの村を出ることに罪悪感はある。しかし今年去る四人の内二人はきっと帰って来るだろう。
この村はいろんな意味で特別なのだ。
「……あれ、薫さんは?さっきまでいたよね」
「風邪気味言うて帰ったで」
下の名前を言うだけで、一つ年下で中学二年生の東風 薫のことだと通じる。誰が来て誰が帰ったのかも必ず誰かが知っている。
「また帰って来るろぉ?」
ぼうっとしていると、小学校低学年の男の子が座った春一にじゃれつきながら尋ねた。春一は曖昧に笑い、彼の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
この少年の名前だって覚えている。山背家の次男坊、山背 遙。
「また、いつかね」
けれどもうここに住むつもりはないとは言えない。
四人中二人はきっと帰る。しかしそれは春一ではない。
「おい春一!」
威勢のいい声に顔を上げると、山背家の長男が仁王立ちしていた。山背 彼方、小学校六年生。良く言えば年長者にも物怖じしない。悪く言えば、というか普通に言えば口が悪い。
「舞い納めじゃ、相手しぃや!」
「よし、受けて立とう。ちなみに連敗を重ねるだけになるのはわかってるだろうね?」
「んなわけあるかぇ今日こそは勝ってやるわ!」
鼻息も荒く体育館を出て行く彼方を追って立ち上がると、周囲で騒いでいた子供たちも彼方の様子を見て察したらしくわいわいと外に出て行く。
外に出ると満天の星。漆黒のビロードに水晶を砕いてまけばこんな風になるだろうか。そんなことはあるまい。空は空。星は星。代用品で再現などできないに違いない。
この星空もしばらくは見納めである。
「おお、舞うがかぇ」
騒ぎを聞き付けた男性が体育館から出てきた。続いて大人たちもぞろぞろと見物に来る。
「おんちゃん酔っちゅうやん、そんなんで審判できるが?」
早速彼方が茶々を入れる。
「見くびりなや、まだ酔っちゃあせんわぇ」
「酔っ払いは自分は酔っちゃあせんって言うやん」
「ごちゃごちゃ言うとらんで早よう立ち位置に着きや」
校舎裏に迫る山に、一際高い杉の木がある。その梢にいつも結び付けられている黄色い布切れ。風雨にさらされ色あせたそれは夜闇の中でもそれなりにはっきりと見える。
あれを二人で競って取りに行くのだ。
校庭の端と端に向かい合って立つ。この競技が単なる奉納の儀式だった昔は神社の境内で行ったらしいが、競技となった現代においては縛りはない。
正々堂々と戦うだけだ。
「双方準備はよろしいか?」
とはいえ妨害もありだが。
「一、」
自らの「気」――正確にはなんというのか知らないが気配とか空気とかそういったもの――を空気中に拡散させ、
「二の、」
風に混ぜ込み操縦が利くようになったそれを体の周りに引き寄せ、
「さー…………」
「おんちゃん焦らしなや!」
やはり酔っているらしく最後のカウントを長々と伸ばす男性に彼方が噛みつく。しかし彼も集中しているらしく、じっとこちらを睨むようにして微動だにしない。
不自然な動きをする風が校庭に集まり始める。
先程まできゃあきゃあと騒いでいた子供たちもこの瞬間は静かだ。
「――――三っ!」
男性が頭上に掲げた右手を振り下ろし叫ぶと同時に、地面を蹴る。
一瞬風が鳴る音しか聞こえなくなるのはいつものことだ。風を操るのはもはや無意識の領域。自分の空気に染め上げた風が体を浮かし、一気に校舎の上空まで翔け上がる。
校舎の反対側では、ほぼ同じタイミングで彼方が舞い上がっていた。不敵な目がこちらに向けられ、しかしすぐに杉の樹を捉える。
彼は体が軽い。したがっていつも素早さで勝負する。真正面から速さで勝負しても勝てるわけがない。そもそも足で勝とうなどとは春一も思っていない。
体を支える風とは別の風の塊を両手に抱え、加速しようとする彼方に容赦なくぶつける。バランスを崩した彼を悠々と追い越し、杉へ向かう。
無論彼方もやすやすとやられはしない。体勢を立て直し追いすがる速さは、同年代どころか一つや二つ上の生徒も凌駕する。
そもそも彼の血筋、山背家は速さを重視し俊敏に相手を出し抜く流派だ。彼方はそれをよく体現している。
しかし春一の血筋、風間家は技巧を重んじる。風を器用に操り、相手の足を止め、妨害も受け流す。
空を翔けながら振り返ることなく、春一は一つ二つと連続して風を放つ。だが彼方も真正面からそれを受けるようなことはもうしない。確実にそれらを避け、接近する風の渦。
向こうの風鳴りがはっきりと聞こえるようになってからようやく、春一は振り返った。確実に速度が落ちる後ろ向きで飛び始めた春一に、警戒した彼方は飛び方を不規則に揺らし始めた。狙いをつけにくくしているのだろう。
悪くない動きだ。けれど逃がしはしない。
春一は空を切るように腕を大きく左から右へ振った。波のように動く風が彼方を捕らえるのを確認する前に第二波、第三波。
広範囲を襲う波状の風に巻き込まれた彼方が後方に押し流されるのを尻目に、春一は間近に迫った杉の梢に手を伸ばした。
わあっと地上が沸くのを聞きながら、春一は去年の夏を思い出していた。
突然ふらりと現れ、着流しに下駄を履き寝癖がそのままで顔も眠そうだったあの男性は、もっと速かった。技巧も繊細で、なおかつ力強くて。
何よりも印象に残っているのは、秒読みの段階。
三秒間に風を準備する素振りも見せずに突っ立っていた。それなのに、次の瞬間撃ち出されたように高く高く翔け上がっていた。
凪浜 疾風。上京した凪浜家の長男。
彼は春一を打ち負かし、真意のつかめない飄々とした笑顔で言った。君にはいつか、うちの会社に入ってほしい。君みたいにちょっと変わった人材が必要だ、と。
別に彼を追うつもりではない。この村の外も見てみたい、そう思っただけだ。
普通の人間は空を飛ばないと知ったのはいつのことだっただろうか。
風舞は世界中でこの村にしかないと知ったのはいつのことだっただろうか。
この村の外に出たらもう飛べない。
そう知ったのはいつのことだっただろうか。
「普通」の社会で生きていくためにも飛べないし、個人差はあるにせよ物理的にも飛べなくなるのだそうだ。だから出ていった者もかなりの確率で帰って来る。飛べないなんて耐えられない、と言って。
ちなみにあの男、凪浜は外でも飛べるという。
試したい。自分はどうなのか。そして、
追いつきたい。
伸ばした手が、布をつかんだ。
ここは風神が今も住まう村。
風神の加護を受けて村人たちが空を舞う村。
夜明け頃に家を出た。
着替えなどを詰めたリュック一つを背負い、何やかやと貰った餞別を入れた紙袋を提げて道に出るとバイクを停めて若い男性が立っていた。
「家族との挨拶は済ませて来たがかぇ?」
「はい。すいません、こんな朝早くに」
「気にしなや。いいから早よぉ乗り。荷物はそれだけなが?」
「もう大きい荷物は向こうに送ったので、これだけです」
彼は風巻 弘人という。生まれはこの村、育ちは外の人だが、数年前に帰って来て林業に携わる。生まれてすぐ村を出たせいか風を操るのは得意ではないが、今ではすっかり馴染んでいる。
バイクにまたがった彼がヘルメットを差し出したのを受け取り、春一はバイク後部に座った。動き出したエンジンの振動を受けてヘルメットをかぶる。
「後輩らぁには挨拶せんでええが?」
「こんな早朝に挨拶するわけにもいきませんから」
「いや、それは違うやろ」
自身もヘルメットをかぶりバイクを発進させた弘人がエンジン音に逆らって声を大きくした。しかしその声は面白がる響きを内包している。
「挨拶せんでええようにこんな早くに出発したがやないがかぇ」
「昨夜あんなに盛大に祝ってもらいましたから、もう十分です」
答える声は呟きの音量で、しかしバイクに巻き上げられた風を操り確実に弘人に届ける。くははっ、と彼は吐息で笑う。小声もちゃんと聞こえるわ、春一君器用やなぁ。
「こうして若者が減っていくがやねぇ、知らん内に一人また一人」
冗談めかした口調だが、春一は軽口をたたく気分になれずに黙って背後を振り返った。
急で曲がりくねった坂道を下っていくと、バイクの後部座席から見える風景は次々と移り変わっていく。
朝の白っぽい光に照らされる古い民家。まだ苗の植えられていない茶色い棚田、その間に鮮やかな緑の畑。この村のメインストリートは舗装されてはいるもののけして大通りとはいえない道で。
それがこの道。
村民全員が毎日歩く道。
「春一君、学校見えたで」
弘人の声に前方を振り返ると、弧を描く道の斜面の上に小中隣接の学校が見えた。
その風雨にさらされ白茶けた壁面を、朝の風に撫でられ砂埃が立つ校庭を束の間眺め、春一はまっすぐ前方に視線を戻した。
もう振り返らない。そう決めた。
九年間を過ごした学校に、十五年間を過ごしたこの村にいる昔の自分が、バイクに乗って行きすぎる自分を不思議そうに見つめているから。
どこに行くの、どうして行くの、と彼らの目が問い掛けているから。
「いつかは運動会も文化祭もなくなってしまうがやろか」
弘人の独り言はエンジン音に掻き消される前に風が届けてくれた。
「……ここから完全に人がいなくならない限りはなくなりませんよ」
「そやね。みんなお祭りとか好きやきね。それに若者もそれなりに帰って来るし、大丈夫よな」
いささか感傷的な口調で言った弘人は不意に声を明るくした。
「そういや去年春一君らぁが文化祭でやった劇、あれここの民話が元になっちゅうがやろ?あれは良かったわぁ」
「なんで急にそんな話になるんですか」
「少なくとも君らぁの代で昔話が消えることはないやろなと思ったがよ。Uターン率が高くて、子孫が文化を伝えていけるようならそうそうこの村はなくなりゃぁせん。大丈夫やで、またいつでも戻って来られるき」
からりとしながら温かな響きを抱いた弘人の言葉に、胸の内に押し込めておいた思いがこぼれそうになった春一はただヘルメットの額を彼の背中に押し付けて、はい、と小さく答えた。
そしてバイクは村を出る。
山を下っていくアスファルトの道の、斜面と反対側にはガードレールが延々と伸びている。
首を伸ばしてその下を覗きこめば河が流れている。いずれは幾本もの支流と合流し、幅の広い大河となって海に流れ込むがここはまだ上流で大きな岩が多く、荒々しい流れが浅瀬で白い飛沫を飛ばしている。水流が穏やかになる淵は深く透き通った翠。
日本最後の清流と呼ばれる河が県内にあるが、この河はそれを上回るほどに澄んでいるという。
道は河に沿うように、下流へと続いている。まだ芽吹くには早い季節で木々に葉はなく、裸の枝の間から河がよく見えた。
意識を揺さぶり全てを洗い流そうとする絶え間ない水の音に身を預けていると、ふとかすかな音色が聞こえた。
たくさんの薄くて硬いものがこすれ合う、衣擦れや葉擦れに似た軽やかな音。
下流の方へ目を凝らすと、それが見えた。
河の上流へ翔け上る、清流と同じ色をした龍。鱗は浅瀬の冷涼な薄水色、鬣は淵の静謐な翡翠色。春一を一瞥した瞳は夜明けの空の色。
寸の間目が合ったが、人間など取るに足らない存在なのだろう、すぐに通り過ぎてしまった。息を呑んでその背中を見送り、身動きしない春一に弘人が声をかけてきた。
「なんか見えたがか」
「……龍が、河をさかのぼって行きました」
「龍か。幸先ええなぁ、それ瑞兆やで」
「いや……向こうは勝手に瑞兆にするなとか思ってるんじゃないですかね」
確かにな、と弘人はひとしきり笑った。
「疾風さんが言っちょったちょっと変わった人材、ってああいうモノを見る人のことなが?」
「らしい、です」
「風間家は神官の系列やきね。春一君がそういうの見るのも無理ないわ」
でも才能あるのはいいことや、と言う弘人に、こんな才能いりませんと言い返す。
「変なモノとか見たくないですから」
「でもそれが就職に役に立つがやろ?」
「まだ疾風さんのところに就職するって決めたわけじゃないですから」
揺らいでいるのは事実だが。
村人のほぼ全員が持つ、風舞の才とは別の才能を活かせる職場が魅力的でないはずがない。けれどあっさりと折れるのは癪だ。
いつか自分で選択するまで、数多の可能性は持ち続けていたい。
欄干がなく、素っ気ないコンクリート製の沈下橋を幾つも通り過ぎる内に川幅は広くなり、表情は穏やかになってくる。
出発した時間帯はどこか霞がかかって見えた空が鮮やかな青に移行した頃。
「着いてしまったなぁ」
山際のどん詰まり。小さな町の、小さな駅。市内から続く路線の終着駅の、猫の額ほどの駐車場にバイクを滑り込ませながら弘人が呟いた。
「先に言っちょくけんど、見送らんきね」
「ここまで送ってくださっただけで十分です」
停められたバイクから降りるとふて腐れた声がぶつけられた。ヘルメットを返しながら言うと、自らもヘルメットを脱いでハンドルに頬杖をついていた弘人は寂しそうな笑顔を見せた。
「夏にはまた、帰ってきてや。みんな待っちゅうき」
「はい。……ありがとうございました」
頭を深々と下げると、撫でるように軽くぽんと叩かれた。ふ、と音のない笑い声に続き、バイクのエンジン音が体を震わせる。ようやっと顔を上げると、遠ざかりゆく弘人がこちらに背を向けたまま片手を上げた。
そんな彼の姿も視界から消え、春一は踵を返して改札を通り抜けた。
がらんとしたホームは、故郷と異郷の間の空白地帯のように思えた。
電車が来るまでにはしばらく時間がある。
座る場所を探して頭を巡らせた春一は、無人だと思っていた灰色のホームの一点に色彩を見つけて目をしばたたかせた。
微風に揺れる桜色。染井吉野ではない。山桜の、紅色がかった桜色だ。
ベンチに誰かが横たわっている。近づくと、女性が顔まで隠すようにして桜色の布を体にかけているのがわかった。その下の和服はもっと淡い春の色をしている。
その色彩に春一は立ち止まった。見覚えのありすぎる組み合わせに、舞台の上で聞いた音響、当てられた照明、そして客席の息遣いが鮮明に思い出される。
しかし彼女がここにいるはずはないのに。
彼の動きを感じたのか、女性が布で顔を隠したままゆらりと頭を上げた。かずいた布が邪魔で目が見えない。
桜花
かすかな、透き通った声で言葉が紡がれる。
時は過ぎねど 見る人の
恋の盛りと 今し散るらむ
『……花の盛りはまだ過ぎていないというのに君が散り急ぐのは、君を愛する人に惜しまれる内に散ろうと思っているからだと言いたいのか』
彼女が詠った短歌に答えるように、春一は反射的に台詞を口にしていた。
文化祭の演目、『錦秋桜』の一場面。
桜の精である桜鬼と、主人公の青年の艾が言葉を交わす。想いを万葉集の短歌に託す桜鬼と、彼女の真意を汲み取る艾。
ベンチから立ち上がった女性は春一を見上げて笑んだ。
『ぬしが言ったことではないか、桜は一気に散るのが一番綺麗だと。ぐずぐずと咲き続けるよりも、どうせなら散り際に愛でられる方が良い』
『しかし……せっかく一年ぶりにまとった春の晴れ着だというのに』
『艾、蓬の名を冠する者よ、詫びたいのならぬしの名を持つ餅をまた持ってきてくれ。春の楽しみは衣だけではないのだよ』
うふふ、と悪戯っぽく笑った女性は、ついと手を上げて顔を隠す布を取り払った。
「……もっとも、うちにとってあなたは、春を呼ぶ風の名を冠する者ながですけど」
「……薫さん、風邪気味だったんじゃ」
「夜が明ける前にこの格好に着替えて、風間先輩が来る前に駅に着いて、待っちょかないかんかったがですよ?夜遅くまで壮行会に参加しちょったら早起きできんし」
それでもやっぱり眠かったき、ついベンチで寝よりました、と彼女、東風 薫は眠たげな眼で笑う。
「でもなんでわざわざ、」
「風間先輩、今日の朝改めてみんなに挨拶して来んかったでしょう」
咎めるような薫の視線に、春一は内心諸手を上げた。図星だ。
「……うん、ご指摘通りして来なかったよ」
「風間先輩の性格考えると、知らん間に東京に行きそうやき待ち伏せしようと思ったがです」
「でもその時間だとまだバスは出てなかったんじゃない?」
「引佐先生に車出してもらいました」
「え、引佐先生巻き込んだの?」
「巻き込んだなんて人聞き悪いこと言わんでください。相談したら送ってくれたがです」
「薫さん、帰りはこの衣装で歩いて帰るの?」
「まさか。先生が駐車場で待ってくれちゅうき、また乗せてもらいます」
他人様まで巻き込んで、と春一は頭を抱えたくなったが、引佐先生は黙って迷惑をかけられるタイプではないと思い当って別の意味で頭を抱えたくなった。
彼女のことだ、薫にどう相談されたのかは知らないが、きっと乗り気になって車を駅までかっ飛ばしたのだろう。
その様子が目に浮かぶようで渋面をする春一を薫がじっと見つめる。それに気が付き薫を見返した春一は、美しいが動きにくそうな彼女の衣装を改めて眺めた。
「その衣装、動きづらいって散々こぼしてたのにわざわざ着て来たの?」
「……着て来ん方が良かったですか?それとも似合っちゃあせんとか」
ただ尋ねただけなのに何故かしょげた様子で俯く薫に、春一は慌てて首を振った。
「もう一度、薫さんのこの姿が見られて嬉しいよ」
本心からの言葉を添えると、目を瞠った薫は頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。その表情に、去年のことを思い出す。
あの日も、彼女らしいこの笑顔を見て、安堵したのを覚えている。
「最初の衣装合わせの時、あまりにも薫さんが桜鬼の役にぴったりで……正直、怖くなったんだ」
「怖くなった?」
「気配が人間離れしていたというか……あまりにも雰囲気が透き通ってて、僕たちとは全然違う世界に行ってしまうんじゃないかと思った」
ただの想像だけどね、と苦笑すると、薫は不思議そうに小首を傾げた。
「でもうち、昔話に伝わっちゅう桜色の髪でも紅色の目でもないですよ?」
だが一瞬、長い黒髪は春の色に、鳶色の瞳は紅玉の色に見えた、とはさすがに春一は言わなかった。
衣装を着て仮舞台に立ち、立ち稽古を始めた瞬間薫の空気ががらりと変わった。もはや現代の人間が持ち得ない、純粋な眼差しと儚げで透明な所作。刹那的でありながら久遠を映す気配。
置いて行かれるのではないか。
何の根拠もなく、しかし本気でそう思った。
だからこそ、稽古を終えた薫が演技を止めて見せた笑顔にほっとしたのだ。
「薫さんに置いて行かれるかと、あの時は本気で思ったよ」
「うちは風間先輩に置いて行かれるとは思いませんでした」
肩をすくめて言った春一は、薫に冷ややかにそっぽを向かれて言葉を失った。
そんな彼の様子に気づいているのかいないのか、線路が続く先を見つめながら薫は言葉を続ける。
「風間先輩が東京に行くって聞いた時、先輩は村を見捨てたがやろかと思いました。この村も、そこに住んでるうちらぁも、もう先輩はいらんがやろかって」
「そんなこと、」
「そんなことないって思いたかったですよ!」
否定しかけた春一を遮り、薫は勢いよく振り返った。その眼差しの強さに口をつぐんだ春一に薫は言葉を叩き付ける。
「でも先輩、ここの言葉喋らんようになったやないですか!」
そうか、と春一は麻痺した頭の片隅で思った。
故郷を捨てて、言葉を捨てて、大切な人たちを捨てて、自分は異郷に行くのかもしれない。
大切な人たちを裏切ったのかもしれない。
「東京の人は標準語で喋って、方言は使わんってうちも知っちゅうけんど、だからって……だからって、ふるさとの言葉、無理矢理標準語にせんでもええやないですか!」
ぽろぽろとこぼれてきた涙を拭いもせずに、薫は春一の前に仁王立ちしている。
「言葉が変やって言われてもええやないですか。だってふるさとの言葉やもん、無理に変える方が変です。それで変な奴やって言われてもええやないですか。だって……」
薫は一度言葉を切って俯き、そして真っ直ぐ春一の目を見た。
純粋で、強くて、綺麗な瞳だった。
「それが、うちらぁやもん」
飾ることを知らない言葉だった。
「……そうやな」
自然に出てきた言葉は、ふるさとの言葉。
わずかに目を見開いて春一を見つめる薫に、春一は微笑んだ。
どこに行こうと、自分はやっぱりここの人間なのだ。
目の前の、真っ直ぐな少女がいる、ここの。
一度ここを去ったとしても、また戻って来ればいいのだ。
「僕はここの人間やからな。捨てるわけないやろ、こんな大事なものを」
一時止まっていた涙が一粒、薫の頬を滑り落ちた。それを親指で拭い彼女の目を覗き込む。
「いつか、戻るき。約束する」
「……本当?」
「こんな時に嘘はつかんわぇ」
くすり、と薫は笑ってくれた。そして一歩後ずさり、かすかに震える声で言う。
『遠方にでもどこにでも行け。――待っているから』
遠方へ――もう戻って来られないかもしれないくらい遠いところへ行く艾に向けられる台詞。
『どんなに時間がかかっても、待っているから』
『……ならば、できるだけ早く、帰ってこよう』
民話では帰らなかった。否、帰れなかったのだろう。それでも桜鬼は待ち続ける。
きっと今でも待っている。
けれど、彼女をそんな目に遭わせはしない。
「君が待ちくたびれんうちに、帰ってくる」
台詞ではなく自分の言葉で締めくくると、薫はふっと笑ったように見えた。見えた、と思った瞬間、桜色が視界を覆いはっきりとは見えなかったのだ。
再び布をかずいた彼女は、薄っすらと笑んだ口元だけを見せて詠った。
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
砕けてものを 思ふころかな
「詞花集の、源重之の歌です」
す、と布の端を持ち上げ、口元に添える。
「手紙も電話もいりません。……うちに何か言うがやったら、直接来て言うてください」
そしてきびすを返す彼女の背中に思わず手を伸ばし、春一は着物の袂をつかんでいた。
「薫さん、……その歌は」
「今年の夏、また、風舞見してくださいね」
その瞬間振り返った薫は、晴れやかに笑っていた。
薫が改札に消えてから、春一は彼女が残した風の軌跡を追っていた。
桜の花弁が舞っている。
切れ込みの深い、紅色を滲ませた山桜の花弁。秋にしか咲かない桜の花びらのはずだが。
それは着地するのを嫌がるようにゆるりゆるりと踊っていたが、やがてすいっとホームに降り立った。
その瞬間そこに一人の青年が立っていた。
紅玉の瞳に、腰まで流した白い――いや、淡い桜色をした髪。透き通った怜悧な美貌。昔話通りの容姿だ。
春一は息を呑んで、声を絞り出した。
「……あなたが……」
そう、「錦秋桜」の主人公、桜鬼は娘ではない。民話では青年である。そして準主役の艾に当たるのは蓬という名の娘。脚本と原作では性別を逆にしている。当人たちに会う可能性がある春一だからこそ、原作そのままでは当人たちに申し訳ないと思ったからだ。
「彼女――薫というのか、あの娘、私のところに来たぞ。暁の頃、あの衣装でな」
「そんな、まだ暗い時間に……?」
「ありがとうと、言っていた。私の話が残っていたお陰で、風間 春一と――ぬしと同じ時を共有できたと」
きっとこの瞳は、蓬という少女に会った頃はまだ、もっと鮮やかな苛烈な色をしていたのだろう。しかし長い長い年月をかけて待ち続ける彼の紅い瞳は憂いも哀しみも溶かし込み、深く深く澄んでいた。
「帰ってやれ。待たれている内に。花が散ってしまう前に」
桜鬼は、彼にとっての花はもう散ってしまったと知っているのだろう。それでも、信じているから、約束したから、こうしてずっと、ここで。
「帰ります。必ず。……彼女に返事をせんといかんから」
桜鬼は無言で頷き、かすかに表情を綻ばせた。
「――旅立つぬしに、餞を」
電車がホームに滑り込む。その風を受けて、彼の姿が掻き消えた。
無数の花弁が舞い散っていた。
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
砕けてものを 思ふころかな
激しい風に、動じることのない岩を打つ波は砕けて散っていく。振り向いてくれない、気付いてもくれないあなたに想いを寄せている私の心のように。
そう詠った君の想いを受け止めたい。
その激しさに、ともすれば僕の方が砕けてしまうかもしれないけれど。
必ず君の下に帰るから。返事を僕の声で返すから。
だから待っていてほしい。
同じ時を、一緒に生きよう。
引用
万葉集(第十巻)
桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋の盛りと 今し散るらむ
作者不詳
詞花集 恋上・二一一
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな
源重之(四十八番)