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猫の耳  作者: 高秧恒祈
8/8

8.秘密



「ええっ!それって……正気なの!?」

 ノートを写し取りながら私の話を聞いていた美紀は握っていたペンを取り落とし、少々大きな声を出した。

 階段型に座席が並んだ大教室は、次に始まる社会学の講義のために集まり出した学生らが次々に着席を始めている。美紀の声に釣られてこちらに興味を示した数人の好奇の眼差しが突き刺さり、私は一瞬にして頬が紅潮しだすのを感じた。

「……ちょっと美紀、声が大きいよ」

 私は恥ずかしさに顔を伏せて手元にあった辞書の薄いページを無駄に繰りながら、彼女にその話をしたことを後悔しかけた。

 美紀が常習的に居眠りをしている独語のノートを写させて欲しいという、いつもの頼み事に加えて2、3日部屋に泊めて欲しいだなんて言い出さなければ、きっと私はその話をまだまだ打ち明けられずにいただろう。

 急にウチに泊まりたいだなんて言い出した理由は、地元から出てきて数日間滞在する妹の被害から非難する為だという。今まで何度か美紀の話に登場している、性格の不一致著しいという彼女の妹の存在が思い出された。

 少し前ならば何日だって快く美紀を泊めることが出来たのだけれども、いかんせん今は蒼君のことがあって、二つ返事で彼女の頼みを聞くことは出来そうにない。その話せば長くなる経緯を可能な限り簡単に説明すると案の定、大仰な驚きを買うことになってしまったのである。

「……だって!誰だってびっくりするでしょう。織ちゃんが彼氏でもない男と同棲中だなんて聞かされたら!」

 美紀の背中にボリューム調節のボタンが付いていたら私は大慌で手を延ばして彼女の言葉を遮っていただろう。空調設備の行き届いた教室で、一瞬にして身体中からどっと汗が吹き出したような気がした。興奮気味に美紀の口から飛び出した、「同棲」という言葉がさらに私を動揺させる。

「誤解を生むような変な言い方しないでよね。餌をあげた猫が居ついてるような、そんなものなんだから」

 きっとどんな言葉を使っても、私が思っているように人から理解を得られることはない。それは解っていたつもり。けれど事実、蒼君はれっきとした人間の男の子なのだし、彼を部屋に置いているというこの状況をを怪しむなという方が不自然なのかもしれない。

 私だって考えるまでもなく知っている。恋人でもない歳の近い異性と2人きり、同じ屋根の下で生活をすることがどんなに異常なことか。

 しかし不思議なほど自覚されていなかったそれは美紀の言葉によって急に現実味を持って目の前に突きつけられたのだった。

「待って待って、男の子だよね?織ちゃんが猫好きなのは知ってるけど……子猫拾うのとは訳が違うでしょ?どうゆうこと?その子がそんなに可愛いの?おいしいの?」

 何度も目をしばたたきながら矢継ぎ早に問いかけてくる美紀は私の行いを非難するわけでもなく、単純に話を面白がっている様子に見える。

「ちょっと、美紀……落ち着いて」 

 少し静かに話を聞いて欲しいと願ったのは、私自身が動揺を静めなければまともな説明もできないと思ったから。彼女の言葉を聞いているとペースを乱され続けて想いとは別のことを口にしてしまいそうだった。 

「……そっか、年下かぁ。織ちゃんって時々怖いほど思い切った事するのね。流石だわ。いいなぁ……私もそんな猫なら飼ってみたいかもー」

 美紀は途中から机に頬杖を付く態勢になり、夢見るような表情になって遠くを睨んでいる。女子というものは例外なくこの手の話題に食いつきがいい性分なのだろうか。私は小さく目眩を覚えそうになった。

「実際年下かどうかも解らないんだけど。……いやいや、だから美紀が期待してるような関係じゃないんだってば」

 その証拠に、この心の何処を探しても後ろめたさという感情は欠片ほども見つかりはしない。

「あの子すごく訳ありというか、行く所がなくって。始めはちょっとした成り行きでウチに来ただけだったのよ。帰れるようになったら、自分の意思で帰ると思うの。……子供じゃないんだし」

 だけど実のところ、この先彼ををどう扱って行けばいいのか深く考えた事はなかった。普段と変わらない様子でふらりと出かけた蒼君が、いつか戻って来なくなる日が来るのかもしれない。それは当然に訪れるべき変化であるはずなのに、近い未来起こりうる出来事だと考えると淡く寂しさに似た感情を伴った。

「子供じゃないから危ないんじゃない。織ちゃん可愛いし、もしかして始めから下心があって転がり込んできたのかも知れないし。年下だからって甘くみてると、どうなっても知らないよぉ?」

 的外れな想像ばかり膨らませた忠告はあまり有難いものではないけれど、親友だからこその率直な意見だと受け取るべきなのか。だけど美紀の妄想とはあまりにかけ離れた現実を思うと可笑しさがこみあげてくる。

「どうにもならないから安心して。……ねぇ、お願いだから変な事言い触らさないでよ?」

 心配でならないのは、この話に大きく尾鰭がついて女子連中に広まってしまうこと。たった一人を相手に真実を話すだけでこれだけの苦労を伴うのだ。女子の噂話の伝達能力の高さと言ったら、私の口止め程度ではどうにも抑えようが無いレベルなのだから。

「だいじょうぶ、秘密は任せて。秘密は守り抜いてこそ価値があるのよ」

 私の心配をよそに美紀は妙に自信たっぷりに頷いてみせた。

 こうなってしまえばもう、私には彼女を信じるより他に道は残されていないらしい。例えどんなに面白い話でも友人の秘密をおいそれと他人に話したりしない、信頼できる親友でありますように。祈る気持ちで私は小さく息を吐いた。

 美紀は時計を気にして再びペンをとり、ノートを書き写す作業を再開し始める。いつも時間通りには始まらない社会学の講義だが、そろそろ初老の教授が現れてもいい時間になっていた。

「織ちゃんのスキャンダルなんて、常に聞き耳立ててる女子がいるだろうし……その辺りは注意してかからないと恰好の餌を撒くことになるからね」

「なによ?それ」

 それは私に向けられた言葉ではなく、美紀が素っ気なく口にした独り言のようなものだったけれど、聞き流すには大きな引っかかりを覚えた。

「なにって、織ちゃんは誰もが羨む高瀬誠の彼女でしょ。良くは思ってない高瀬ファンや、その失墜を狙って成り代わろうとする女子がこの学校に一体何人いると思うの」

 握り絞めたペンでこちらを指しながら力説するの彼女の言葉を聞いて、私は大教室の前列に座る3人の男子学生に視線を移した。

 彼らは3人ともそれぞれ容姿の良さは学内で五本の指に数えられるかという、所謂イケメンと呼ばれる類だ。なかでも真ん中に座る高瀬誠は奇跡のように整った造作と、もともとの色白肌も手伝ってその繊細な横顔はどこか人間離れし、まるで人形のそれを見ているようだった。しかしひとたび彼に接すれば目にすることのできる、くるくると感情の入れ替わる人懐っこい表情や、誰とでもすぐに打ち解ける格別に人当たりの良い性格が周囲を引き付けていた。

 今もまた、頬を上気させた……或はそうゆう派手な化粧を施した女子2人が彼等の着席した席の傍に佇んで楽しそうに談笑している。

「何なのあの雰囲気。赤いカーディガンの方は確実に高瀬しか見てないね。隣の方は話しながらチラチラ見てる湯澤狙いかな。チャラい2人はともかくとして高瀬はあんなのに靡かないとおもうんだけど。……良くやるわぁ」

 同じように彼等の様子に視線を送っていた美紀があまりにはっきりと意見を言うので、また近くの誰かの耳に入るのではないかと私は内心冷や冷やしながら聞いていた。

「それはちょっと勘繰りすぎだと思うけど。全ての女子がそんな事考えてるわけないじゃないでしょう?」

 私だって誠の周囲の女の子たちの動きに気づいていないわけじゃない。だけど見えるものから無理やりにでも目を背けて多くを気にしないように努力しているだけだ。つとめて気を逸らしていなければ、私はとても心穏やかに生きていられない。それが分かっているから。

「いやいや、並の好意程度じゃあんな顔はしてないって。まったく危機感が少ないんだから、織ちゃんは。高瀬がどれだけ希少素材だかわかってないんでしょ」

 言われて私はもう一度視界に彼の姿を探した。斜め後方に座る私の位置から見えるのは彼の後姿がほとんどだったけれど、左右に座る友人と言葉を交わしあう度にその横顔が垣間見えた。右隣に座るのは軽音部在籍の 湯沢秀(ゆざわしゅう )、左隣は大友恭司(おおともきょうじ )

 誠は彼らのように流行りの髪型にしているわけでも、おしゃれな服やアクセサリーを多く身に付けているわけでもない。わざとらしく装わないのに彼等と並んでも引けをとらないばかりか、はっと目を奪われるような存在感がある。それはもう、なぜ私が彼女として収まっていられるのか不思議なぐらい。

「……解ってる、よ」

 彼等は遊んでばかりいそうな外見とは裏腹に、いつも教室の一番前の席に座って至極まじめに授業を受けていた。その周囲に化粧や服装に気合の入った女子の座る割合が多いのもきっとこれに無関係ではないだろう。

 赤のカーディガン女子が彼らの話に嬉しそうに相槌を打つたび、ミルクティ色の髪がふわふわと揺れる。それを眺めているうち、私の頭の中は大教室のざわつきから遠のいて静かになっていった。

 私が誠に出会った頃、彼はここまで周りに騒がれることのない、比較的目立たない学生の一人だったように記憶している。

女子の異常な注目を集め出したきっかけは、私たちが付き合い出したその年、彼が初めてキャストとして加わった演劇部の定期公演だった。

 しかも配役はその中性的な容姿を生かしたまさかのヒロイン役で、そもそもそれを実現するために彼は演劇部に誘われたといってもいい。わざわざヒロインを男に演じさせる目論見は単に話題作りの為だったのだろう。それは見事に成功した。そこいらの女子よりずっと美しいヒロインを演じた彼はその存在を鮮烈に観客の心に刻み付けることになったのである。

 以来、彼の周りには常に好意全開の女の子たちが多く集まるようになった。誠がそんな女の子たちを相手にする様子は無かったけれど、それも所詮私の知る範疇でのこと。彼の傍で必死に媚びを売る女たちの姿を眺めるのは、少なくともいい気分がしなかった。

「ごめんごめん、なんか一気に不機嫌にさせちゃった?」

 冗談めかして気遣う美紀の声が私を引き戻した。私はまだざわつく大教室で後ろの隅の席に座っている。

「……ううん。最近は誠にもあまり逢ってなかったし。何だかそうゆうことすっかり頭から離れてて」

 自然に微笑みながらそう答えている自分がいた。だけど少しの嘘を含んでいる。彼に逢う頻度が減ったという部分は偽りのない真実だった。

 彼の近くに居るだけで、私は周囲の女子から一方的な嫉みにさらされ、時には嫌がらせのような行為も受けてしまう。自然と学内では美紀と一緒に過ごすようになってしまったし、遠ざかるような態度をとり始めたのは私の方だったけれど、むしろ今となっては避けられているのは此方の方なのかもしれない。

「何かあった?まさかまさか……その猫君の同棲のこと、高瀬もう気づいてるとか?」

 私の言葉を深刻に受け取り過ぎないのがきっと美紀の良いところ。そのおかげで、私はいつだって浮上不可能なところまで堕ちてしまうのを免れている。

「それは違うかな。あの子拾ってから始まったことじゃないんだし。それにこの事は他の誰にもまだ話してないんだからね。誠の耳に入る筈もないじゃない」

 もしも蒼君と一緒に部屋に戻るところを誠本人やその知り合いの誰かに目撃されていたとしたら、話は違うかもしれない。だけど実際私の部屋を知っているのは極々近しい知り合いに限られているし、昔から私が誠の部屋を訪れることはあってもその逆は滅多にないことだった。

「どうしよう。じゃぁ広まったら確実に私のせいっていうことになっちゃうのね」

美紀は胸の前で手を組んでわざとらしく困った顔をしてみせた。

「だから広まらないようにしてくれればいいんじゃないの」

 ただ一人にさえも洩らさずにいてくれれば済むことなのだ。きっとこの程度の秘密を守るのは難しいことじゃない。

 美紀は瞳を輝かせて笑みを見せ、嬉しそうに少し声を落として言った。

「じゃあ今度遊びに行ったら、ちゃんと猫くん紹介してよね。興味あるんだ、織ちゃんがそんなに可愛がる男の子って」

 一体どんな期待からその微笑みが来ているのか、私にはまったく想像もできない。とりあえず部屋に来ればもれなく蒼君と遭遇することになるだろうけれど、果たしてそれが彼女の望むものなのかどうか。

「……期待外れでも文句は言わないでよ?」

 初対面の私の友人に対して蒼君がどんな風に反応を示すのか、心配でもあり、少し興味を引かれる部分もあった。きっと誰に対しても愛想よく振舞うことなんてない。彼の態度はいつものように素っ気ないか、居心地悪そうに戸惑った表情を見せるかのどちらかだろうと思った。

 気がつけば、社会学の授業は教室の前半分だけで静かに始まっていた。後方や端っこの席に学生たちのお喋りでざわざわとした空気を残したまま。

 しかしそれも程なく水を打ったように静かになるだろう。教壇で背中を丸めて話をしはじめた志島教授の声は教室の端まで届くことは無く、それを聞き取ろうと耳を澄ましているうちに私たちを含めた大半の学生は迫り来る眠気を抑えられなくなるのだった。

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