7.猫
部屋のどこかで携帯電話が短く鳴った。
私にとってさほど重要なアイテムとは位置付けられていないそれは気づけば朝からリビングのソファに投げ出されたままだった。
メール受信を示す青LEDが点灯している。着信の相手を予想するのに時間はかからなかった。
顔見知り程度の相手は大勢いるものの、実際お互いを気にしながら日常を送るような親しい人間は一握り。日常的にメールを寄越す相手の心当たりなんて片手の指で数えるに足りてしまう。
携帯電話を拾い上げて差出人を確認してみると案の定、その受信欄をかなりの割合で占めている「浅倉美紀」の名前が目に入った。
『今日の劇部+αの飲み会さ、高瀬氏も混じってるようだけど、織ちゃんも来るんだよね?』
彼女らしい勢いのある簡潔なメールは疑問符で終わっていて、返事を求めている。ここで一度携帯を閉じてしまうとなかなか返事が送れなくなるメール不精の悪い癖を自覚しているので、すぐに返信文を作るように勤める。
『それ知らなかった。彼からは何も誘いが無かったし、行かないよ?それに今日は部屋でダラダラしちゃって、今更出掛けたりする気分じゃないんだよね。美紀はみんなで楽しんできて』
高瀬というのは付き合って二年になる私の恋人、高瀬誠のことだ。誠はもともと、私と知り合う前から演劇部の美紀とは顔見知りだった。むしろその繋がりのおかげで知り合うことが出来た訳だし、私が呼ばれることのないそういった集まりに彼等が参加することも当然だと思う。
今日は土曜なのに珍しくバイトもない。朝から引きこりモードで動作している心と身体は気怠く、それに夕方から聞こえだした雨の音がさらに輪を掛けていた。今から準備をして賑やかな場所へ出掛けるなどはおろか、近所のコンビニでさえも行ける気がしなかった。
「――そう、だ」
送信画面を確認して携帯を手放そうとしたとき、或ることが思い出される。
前から家に電話をしようと思いながら何日も掛けそびれていたのだ。明日こそ起きたら母に電話をしてみよう、そう思いながら眠りにつく夜をもう何度も繰り返している。
特に用件が出来たという訳ではない。ただこの間の帰省以来ずっと、母の事が心のなかに引っ掛かり続けていた。その癖頭のどこかでは母の声を、正しくは母の口から発せられる言葉を恐れている自分がいる。至って当たり前の事のようにまた「遠子」と呼ばれてしまうのが怖かった。
きっと今だけだ。時が経って、母がもっと家の外の世界へ心を向けて生きるようになったら何もかもがきっと元通りになる。そう信じてこの一ヶ月半を過ごしているけれど、その思いの影には拭い去ることのできない不安が燻っている。母の中に生じた記憶の捻れは時間と共に解け正しい形に近づくどころか、時を経てますます大きく育ってゆく代物かもしれない。このまま私の名前を思い出せないままになってしまったら、私はどうすれば良いのだろう。母の前ではずっと「遠子」として振る舞って置けば良いのか。
それで母は安らぎを得るのだろうか。
でも、万が一に本物の「遠子」が帰って来たとしたら?
きっとその時、本当に私は母の中から消されてしまうことになるのだろう。いなくなった姉のせいで結果的に家の中から消失してしまったのは私の方だなんて、誰かが聞いたらきっと嗤うに違いない。
私を一番に認めてくれのはその腹を痛めて生んでくれた母であるはずなのに。ただ一人のその人に忘れられてしまった私を、誰が最後まで見失わずにいてくれると言うのだろう。
携帯電話の発信ボタンに指をかけてぼんやりと画面に表示されている自宅番号を眺めながら考えた。
ややこしいことは、まだきっと後回しにしても構わない。自分の中に散らばっている整理のつかない感情をどうにする方が、きっと先に必要な事なのだろう。
携帯電話をまたソファの上に手放した私は、身を竦めながら何か羽織るものを探して立ち上がる。
日が落ちたせいか、雨のせいなのか。急に室内の気温が肌寒く感じられた。
玄関のドアを開ける音がして、蒼君はいつもより少しだけ慌ただしい様子で帰ってきた。
いつもは気づかないうちにひっそりと部屋に戻っている彼の静かな挙動からするとそれは少々珍しい事だった。
普段と違う様子が気になって廊下に顔を覗かせると、奇妙なことに彼は閉めた玄関のドアに耳を近づけるように少しだけ身を屈めて外の何かの気配を伺っている。
「どしたの?」
彼の右手にはコンビ二の小さなレジ袋。左手に握られた紺色の傘からゆっくりと垂れた雫が濃灰色の床に染みを作った。
蒼君はこちらを振り返って少しだけ体の緊張を解いたようだった。
「……追い掛けられていて」
「え、何?誰に?」
余程嫌な目にでも遭ったのか、普段は感情の起伏が現れにくいその顔に焦りと困惑の色が見える。その唯ならぬ様子に私は嫌な予感を禁じ得なかった。勧誘?知り合い?不審者?相手に何の目的があるかは解らないけれど、此処まで付いて来たということはこの部屋が特定されてしまったということにもなる。元は女の一人暮らしなのだ。変なトラブルの芽にはどうしても敏感になってしまう。
「あ、いえ、そうゆうのじゃなくて、誰というか……」
そうゆうのじゃないって、どうゆうこと?
要領を得ない説明に我慢が出来なくなって、私は適当に並んでいるサンダルに足を入れた。
静かにドアを開けて辺りの様子を伺ってみると、湿っぽくてひんやりとした空気を頬に感じる。周囲に誰かがいる気配はない。ここはアパートの2階に位置するため、下の様子に至っては細く開けたドアの隙間から確認できる範囲が限られていた。
「誰も、いないみたい」
日が落ちて間もない時間だったけれど、厚い雨雲で覆われた空には既に夜の薄闇が広がりだしていた。 雨に湿った路地は通行する車も人影もなく静まり返っている。
「ええと、あの……もっと手前の右の方です」
すぐ背後の頭上から聞こえる声に促されるままに右手に視線を移す。……手前?何処のことをいっているのだろう。首を捻ってから誰かがいるとは到底思えない、開いたドアの影になる方向へ視線を移して目に入ったのは予想外の物だった。
「ね、こ?」
綺麗な顔をした本物の三毛猫だった。隣室の明かりの漏れる窓の下に行儀良く座った猫は黄緑色の瞳できょとんと此方を見上げてくる。これが柄にもなく蒼君を困惑させていた元凶だとは。随分と小さくて可愛い相手に追いかけられたものだ。
近くで見たくて脅かさないようにゆっくりと扉を開ける。
「え、ちょっと――」
傍に近づこうとしても全く逃げる素振りもない猫の代わりに背後で小さくうろたえるような声が聞こえる。
猫は首輪をつけてはいなかったけれど、よく人に慣れている雰囲気だった。それにしても、猫が人間の後を追って一緒に階段まで上ってしまうというのは余程の興味が働いていなければ有り得無ことだと思う。それほど惹き付けられる何かを彼に感じたのだろうか。しかし猫に気に入られた本人は相変わらずドアに身を隠すようにして此方の様子を伺っている。
「何?ごはんねだりに来たの?」
猫は私の延ばした手に鼻を近づけて匂いを慎重に確認した後、自分から身を擦り寄せてくる。温かい感触。自分が求めるときにだけこうやって距離を縮めてくるこの薄情な生き物が私は無条件に好きだった。
「仕方ないなぁ、何かあげようか」
猫の好物がうちの台所にあっただろうか?そう想いを巡らせたときにはもう完全にこちらの負け。
「蒼君、台所から鰹節取っ手来て。冷蔵庫隣の棚の上の引き出しにあるから」
黙って佇んでいた蒼君はドアの向こうに一旦引っ込んだ。
猫は相変わらず私の手に顔をなすりながら頭からごろんと寝転んで腹を見せている。誰彼構わず付いて行っても食べ物を貰えるという確証はないだろうに。私たちには持ち得ない、その本能的な能力で自分を受け入れてくれる相手を嗅ぎ分けているのだろうか。
悔しいながらそれは成功している。猫のどうしようもなく自分本位で気儘な性格を知っていてもなお、私にはこの世で一番愛らしい生き物だと思えてならない。
再び蒼君が戻って来ると、猫は突然足元から起き上がって彼の方へ近づいていった。彼の手の中からカサカサという鰹節の袋の立てる音を聞きつけたのだろう。
猫ににじり寄られて一瞬たじろぐ彼の様子が滑稽で思わず吹き出しそうになる。
「猫ってそんなに嫌いなの?」
「犬よりは、嫌いじゃ無いです。だけど何故か向かってこられると、こう……」
そう言うと足元から注がれる期待の眼差しを無視して私の手に鰹節と白い小皿を押し付けてくる。
「ふーん」
私が犬を苦手とする理由も同じようなものだった。こちらの気持ちなどお構いなしに圧倒的な勢いで向かってきて縋りつく。犬からすればそれは好意から来る行動に過ぎないのかもしれないけれど、私にはそれが恐怖でしかなかった。記憶の何処を探しても犬に対しては良い思い出と呼べるものがひとつも無い。幼い頃に近所の犬や親戚の家の犬に飛びつかれては怖い思いをした記憶しかないのだ。
「だけど君が誘ってきた猫でしょ」
きっとこの猫は蒼君を見込んではるばる追ってきたのだ。そこまで嫌いじゃないというのなら、その期待を裏切らないように自分であげてみたらよかったのに。
小皿に入れられた鰹節を至極幸せそうに食べはじめた猫の姿を膝を折って眺めていると、少し距離を置いて反対側に蒼君がしゃがみこむ。
「べつに、誘ってきたわけじゃ、ないんですけど」
小さく息を吐くように反論を呟くと彼はしばらくじっと猫の様子を観察してから、恐る恐るその背中に手を伸ばした。
ぎこちない手つきで背中をなでる彼を、猫は口の周りを舌で舐めながら顔をあげて一瞥する。しかしすぐにまた食欲に任せて鰹節の採食に戻るとあっという間に器の中身を空にしてしまい、私の膝に手をかけてお代わりの催促をした。
「もっと食べるの?」
黄緑色の瞳が片時も視線を逸らさず私の手元を追う。再び鰹節を取り出すと、目の前に置かれるまで待ちきれずにまだ私の手の中にある器に顔を突っ込み始めている。やはり鰹節は猫を夢中にさせる格別の好物らしい。
「いくら食べても足りないみたいね。食べ過ぎはあまり身体に良くないんだよ?」
「そうなんだ」
意外そうな声を出して蒼君は猫の背を撫でる手を止めると、脇目も振らず小皿に口をつけ続けるその姿に見入った。
「ハッキリは解らないけど。人間の食べ物って猫には不必要な塩分が強すぎて、食べすぎると病気になっちゃうって言うじゃない?猫用の鰹節っていうものがあるんだから、たぶんコレも例外じゃないと思うの」
これだけ人懐っこい猫ならば既に方々で餌を貰っているのだろう。その中でちゃんと猫の健康を考えて与えるものを選んでいる人がどれだけいることか。人間が少しだからと思って与える食物はこの小さな身体の中に蓄積し、やがては病気を引き起こす要因になってしまうのだ。
それは無知な飼い主の愛情が招く悲しい結末。自己満足で猫に餌を与える人間のエゴで膨れ上がり、飽和した肥満猫ほど愛らしく見えてしまうというのは実に皮肉な仕組みだ。
「……何でもあげて良いわけじゃないんですね」
蒼君はただ静かな表情で瞬きを繰り返していた。猫の寿命を縮めかねない食べ物であると知りつつも、こんな風に懐かれると可愛くてつい与えてしまう。そんな私を無責任だと責めるだろうか。
「今日はもう終わりにしようね」
空になった小皿を猫の目の前から取り上げると、再び期待の光が小さな双眸の奥にひらめく。無駄な期待をさせてしまうのは可哀相だ。私はさりげなく皿を身体の後ろに隠しながら反対の手で猫の頭を静かに撫でてなだめた。
ふいに顔を上げた蒼君が無言でアパートの階段を振り返った。
思わず釣られて視線を移した先では何の変化も起こる様子はなく、僅かに点滅を繰り返す蛍光灯に羽虫が集まっているだけ。
「どうかした?」
その問いのあと少しすると階段の方からタン、タタンという小さな音が聞こえてくる。不規則なリズムを持ったその軽い響きが階段を上って来る誰かの足音だったのだと気づいたのはその対象が姿を現してからだった。
それは5、6歳の幼い女の子だ。不揃いに延びた髪は肩までかかり、子供らしく健康的に日焼けした肌の色。デニム地のハーフパンツに色褪せたようなピンクのTシャツを着ている。
「どこの子だろ。こんな時間なのに」
既に隣近所からは夕御飯の支度をする様々な料理の匂いが洩れだしている。幼い子供が独りきりで外を歩いているには違和感を感じる時間だ。
私と蒼君の間にいる猫の存在に気づいた女の子は、ぱっと顔を輝かせると真っ直ぐに近づいて来て猫の前へ座り込んだ。動物好きなのか、すぐに臆する事なくその小さな手の平で猫の身体や頭を撫で回しはじめている。
「こんばんは。あなた、このアパートに住んでる子?」
私はできるだけ優しい声で話しかける努力をした。これまでの20年の間、子供の面倒を見るという経験がほとんどなかった私は、幼い子供を相手にするという誰にでも簡単に出来そうなことが少し苦手だったりする。
言外にそれが伝わってしまっているのだろうか。当然返って来ると思った返事は返って来ない。女の子はこちらの声が聞こえていないかのように口をつぐんで、ただ猫にだけ興味を示している。
「えっ、と……」
蒼君と私は顔を見合わせた。こんなに近くにいて私の声が聞き逃されたはずもない。きっと極度の恥ずかしがり屋さんか、もしくは知らない人間とは話しをしたりしないよう躾られているのかもしれない。
突然近づいてきたこの小さな来訪者とどうすれば会話を成立させることができるのか、私は次にかける言葉を探しあぐねてしまった。
「……そっか。じゃあ君の家はちょうどこの下の部屋なんだ」
蒼君がぼそりと口にした言葉で初めて女の子は私たちを見上げた。
「どおして、知ってるの?」
猫を発見した時よりも更に丸くきょとんと見開かれた目がその驚きを示している。無視しがたい純粋な疑問が閉ざしていた口を思わず開かせたようだった。
彼が突然言い出したことが何を意味しているのか、すぐに理解ができずに首を傾げたくなったのは私も同じだった。そしてすぐに彼の頭にくっついているちょっと人と違った「耳」のことを思い出して納得する。望もうと望まざると他人の考えている事を読み取ってしまうという反則的な素質が彼には備わっているのだ。
「だってちゃんと質問には答えてくれてたでしょ」
何食わぬ顔で蒼君が説明になっていない返事をするものだから、女の子は少し尾宇を顰めた不満そうな顔つきで再び猫のほうへ向き直ってしまった。きっと賢い子。蒼君に喋らせておくと変な大人だという不審感を与えるだけになってしまいそうだ。これ以上変な会話に発展させないよう、話しの矛先を変えなければ……私は内心焦りを感じながら常識的な言葉を選ぼうとした。
「もうすぐ夕飯の時間じゃない?帰らなくていいの?お母さん心配してない?」
幼い子供を日没過ぎるまで出歩かせて平気でいる親はそう多くはいないはず。それとも仕事で帰りが遅く、心配する親がいないのだろうか。きっともう同年代の遊び相手達は各々の家に帰ってしまって、取り残されたこの子は寂しく一人遊びを続けていたのかもしれない。
猫の頭を撫でながら女の子は首を横に振って答える。
「きょうは3回ママをおこらせたから、紗奈はご飯が食べられないの」
あどけない口調で告げられた内容は私たちを驚かせるのに十分なものだった。
就学年齢に達したかどうかという幼子が食事抜きという罰を課せられているなんて。躾にしては少々行き過ぎている印象を覚えた。例えどんなに悪い悪戯をしたとしても食事を与えないなどと、子供を養い育てる責務のある親には出来る事じゃない。その先に思わず浮上するのは「虐待」という厭な言葉。
それはあまりに安易な連想かもしれない。しかし思い起こせば階下からしばしば聞こえていた物音や怒号。長く止むことのない子供の泣き声に混じって時には女性と男性の言い争うような様子も聞こえていた。どこにでもある普通の家庭とは少し違っていることは確かだ。
あのとき聞こえていた泣き声がこの子のものだったのかもしれないという可能性に気づいたとき、ざっと背中に水をかぶせられたような感覚に襲われる。
隣で蒼君が幾分顔を青ざめさせながらぼんやりと宙を睨んでいた。こうしている間にも彼は何かを感じ、何かを聞いているのかもしれない。
「……そっか、紗奈ちゃんって言うんだ。謝ったらお母さん、許してくれないの?」
私の問い掛けに応えて女の子はふるふる、と小さく頭を振る。涙を滲ませる様子もなく、まるで諦めているかのようなその仕種から、それが繰り返し受けている仕打ちなのだと察することが出来た。
「ごめんね」
そんな家に、早く帰れと言われてこの子はどんな気持ちだったろう。本当は一番に帰りたい場所であるはずなのに、そこは理不尽に叱られ続ける苦痛や寂しさばかりが詰まった家だったとしたら。平気そうに振る舞うほどに小さな胸の奥深くに仕舞われてゆくその悲しみを、私はどう慰めていいのだろう。
「じゃぁ、お腹すいてるでしょ」
閉口している私のざわつく胸中を察したのか、蒼君の視線が一瞬ちらりとこちらを向いて、代わりに口を開いた。
視線を反らした紗奈ちゃんは返事の代わりにしょんぼりと俯いてしまう。隣に眠たそうに目を細めている猫が背中を丸めて寄り添った。
それを見た蒼君はおもむろに立ち上って再び玄関へ向かった。そして程なくして小さなコンビニのレジ袋を手に戻って来ると、彼女の前に差し出した。
「これ」
きっと中身は蒼君がよくコンビニで買ってくるメロンパンか何か。しかしそれは、小さな手でおずおずと袋を受け取った紗奈ちゃんの表情を明るく変えるどころか、拗ねて今にも泣き出しそうな顔にさせてしまう。
「……ママにおこられる」
見上げてくる潤んだ瞳は決して明るいとは言えない廊下の限られた光源の下で輝いて、真っすぐ素直な不安や心配事を映していた。
「そっか、怒られちゃうか。……でもバレなきゃ大丈夫じゃないかな。何なら此処で食べちゃってもいいよ」
子供相手に尻込みしている私なんかとは大違いで、蒼君は古くから知っている友人に薦めるような口ぶりで穏やかに言う。むしろ普段よりも格段に積極的な物言いになる、彼の意外な一面を見せられるような気がした。
しかし紗奈ちゃんは黙って唇を噛み締めたまま、膝の上で袋から半分ほど顔を出しているメロンパン睨み続ける。
「もしかして嫌いだったかな。メロンパン」
今更聞く必要もない内容を尋ねるのには、黙りこくってしまった子の反応を引き出す意図があった。
紗奈ちゃんは慌てたようにすぐに首を横に振る。
「そう、じゃぁ良かった。ここでの事は僕たちだけの秘密だし、平気でしょ」
抑揚の少ない彼の話し方はどんな内容をもさらりと告げて、とても単純でたやすく済むことなのだと感じさせる力がある気がした。紗奈ちゃんはようやくその顔ほどもあるメロンパンを手に取り、恐る恐る袋を開けはじめた。
ママの見えない所ででも簡単に言い付けに背くことが出来ない子供の純粋さがいじらしく胸を打つ。子供はいつだって真っ直ぐに親の方を向いているのだ。素直にただ、褒められたくて、優しい言葉をかけてもらいたくて。いつだって子供の目はまっすぐに親の方を向いている。その姿勢にしばしば気づけない事があるのは親の方なのかもしれない。
「子供って、親を選んで生まれてくる事が出来ないんですよね」
独り言のように宙に消えてゆく言葉を私はただ聞いていることしか出来なかった。またすっかり表情をなくしたその人形のような横顔で蒼君は手擦に寄りかかりながら街灯の点いた公園を見下ろしている。
親も子供も、お互いを選んで生まれてくることは出来ない。けれどそれでも私たちは巡り合わせた相手と何とか上手く関係を作ってゆくより他に策はないのだ。
「だけど生まれた家以上に、居ることが許される場所ってないのよ。何処にも。……だから特別なの」
たとえどんな親であれ、それはこの世で唯一の両親だから。他の誰が望んだとしても成り代わることはできない。紗奈ちゃんが必要とするものはその両親によってのみ与えられるべきなのだ。私たちに出来ることがあるとしたら、彼女がちゃんとどこかで両親からの愛情を受け取れるようにと願うことだけ。
「出来るだけ早く帰してあげないといけないですね」
振り返った蒼君の瞳に一瞬映り込んでいた翳りは紗奈ちゃんの姿を捕らえて消える。多くを口に出さない彼の中に渦巻いている感情が、どんなに深い影となっているのかをそれ以上覗くことは叶わなかった。
私たちに共通して、ひとつだけ確かに言えること。それは今日の出来事によって、きっとこの先も気づくであろう階下からの子供の泣き声に今まで以上の辛さを味わうことになるということだった。