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猫の耳  作者: 高秧恒祈
6/8

6.家(2)

 ここに帰ってくるまでは記憶の引き出しの奥深くに仕舞われていて、思い出されることのない記憶だった。こうして鮮やかに身体を流れてゆく感覚は、自分が紛れも無くこの部屋で息をして生きていたという確かな実感をもたらす。玄関先で感じた、まるで他人の家に上がるかのような違和感はいつしか消えていこうとしていた。

 今は取り出すことのできるこの記憶も、時を経れば輪郭をぼやけさせ、やがて細部を失って。いつかは殆ど思い出せなくなってしまうのだろう。忘れてしまうことを拒んでも、永遠に心に留めて置くことはできないのだ。だけど信じている。それでも何もなかったかのように全て消えてしまうのとは違うのだと。

 ひと繋がりの記憶として保たれなくなって、 バラバラになった記憶の断片はこの身体の中を漂っているだけだけれど、外側からの刺激に符合して思い出としての形を取り戻すようになるに違いない。

 だから例え私がそれを思い出せなくなってしまったとしても、お姉ちゃんとこの家で暮らしていたという事実はちゃんとこの身体の中に刻まれ続けているはずなのだ。

 気がつくと吸い寄せられるように、狭い廊下を挟んで向かい側にある部屋の扉前に立っていた。

 いつか、お姉ちゃんはこの部屋に帰って来てくれるだろうか。そうしたら私も戻って来よう。そして、私たちが家族として過ごすのに足りなかった時間をいくらかでも取り戻すことができたなら。

 あの夜にお姉ちゃんが行ってしまうのを知りながら、何も動けなかった罪悪感と後悔とを仕舞い込んだ心の奥がまた少し震えた。

 ドアノブに掛けた手に力を加えて静かにその扉を押し開ける。

 その先に広がる、取り残された部屋の物寂しい光景を覚悟した。

「――な、……?」

 その先には、何もない。

 あまりに呆気なく期待を裏切る光景に、私はただ言葉を失っていた。焦茶色のフローリングの床に、同色の木枠の姿見が隅に置かれて反対側の白い壁を写しているだけの簡素な空間。記憶にあるお姉ちゃんの部屋と変わっていないのはレースのカーテンが掛かった東向きの出窓と、壁に埋め込まれる形のクローゼットだけだった。部屋の大きさはまったく私のそれと変わらない筈なのに、妙な空間の広さを感じてしまうのは殆ど物が置かれていないせいなのか。がらんとした部屋には音を吸収するものがなくて、踏み締めた床の微かな軋みの音も自分の服の衣擦れの音さえも反響して大きく感じられる。

「どう、し、て――」

空っぽの部屋に張り詰める目に見えない何かに息を詰まらせた私は何度か喘ぐように酸素を求めて呼吸を繰り返した。

 どうしてこんな風にしちゃったんだろう。お姉ちゃんの名前ひとつ口に上らせなくなっただけでは足りず、その存在を跡形なくこの家から消し去ってしまいたかったとでもいうのだろうか。かけた期待と愛情の分だけ裏切られた分の失望は大きくて、今はもう疎ましくさえあるというの?

 先週電話口に聞いた母の声を脳裏に蘇らせて思う。 きっとそうじゃない。母はいつもどおりの少しお節介な物言いの最後に私の名前を姉の「遠子」と呼び間違えたのだ。むしろいつも心の中にはお姉ちゃんの名前があったのかもしれない。本心から忘れたいと願っていた訳が無い。だけど望みも無いのに待ち続ける長い時間に耐え兼ねて、いつまでも目の前にちらつく面影をいっそ消してしまいたいと思った。これが母なりに行き着いた気持ちの整理の方法だったのかもしれない。

 失くしてしまったものは二度と元の通りには戻らない。長く時間をかけて変化し、失われてしまったものは得にそのとおり。

 身体を蝕む大きな喪失感の波を、どうやってやり過ごせばいのだろう。



 下の階で響くガサガサとした物音とともに、何か聞き取れない言葉を発する母の声が耳に入った。

 慌てて部屋から出て階段下を覗き込むと、玄関先に二つの大きなスーパーの買い物袋を下ろしたばかりの母が見上げてきた。やはり近所へ買い物に出ていただけだったようだ。

「ちょっと、貴女帰ってたのー!?帰ってくるなら先に電話でもしなさいよー!」

意外なほどその声と表情は明るい。すっかり拍子抜けしてしまったせいで私はそれまで抱えていた様々な感情をどこかに見失ってしまった。

「帰ってくるって分かってたら夕飯の支度だって考えたのに。どうしよう、あなたが食べれるもの作れるかしら」

 一人でぶつぶつ言いながら、母は買い物袋を手に台所の方へと姿を消してゆく。どこにも病んだ雰囲気も気を落としている様子も感じられないばかりか、むしろ私がこの家で毎日見ていた頃よりも顔色よく、活気づいてさえ見えた。わざわざバイトの休みを都合付けて帰って来たというのに、それほど急を要することはなかったのかもしれない。すべては無駄な思い過ごしだったのだろう、私は少し安堵を覚えた。――次にその母の声を耳にするまでは。

「遠子ちゃん」

 一階から聞こえてくるくぐもった声。一度目は空耳だと信じた。

「ねぇ、お願いがあるんだけど、遠子ちゃん」

 それでもまだ信じられない思いが強くて、確かめるために階段を下りると冷蔵庫の扉をあけて庫内を整理している母の後ろ姿が見える。

「お、母さん?」

 迷い無く確かに呼んだ。帰ってくる筈のないお姉ちゃんの名前を。胸の奥にぐっと、嗚咽を無理に我慢した時のような苦しさが襲う。

「あとで駅まで傘持ってお父さん迎えにいってちょうだい。夕方から強い雨が降るっていう予報なのよ。毎日鞄に入れて折りたたみを持ち歩くのに、今日に限って忘れてるのよ。おかしいでしょう?」

 真っすぐこちらを振り返った母の顔には微塵の曇りもない。

「たまにしか帰って来ないんだから、貴女が来たらお父さんも喜ぶわよ。」

 それはあまりに朗らかな、笑顔で。

「あ、あたし」

――織恵だけど。口に出しかかった言葉は結局出口を失って飲み込まれた。軽く指摘できるようなことでないような気がした。私の顔を見て、名前をうっかり呼び間違うことが出来るだろうか。うっかりご近所さんの名前を取り違えるのとは訳が違う。この家にはもうお姉ちゃんの持ち物ひとつ残されてはいないというのに、私はどうして「遠子」になる?

「わかった。行ってくる」

 何と応えていいか解らずに渇いた舌で返すことが出来た言葉はそれだけだった。

 たった半年という私の知らない空白の期間に、この家はどこまで変わってしまったのだろう。お姉ちゃんの部屋を整理したせいで母は混乱してしまっているのかもしれない。認知症や病気の可能性も思い浮かんだ。しかしそんな心配を必要とする年齢には程遠く、私たち以外の事については何の問題もなく日常を送れているようにしか見えないのだ。

 今これ以上母に正面から向き合うことが怖くて、逃げ出すように踵を返して玄関へと向かった。何も考えず靴をはいて重たい扉を押し開ける。まだ父を迎えに出る時間には早すぎるのは知っていたけれどそんな事は構わない。

 空を仰ぐとまぶしく晴れ渡っていた空に広がり出してその存在を主張し始めている雲の群れ。早くも乾いたアスファルトの地面には点々、と雨粒が落ち始めていた。

「……本当に、降ってきたんだ」

 大概の事はなんでも母の言うとおりになるように出来ている。そう、昔から。




 その夜、私はまるで他人の家の夕飯に招かれたかのような少しも落ち着かない気分で食卓についた。

 始終明るく楽しそうに表情と口を動かしていたのは母独りで、父は相変わらずの難しい顔を崩さず黙ってテレビ画面を睨み、企業再生のドキュメンタリー番組に見入っている。

 駅出口で私の姿を見付けた父は「ぉお」と小さく声を漏らして傘を受け取っただけで、帰り道を歩く間も会話らしい会話を交わすことはなかった。思えばこれまでに父が楽しそうに笑っている姿を見たことがあっただろうか。真面目だけが取り柄のつまらない無味無臭の人間の何が良くて母は結婚を決意したのだろう。私は改めて首を傾げたくなってしまう。

「お豆を買ってなかったの。お豆腐も昨日使っちゃってたから残り少なくてどうしようかと思ったわ。貴女ったら急に帰ってくるんだもの。この次は絶対先に連絡してから来なさいよ」

 炊き込みご飯、筑前煮、じゃがいもと玉葱のおみそ汁。和風の餡をかけたハンバーグの中身はお豆腐とおからだけだから大丈夫よ、と料理の説明が付け足された。

「……はぁ」

 説明の真意が解らずに私は中途半端な返事を返してから改めて食卓を見渡す。程なく肉類を使わないことを意識した献立と解ったけれど、残念ながら私はベジタリアンじゃない。昔から肉も魚介も苦手で食べられなかったのは、私ではなくお姉ちゃんだった。

 思わず留めてしまった呼吸を溜息のように静かに吐き出してから、私は並べられた料理に真っすぐ向きなおって箸を手にした。

「いただきます」

 記憶に染み付いている母の味付けはもちろんいつも通りで、帰ってきたんだという実感が舌先から脳へとのぼる。此処は紛れも無く私の生まれ育った家。私を育てたその人は帰らない娘を待つあまり、不自然に記憶を捩曲げてしまっている。

「遠子、あなた少し太ったんじゃない?朝ごはんもちゃんと食べないとかえって太るのよ?ちゃんと自分で作って食べてるの?」

 また別の名前で呼ばれてぎくり、とした私は慌ててご飯を飲み込んだ。

「つ、作ってるよ。適当に」

 父は隣で顔色ひとつ変化させる様子も無い。黙って茶碗を手にしながら静かに箸を口元へ運んでいるだけ。何も気づいていないのか、若しくは気づかないふりをしているのか。

「あなたの一人暮らしなんて心配になることばかりだわ。ちょっと無理をするとすぐに熱を出したりするんだから」

 母は私の生活習慣を煩いほどに注意する。きっと私だからなのだ。何でも人並み以上にこなすことが出来るお姉ちゃんならばこんな小言ばかり言われやしないだろうに。

 だけど食べ物の好き嫌いの多さとすぐに体調を壊すのはお姉ちゃんの方で、早起きも家事や手料理の苦手なのは私。母の頭の中では、私たちのそれぞれ手のかかる部分ばかりが選び取られて娘像を結んでいるのかもしれない。まるで娘の世話を焼くことが母にとって未だに重要であり続けていると表しているかのように。

 どうしてもっと、母は自分の為に動いてくれないのだろう。普通ならもう少し、趣味や友人と行く旅行のために時間を費やしてもいいはずなのに。娘のことを考える時間の幾らかをもっと自分の事に費やしてくれていたなら、今頃こんな記憶の錯綜を起こさなくて済んだのではないかと思わずにはいられない。

 私は浮かんでしまう暗い感情を少しでも顔に出さないように勤めて箸を動かしつづけた。

「こないだ電話で言ってた習い事は、どうなの?」

 これ以上私達の話を続けさせないよう、母自身の話題を探して切り出すとすぐに嬉しそうな答えが返ってきた。

「そうそう、ドール教室ね。月2回だからまだ3回行っただけなんだけどこれが凄いの。初めてだと先ずキットを使って人形を作るひととおりの工程を教えてもらえるのよ。工程が多いから少しずつしか進まないんだけど、出来上がるのが楽しみで仕方なくて」

 もとより手先を器用に使うことが得意だった母にとって、それはとても都合の良い習い事のようだった。この田舎町でそんな教室に出会えたのは幸運と呼べるかもしれない。

「先生も、他の生徒さんの作品の人形もすごいのよ。あとで写真見せてあげる。まるで生きているみたいなんだから」

 意気揚々と何かを語る姿はまるで別人のそれを見るかのようだった。単にこれまでに見たことのない母のなかの積極性を見出だしただけなのか。それに、家に戻ってからずっと気になるのはその異様な明るさ。何かがどこかで壊れ始めているような、そんな危うささえ孕んだ明るさだった。

 母は今ようやく家庭の外に世界を広げようとしている。努めて明るく振る舞っているように見えるのはその変化のせいだと信じたい。このまま時が流れてゆけば一度捻れてしまった記憶も自然にも元通りになるのだろうか?

「面白そうで良かったじゃない。だいたいお母さんはもっと早く家のことから解放されて好きなことを始めたら良かったのよ」

 長く思い続けてきたことが思わず口を突いて出てしまう。

 母は伏し目がちに食事の手を止め、箸を両手で持ってゆっくりと瞬きをして何か深く思案しているようだった。その少し淋しそうな表情は、いつもの少し疲れた母の顔を記憶から呼び起こした。

「解放されてだなんて、私の人生はもともと貴女とお父さんの為にあるのよ。今までも、これからも。それを奪われたらかえって私、……困るわ」

 視線を反らすように壁の掛け時計を見上げた母の瞼は一瞬淡くピンクに色を変えていた。

 毎日家族のために終わり無く尽くして。今となっては家族も離れて希薄になってしまったこの家でなお、辞めて逃れられない母という職業に縛られつづけることを望んでいるなんて。

「もう十分じゃない。もう家のことなんて適当でいいよ。私たちだって小さい頃と違うんだから。お母さんは今まで犠牲にしてきた自分の好きなことを、家でも外でも気の済むようにやっていいんだよ」

 言っているうちに誰に向けたものかわからない苛立ちが胸のなかに去来する。「これ以上、家族の世話をするために生きるのなんてやめて」そう強く言うことが出来なかったのは、その生き方が母という一人の人格を保つためには必要不可欠なものである気がしたからだった。それを無理やりに奪うようなことを口にするのは、かえって母を不安定に、さらに混乱に追い込むことになりはしないかと躊躇った。

「何歳になっても遠子は私の子供だもの。その世話を焼くのは私以外に誰がいるっていうの」

 まだ不服そうに訴える母はそれでもどこか嬉しそうだった。

 この家が私の帰るべき場所として形と機能を成しているのはきっと母のおかげ。いつも家族の中心にいて、皆をつなぎ止めている役割は昔も今も変わらない。その内に多少の歪みや倒錯を抱えていてもそれは変わりようがなかった。

 もしも帰ってきたのが私でなく、お姉ちゃんならばどうなっていたんだろう。それはいくら考えても栓無いことだ。そうと解かってはいても、小さな不安とともに浮かんでくる疑念は収まらなかった。

 この家は2年前のとおりに、何もかも元通りになったのだろうか。



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