5.家(1)
ガタンゴトン、とひときわ大きな響きを身体に受けて私は意識を浮上させる。
緩やかな揺れを繰り返す電車の温かな座席に深く座りながら、居眠りをしていた。
どこまで来ただろう。ぼんやりとした目で見回すと、川沿いに並んだ二つの水色の陸橋が目に映った。高校生の自分が繰り返し見ていた馴染みの景色が車窓にゆっくりと流れていた。
半年振りに実家のある故郷へと向かう私の持ち物は傍らの鞄ひとつだ。身の回りの物は概ね実家に置いてきたままだし、服だって半分近くは残してある。帰るに際して特別準備すべき物はなかった。だから本当はその気になりさえすれば何時でも直ぐに帰ることだって出来たのだ。それこそちょっと映画やショッピングに出かける程度の感覚で。
今回ひとつだけ気がかりになったのはアパートに留守番をさせる蒼君のことだ。
蒼君が来た次の日の大仕事は、物置き代わりにしていた部屋を片付けて何とか彼に居場所を作る作業だった。角部屋ならではの張り出した柱のおかげで使いにく作られている間取りに、日頃使わないものを無節操に詰め込んだその部屋は、荷物を整理し直しても狭いスペースしか用意することができない。解決策として仕方なく冬服を詰めた衣装ケースを幾つか運び出したので、代わりに私の部屋が狭くなってしまった。
だけど彼をいつまでも居間のソファで寝せて置くわけには行かなかったし、物置同然だった部屋が有効に使われるようになったのだから、これはきっと良い変化なのだろう。
週末に家を空けることを伝えると、蒼君はいつものように言葉なく困惑した表情を見せた。だが週末の帰省は既に決めていたこと。その上で彼を置いたのは私なのだ。
だから私が不在の間も何の気兼ね無くこの部屋に居て貰って構わない。勿論どこかへ出かけるのも自由だし、寝る為だけに帰って来るのでも良い。実家から戻るのは日曜の夕方か夜の予定なので、もしもその辺りに外出する予定があるなら鍵はポストの隅にでも入れてくれればいい。ただひとつだけ注意すべきことは、私の居ない間に誰が訪問してきても絶対に居留守を使うこと。そして夜はちゃんとカーテンを閉めること。
それだけを言い残して半ば無理矢理に彼に鍵を預けてきた。
たった2日間の間の来訪者の心配をする必要なんてないのかもしれないけど、万が一を考えて一応釘をさしておくべきだろう。
逆に言えばそれ以外のことについては多くを言い置かなくても大丈夫だろうと思った。
部屋の鍵を預けて行くことに何処にも不安や躊躇が無いことも、ちゃんと彼には解かっているはずだ。
彼の頭にはあの「猫の耳」が備わっているのだから。
「ただいまー」
実家に帰り着いた頃には既に16時を回っていた。
本当はもっと早く着けるように出かけるつもりでいたのに、あれこれと平日にやり残した用事に手を付けて出立の時間がずるずると遅くなってしまった結果だ。
久しぶりに手を掛けた実家の玄関の扉はなぜだかとても重たかった。ここは紛れも無く私が生まれ育った場所。毎日このドアを開け閉めして暮らしていた日々はそんなに遠い昔の事ではないはずなのに、それはまるでよく知っているだけの知人の家を訪ねてきたかのような感覚だった。前回帰ってきたのは年の暮れだったはずだ。たった半年空けただけなのに、何故だかこの家がとても遠くに感じられる。
すぐに迎えに出てくると思った母の姿は見えなかった。返って来る声もない。傾きかけた日差しが入り込む家の中はひっそりと時を止めているように見えた。
今日帰ることにしたのも数日前の思いつきによるもので、事前には何一つ連絡はしていなかった。だからタイミング悪く母が出かけてしまっているという可能性も有り得るのだ。昨日のうちに電話のひとつでもして知らせておけば良かったのかなぁ、と今更なことを後悔する。
台所を覗いてみると洗われてまだ渇ききっていない食器類がシンク脇に重なっていたし、取り込んだだけでまだ畳まれていない洗濯物が和室に置いてある。さっきまでそこで家事をしていただろう母の姿が容易に想像できた。 どこかへ出かけてしまったにしても少なくとも朝から、というのだけはなさそうだ。
そういえば最近、習い事を始めたと聞かされていたっけ。確か創作人形だかビスクドール教室だとか。一瞬浮上した考えだったがすぐにそれは除外された。それは平日水曜の夜だったように記憶している。 そうなると 最も高い可能性として考えられる行き先は、近所のスーパーかクリーニング店かといったところだろう。
私は母の行き先についてそれ以上深く考えを巡らせるのを辞め、ピカピカに磨かれた廊下を進んで階段へと向かった。
2階には、私とお姉ちゃんがそれぞれ使っていた部屋がある。
一人暮らしのために荷物を一部運び出したので、私の部屋の中はだいぶぽっかりとしていた。 薄ピンクのストライプ模様のカーテンは高校に入った頃に可愛い部屋に憧れて始めに架け替えたものだ。むせかえる程に可愛いものに囲まれていたいと思う病はあの頃が一番重症で、部屋には徐々に乳白色の家具とピンクのリネンが増えて行った。
本棚として使っていた西洋風のキャビネットの上には妖精の姿が形造られた置き時計や、ガラスの石で装飾されたアクセサリーケースなどが今も埃をかぶらずにある。それ以外にも私の部屋には過度な装飾の施された雑貨ばかりが並ぶのに、そのどれもがこの部屋で暮らしていた頃と変わらない様子を見せていた。どうやら、私の居ない間にも母はこの部屋を定期的に掃除してくれているらしい。
隣のお姉ちゃんの部屋はどうなっているんだろう。前には考えもしなかったことが何故か気になった。思い起こして見れば、お姉ちゃんがこの家を出てしまって以来私は隣のその部屋を覗いたことがないのだ。同じようにあの部屋も、長い時間を経ても変わらずお姉ちゃんの帰りを待っているのだろうか。
事の始まりはお姉ちゃんの地元国立大の入試日を目前に控えた晩秋の頃。家の中には少しずつ緊張感が漂いはじめていた。高校に入ってからずっと成績優秀で、何でもできる優等生タイプだったお姉ちゃんは余裕で合格が確実だろうと言われていたけれど、それは結局両親と学校からの大きな期待とプレッシャーだった。進学校は毎年そこに何人合格者を出せたかという成績に必死になるのだ。そんな中でお姉ちゃんが突然に志望先を変えると言い出した。その代わりに受験すると言い出したのは聞いたこともない東京の女子大で、もちろん母は猛反対した。すぐ後には私の大学進学も控えていて、費用的な問題を反対の理由にしていたけれど、母はやっぱり大切なお姉ちゃんを遠くへは出したくなかったのだと思う。反対したのは母だけではなかった。
せっかくいい成績を残しているのに、入学金さえ払えば入れるような私大をわざわざ受験することを当然ながら父も認めなかった。真面目で堅いだけが取り柄の大学教授の父がそんな娘の気まぐれを受け入れるはずもない。やはり父の判断が決定権を持ち、お姉ちゃんは結局望まれるがままの進路を選ばざるを得なかった。
私には急に志望を変えたお姉ちゃんの真意は何一つ解らない。けれど滅多に我儘も言わないお姉ちゃんのことなのだから、余程の動機があったのだろう、そう漠然と思っていた。
父母の反対がどれほど当然で、お姉ちゃんが望んでいる事がどんなに勿体の無いことだったのかを身をもって理解出来たのは私自身が実際に受験生になってからだ。私の頭はお姉ちゃんとの血のつながりを疑ってしまうほどの不出来さで、どんなに頑張っても国立大合格ラインに届くか届かないかという点数しか取れなかったのだから。
厳格に手足が付いて歩いているかのような父と、娘を自分の大切な所有物のように扱って手放そうとしない母。出来が良すぎたせいで期待をかけられたお姉ちゃんにとって、この家は息苦しいだけの場所になってしまっていたんだろうか。
家を出る前のお姉ちゃんに最後に逢えたのは私だった。正確には直接確認出来たのは「声」だけでその姿は遠くに後姿を見ることが出来ただけだったのだけれど。
用意していたプレゼントを渡せないままになってしまったので、私はその日をよく覚えている。新しく大学生活を送りはじめていたばかりの4月の末、 お姉ちゃんは誕生日前日の雨の降る晩にこの家を出て以来帰らなくなった。
あの夜の記憶はとても僅かだ。
何かの物音で眼を醒ましてしまった私の頭は奥にくすぶっている眠気ひとつなく不思議なほどはっきりとしていた。普段は小さな地震が起きても、近所に救急車が来ても気付かない熟睡型の眠りを貪る私がなぜかその時ばかりは些細な物音に気づいたのだ。
時計を見るともうすぐ4時になるところだった。隣でドアを開閉する音が聞こえた。けれども気配はすぐに階下へと降りて行く様子もなく、部屋の前にに留まり続ける。少しの間の沈黙。……何だろう。そもそもまったく違う物音をドアの開く音と聞き違えたのかもしれない。再び眠りにつくためにベッドのなかで身体を反転させながら、そう自分を納得させようとしていた時。
「……織ちゃん、ごめんね」
ドア越しにようやく届いてきた言葉の意味を捉えるのには時間がかかった。扉の内側で私が眼を醒ましている事実など、お姉ちゃんには予想できたはずもない。誰に聞かれることもなく闇に消えてゆくはずだったその呟きの意味するところをなんとなく理解したのは、言い置くなり階段を降りて行くその足音を聞いたときだった。努力して音を響かせないように、早足で階下へと降りて玄関へと向かう足音。あとで考えればその足音がいつもよりも重く聞こえたのはお姉ちゃんが最低限の身の回りの物を詰めた、大荷物を抱えていたせいかもしれない。
「待って……お――」
お姉ちゃん、行かないで。その言葉がなぜか出口を失って呼吸が詰まったときのように胸が苦しかった。誰もが寝静まるこんな夜中に抜け出すなんて常軌を逸している。お姉ちゃんが、この家を出て行ってしまう。勝手にそう悟った私は怖くて堪らなくなった。きっともう帰らないつもりなのだ。息苦しい両親の束縛から逃れ、自分が望んだ場所へ進むために。
ベッドから慌てて這い出した私は、カーテンの隙間に身を滑り込ませて窓の外を見た。胸の鼓動が警鐘を鳴らすように早くて、体が小刻みに震えはじめるのを抑えることができないまま。そのとき初めて気づかないほど静かに雨がアスファルトを濡らしているのに気が付いた。
庭木と背の高い生垣に殆ど覆い隠されてしまっていたけれど、そこに見たのはいつの間にか家の前に停まっていた一台のタクシーに乗り込むお姉ちゃんの姿。
父と母が何も気づかず眠り込んでいる家をお姉ちゃんは一度も振り返らなかった。深く闇に静まり返った家のなかで私は声も出せないまま、まるでその場所に足を縫い止められたように動けない。そのまま暫くタクシーの走り出した方向をただ見つめる事しかできない私に、身体の震えが収まると遅れて涙がやってきた。
まさにこの窓の下で、今もちっとも変わらない家の前の通りを眺めながら涙を流し続けたその夜、再び眠りにつけたのはいつだっただろう。