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猫の耳  作者: 高秧恒祈
4/8

4.雨(3)

「あ、おはよう」

「……おはようございます」

 翌朝、リビングに行ってみると既に彼は目覚めていた。こっそり夜に掛けてあげた毛布は几帳面に畳んで置いてある。

 ぎこちなく挨拶をすると少し慌てたような仕種でそれまで視線を落としていた小さな本を閉じて自分の脇に隠すような素振りをした。

 なにもそんなに慌てて見せなくてもいいのに。そんな態度を見せられるとかえって興味が沸いてしまうのは人間の性というものだ。何の本なのか気になってさりげなく近くを通って見ると黒い表紙に小さく金文字がで書かれているタイトル。何と書いてあるのか確認するためにはもう一歩近づく必要があった。

 夜の間に乾燥まで済ませて置いた彼の服は既に持ち主の身体に戻っていた。控えめで静かな雰囲気を纏っているのに、どこにいても逃げ隠れせず潔くそこにいる佇まい。無駄な装飾やデザインなど何一つ必要としない彼にに相応しく最も似合っているのはやっぱりこの簡素な白色のシャツ姿のようだ。

 キッチンに立つと、胃の辺りが押されるような空腹感を感じた。ましてや昨日の夜なにも口にせずに眠ってしまった彼がお腹を空かせていない筈はない。

「今度こそ何か食べるでしょ?何か好き嫌いはある?」

 とにかく今はなにか手っ取り早く作れるものが良い。昨日夕方に作ったスープの鍋に火を入れて、外観の割に食材の詰まっていない冷蔵庫の中を確認する。そう。今日は休みだから買い物に行こうと思っていたのだ。だから現時点で冷蔵庫の中身がからっぽでも仕方の無いこと。

 冷蔵庫の上段の隅に行ってしまったヨーグルトを取ろうと背伸びをしている最中の私の耳に、かろうじて聞こえる程度の声が聞こえた。

「…すぐに帰ります。昨晩は置いていただいて、有難うございました」

 小さく、どこにも感情の抑揚のない声だった。

 驚いて振り返ると彼はソファーから正面の窓一つある白い壁の方向へと向いたままで、ぼんやりと下方を向いた視線は何もとらえてはいない。

 その表情から感情が読み取れないだけでなく、何も考えていないようにさえ見えてしまうのは、努めて彼自らそうしているせいなのかもしれなかった。

 何にも期待を掛けないで、今の自分に用意された現実だけを受け入れて。そうして裏切られた時の失望を免れて自分を守っている。きっとそうしなければ生きて行けない時間を今まで過ごしてきたのだ。

 どれだけ大事なものを手放し続けたら、そうまで閉じこもってしまえるというのだろう。

「ねぇ、名前は?」

 唐突な質問にようやく彼はこちらを向いた。

「あ、ええと、あお――」

「あお?蒼くん?」

「えぇ、まぁ。そうです」

 好きなように呼んでくれというような答えだった。だけど別に本当の名前を知る必要なんてない。この先、彼を識別する呼び名がほしいだけなのだから。

 火にかけて忘れていた鍋がガラス製の蓋をカタカタ震わせながら蒸気を細く吐いた。もう料理のことに回る頭がなかったので無意識に火を留める為に身体が動く。

「――帰りたい場所なんて、無いんでしょう?」

それがあるならば始めから此処へはやって来る事などなかった筈だ。無理にこの部屋を出て行ってもまた行く宛てもなく何処かでぼんやりと過ごすことになる可能性が高い気がする。

「でも、我慢すればいいんです。今までだってそうしてきたし。少しだけ望んで抵抗をしてみたけど、結局無理なことだってやっぱり分かった。僕には何ひとつ自由に成るものなんてなかった。何かを思い通りに選ぶ権利なんて始めからないから」

 彼の話し方はいつもゆっくりしていて一言ひとことを良く考えながら言葉にしていた。そして必ずどこか余所を向いたま、静かに瞬きを繰り返している。その様子ははまるで彼にしか聞こえない微かな音楽に耳を傾けているかのようにも見えた。自嘲気味に語る今は少しだけ表情が和らいでいる。

「…選ぶ権利がないなんて、そんな訳無いよ」

 自分でも少し驚くほどに彼の最後の言葉が引っ掛かった。だから気づいたときには良く考える間もなく、否定の言葉が口をついて出ていた。

「そんな風に考えてたら、なにも出来なくなって当然だよ。もう少し身勝手に動いてみたらいいのに。そうすればそんなの思い込みでしかなかったって解るはずだから。私にはどうして欲しいとは言えないけれど…もしも貴方が良いと思うならいつまで居て貰ったって構わない」

 どこから沸き起こったのか解らない緊張感が身体を占めて、途中で声が震えそうになるのを堪えなければならなかった。それにしても、昨日からの私はずいぶんと大胆な行動を起こすようになったらしい。夜の公園で男の子を拾うだなんて。こんな事、美紀が知ったら飛び上がって驚くに違いない。それに、滅多にこの部屋に来ること無いはいえ、いない訳ではない恋人の存在が頭に浮かんだ。本当はもっと早く気付くべきだった……彼に知れたら流石に不味い事になるに違いない。

「でもそう言いながら、少し後悔してますよね」

 いつも視線を逸らしているのに、そんなときばかり顔を上げて真っすぐにどこまでも覗き通してしまうような瞳を向けてくるのは狡い。不意を付かれた私は次に続く彼の言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまった。

「解るんです。僕には他人の考えていることが」

わか、る……?

 ダイニングキッチンから見渡す自分の部屋の眺めが一瞬ぼやけて見えた。

 彼はまた誰もいない正面の窓の方に向き直ると、少しだけ背中を丸めて膝の間で指を組んで俯く。

「いま貴女の考えている事が僕には聞こてしまうんです。貴女が言葉を選んで口にするより早く、僕には解ります。……ほら、おかしいと思ってるでしょ。薄気味悪いって。」

 その言葉を聞くうちに私は次第に身体の内側に響く鼓動が大きく速まってくるのをはっきりと感じた。別に彼を薄気味悪く感じているのではない。

 自分でさえも整理しきれていないままの想いが、脳裏に生まれたての言葉が誰かに聞かれてしまう。そんなこと有り得ない。誰だってそんなこと、俄かには信じない。でも、私が知らないだけだとしたら…?私が見知っている物なんて世界のほんの僅かな部分に過ぎないのだ。

「気味悪くなんか無い、けど。ただ、驚いてるだけ」

 誰かを納得させられるような理由らしい理由で説明を付けることは出来ない。けれど彼を見ているとその身にならば常識では考えられないようなことが起こり得るような…そんな気さえした。

 でもどうして、そんなことが現実に起こり得るんだろう。人知を越えたものにそれ問うのも始めから無理なことかもしれないけれど、それでも思わずにはいられない。

「――僕もそれを知りたくて。それが僕の身に起こっている理由も意味も、ずっと答えを探していたけれど。答えがあるのかどうかすら解りません」

 思考の中だけの私の疑問の言葉に応えるように蒼君が言葉を続けた。

 本当なんだ。出口のない心の声もみんな、この子には聞こえてしまう。

「人が沢山集まるような場所にいると、僕の頭は顔も見えない大勢の他人の言葉で埋め尽くされて・・・自分の考えも保つことが出来なくなってしまう程なんです」

 耳をふさげば済む「音」となっていないからこそ、その「騒音」からの逃げ場はない。とめどなく流れ込む大量の思念。それは想像するだに酷く気持ちが悪い。

「薬が効いていれば今は大部分抑えられるんですが、それでもこうして近くにいれば全てを防ぎきることは出来ません。」

 食事に執着がなくても数時間置きに薬だけは飲み続けていた行動にようやく得心がいった。しかし話を聞いているうち、彼はこの世界で誰よりの被害者のように思えてくる。周囲の人間が大勢で彼を苦しめているのだ。ましてや自分が、今最も彼に影響を与える元凶で。此処に引き止めようとしているのは彼にとって何よりの迷惑なのかもしれない。

「ごめんなさい、私なにも知らなくて」

「いえ、迷惑だとか、そんな事を言いたいんじゃなくて。貴女はそれでも良いって言えますか。僕が此処にいても」

 そんな人間、置いておきたくないでしょう?真っすぐ向いた瞳が冷たくそう言ってくるようだった。

 確かに、言葉に出さない自分の心が誰かに漏れ出してしまうなんて、始めは怖いような、嫌な気持ちがした。でもその戸惑いの波がいつの間にか穏やかになった今、少し違った気持ちが生まれ始めているのに気付く。

「平気だよ、私は」

 彼の前で自分を偽ったり、取り繕うことは無意味でしかない。そうゆう無理な努力が無用になるのだ。何も隠すことができない代わりに、それが露見するのを恐れる必要も無い。そう考えると彼に接するのは他の誰に接するのよりも楽なんじゃないかと思えた。

 やっぱりこの子は猫なんだ。猫は言葉をもたなくても人間の気持ちを敏感に感じとって暮らしている。幼い頃に猫と暮らした記憶を柔らかに蘇らせて思った。あの時と一緒なのだ。

「貴女の名前は、まだ聞いてませんでした」

「織恵、川嶋織恵」

 そういえば自分を名乗ることを忘れていたらしい。今更ながら名前を告げると彼は一瞬だけ何かを考える間を置いて頷く。

 それから少しだけ言い難そうなことを話すように戸惑った表情を浮かべながら口を開いた。

「あと、僕は…生の玉葱以外なら普通に食べられます――たぶん」

 相変らず他所を向いたままだったけれどきっとそれは口に出すのに多少の勇気が要る彼なりの意思表明だったのだろう。それを聞いて私の身体に巣食っていた緊張がホッと解けていった。

「分かった。でもあとでもっと思い付いたら遠慮なく言えばいいよ?」

 それから私は二人分の空腹を満たすための食事作りに専念することにした。

 とにかく少し何か食べたら食料の買い出しに行って、ガラガラの冷蔵庫を埋めなければ、と思った。



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