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猫の耳  作者: 高秧恒祈
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2.雨(1)

 その日は授業を終えて学校を出た頃から身体をそわそわとさせる生温い風を感じていた。それは湿気を含んだ、嫌な風。髪に癖毛の悩みのある私にとって、朝の鏡の前での苦労を台無しにしてくれるその風は何よりも迷惑なものだった。少し経つとやがて雨が降り出すのだ。案の定、電車を降りる頃にはまだ明るかったはずの空が鈍色の重苦しい雲に覆われて、大粒の雨が地面に吸い込まれるように真っ直ぐに落ち始めていた。

「ヤダ、どうしよー。降ってきたよ、傘なんか無いし」

 一緒に電車を下りた浅倉美紀は、嘆きながら天使のような明るい茶色のウェーブを作った髪を両手でぐしゃぐしゃと乱している。それは彼女が何かに迷ったり、焦ったり驚いたりという感情の急激な変化を示す仕草だった。

 美紀との仲は女子高時代からだ。学年でも指折りのとても可愛い子なのに女らしさを多少欠いた普段の言動は若干勿体無いものだけれど、私はかえってその飾らな過ぎる性格が好きだった。長く一緒にいても居心地の良い、数少ない友人だ。

「やっぱり降ってきたんだね。直ぐに止んでくれないかなぁ。予報では雨は夜になってからって言ってたのに」

 湿度に反応しやすい私の髪も、まさか何時に雨が降り出すかまでを予知することはできない。残念ながら「雨が降り出しそうな気配」を少しだけ早めに感じるだけなのだ。

 雨は止むどころか益々強くなり、地面で跳ね返るような激しい勢いに変わってゆく。

 空から地面へと落下を繰り返す様子に見入っていると、幾重にも重なるようなざわざわとした雨音は私の外耳から入り込み、あっという間に身体を包み込んでしまう。身体の奥で雨音が大きく響く時、言い表せない不安にも似た焦燥感に捕われるのは何故なのだろう。雨に濡れてもいないのに染み込むように体の中に広がる冷たさは一体何処からやって来るのだろう……?

「どうする?(おり)ちゃんコンビニで傘買う?」

 美紀の声が私を引き戻す。

 改札から流れ出た人々のほとんどが出口前で足を止め、暗い空から大粒の雨が降り注ぐのを困り果てた顔で見上げていた。昼過ぎまではあんなに穏やかに晴れ間が覗いてたのだから傘を持たない人ばかりが溢れているのも無理もなかった。

 これだけの集中的な降り方をしていれば少なくともこの先雨脚は弱まって行くはず。なにも今慌てて雨の中に出て行く必要もないように思えた。

「とりあえず雨弱くなるまで少し待ってみようかな。止まないかもしれないけど、どうせバイトの時間まではまだまだあるし。美紀は?」

「あたしはさ、走れば家すぐだし。走って帰ろっかなー」

 あまりに彼女らしいその答えは、私を驚かせはしなかった。わざわざ傘を買うのも、雨が上がるまで待つのも確かに美紀の性分ではない。腕時計を外してポケットに仕舞い込む姿を見て、本気で濡れて帰るつもりだと悟った。

「いくら近くってもこの降りじゃ一瞬でずぶ濡れだよ?大丈夫?」

「帰るだけなんだから平気、平気よぉ。今日さ、ずっと見てたドラマの再放送、録画予約忘れてきたんだよね。だから何としても今帰る。織ちゃんこそ気をつけて帰るんだよ」

 ぎりぎり束ねられる長さの髪を結って気合を入れた美紀は、んじゃまた!と小さく飛び跳ねながら短かい挨拶を残すと躊躇なく雨のカーテン越しの景色の中へ飛び出して行った。

「……ほんと元気、だなぁ」

 雨が降ろうと、風が吹こうと、彼女の心が暗雲に塞がれる事などきっとないのだろう。どれだけ長い時間一緒にいても、決してあんな風にはなれはしない。いつも例外なく全力で正直に生きているような美紀が羨ましく思える。

 親友の背中を見送った私は、暇を持て余して駅の構内にぼんやりと視線を移した。そこには複数の足音と話し声とが重なり合う雨音のように響き渡っていて、私を一人ぼっちの気分にさせた。

 お揃いで大きなぬいぐるみを鞄につけて歩く女子中学生たち。こぼれんばかりの笑顔で笑い合う制服姿の高校生カップルは今が1番という楽しい時間を過ごしているようだ。私とさして変わらない年齢であろうスタイルのいい女性は傍らを歩く男の子の遅れがちな歩調を気にしながらベビーカーを押している。ふわっとした香水の良い香りをすれ違い座間に漂わせたキャリアウーマン風の美人は歩きながらも赤い携帯電話から目を離さずメールを打ち続けている。――みんな、どうにかして誰かと繋がっている。繋がりそびれている人はいない。望む人と、そうでない人とでも。それなりにちゃんと器用に繋がれるものなのだ。

 不意に視界のなかの一人の姿に視線が吸い寄せられた。それは、細身で背の高い、色白でおとなしそうな少年の姿。

 白地の開襟シャツの上に紺色のパーカーを羽織り、黒い小さなショルダーバックを肩から斜めにかけた彼は、俯いて左手で頭を庇うように押さえながら此方側へ歩いて来る。その歩調は徐々に遅くなり、周りの人間にぶつかりそうになる度ふらふらとした足取りになった。

 何かの発作なのだろうか、苦しそうにもう一方の手でも胸元を押さえている。その袖口から覗くほっそりとした手首や肌の白さはまるで病院から無理矢理抜け出してきたのかのよう。

 そんな様子で出口反対側の地下通用階段へと辿り着いた頃には、彼は立っているのもようやくの様子でくの字に折り曲げた体を小刻みに震わせていた。

「ちょ、っと……」

 只事ではない、このまま見過ごしていたら何か大変なことになってしまう気がした。遠くから見ているこちらまで胸が動悸し始めそうになるその状況に、他に誰か気づいて目を留める人はいないのだろうか?

 焦りと戸惑いを感じながら私は周囲に視線を走らせた。すぐそこを行き来する人は何人もいるというのに、不思議と誰も彼の様子気付くことはない。まるでそれぞれが自分以外の人間の存在を感じて居ないかのようだ。

 だけど本当はそんなものかもしれない。私だって常にこれほど他人を観察し続けることはないのだ。皆、自分の中の世界のことで精一杯なのだから。

 ついに少年の身体はふわりと大きく左側に傾き、その身体は灰色の床の上に崩れた。

「だ、大丈夫ですかっ?」

 恐れていた展開が目の前で起きている。それを目にした瞬間、思わず駆け寄ってみたものの、何をどう対処していいか具体的な行動に迷ってしまった私は、紙のような顔色で苦悶の表情を浮かべる少年を前にただオロオロとしてしまうだけ。いざという時にのろのろとしか働かない頭を使って私は懸命に考えた。

 動かしたりするのも良くないんだよね。私一人じゃ出来ることは少ない……誰かに知らせなないと…そう、誰かに助けを求めないと。

 そう覚悟を決めて大きく息を吸い込んだとき。



《 人を呼ばないで 》


 今の、は……?

 それは直接思考のなかに割り込んだ、声。

 聞き慣れない声だった。雑踏のなかの誰かの会話をたまたま耳が拾ってしまっただけなのか。それとも少年の異変に気づいた誰かが?

 やはり足を止める人間が居ないことから後者の可能性ではないことは明らかだ。

 すると少年が弱々しく上体を起こしながら瞼を開いた。

「なん、でも、ないです……から」

 擦れて雑踏に消え入りそうな声だったけれど、紛れずにちゃんと私の耳に届いたのは、頭の中で一瞬聞いたあの声に似ていたからか。

「何でもないなんて。こんなに苦しそうなのに」

 蒼白い肌にうっすらと冷や汗さえ光らせながら、そんな強がりを言われてもどこにも説得力はない。

「いつもの……副作用なんで。…薬の」

 何度か咳込みながらもゆっくりと深呼吸を繰り返す彼の俯いた顔をよく観察すると、そこに隠れているのはまるで人形のような印象を受けるほどに整った鼻梁。遠くからはただ頼りなく細いだけに見えた身体は確かに力強い印象とは掛け離れていたけれど、長い手足の下にはしっかりと成長した男性独特の骨格を感じる。考えていたほどの幼さはなかった。

「静かな場所に行けば、平気です」

 さっきよりは随分と落ち着きを取り戻したような声だった。それでもまだ苦しさをどこかで我慢しているような表情のまま、静かに服に付着した埃汚れを払い落としながら、体を伸ばして立ち上がろうとしていた。

「でもまだ、急には動かない方が――」

「ご迷惑をおかけしました」

 立ち上がってみると私より余裕で頭ひとつ分高い彼の身長に少し驚かされる。そしてこちらの言葉を遮って軽く頭を下げたかと思うと、妙にそそくさと逃げるようにして地下街の方へと立ち去ってしまう。

「本当に大丈夫なら、良いんだけど……」

 既に遠くなってしまったその背中にもうこの声は届くことはないだろう。まだ力無く歩くその姿が階段を下りて見えなくなってしまうのを黙って見送る他に私に出来ることはなかった。

 結局彼は初めから最後まで一度も目を合わせる事はなかった。あんなにもはっきりと他人を避けるような素振りを示すには、何か訳があるのだろうか。

 きっとすぐに忘れてしまう程度の小さな引っ掛かりを胸に覚えたままの私の耳に、もとの駅構内の雑踏がやけに煩く戻ってくる。

 出口前で雨上がりを待つ人数はさっきより随分減っていた。明るさを取り戻しつつある空の下で水溜まりが光っている。

 ああ、これで帰れる。

 そしてこれからは雨が降り出しそうな心配が或る日には必ず傘を持ち歩くことにしよう、と心に決めた。

 


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