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猫の耳  作者: 高秧恒祈
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1.或る日の夕方

 提出期限の差し迫っているレポートを何とか無理やりに書き上げた私は、机上にペンを投げ出して大きく全身で伸びをした。

 気が付くと部屋がすっかり蒸している。何とか提出期限に間に合わせようと、普段使わない集中力を発揮したらしい。締め切った窓ガラス越しに雨粒の落ちる微かな音と、濡れた路面を車が往来する音が耳に届いた。

 雨が降り出したのは夕方になってからで、昼の間に差し込んだ日差によって暖められ続けたこの部屋はまるで温室のよう。

 曇り空と雨の季節からまだ一ヶ月と経たないというのに、あの頃の肌寒さは今となっては簡単には思い出せない遠い感覚になっている。目の前で季節が移り変わるような感覚に、月日の移ろいを早く感じるのはきっと私だけじゃない。

 猫はあれから、私の部屋に住み着いている。

 彼がこの家に来てもう二ヶ月になるけれど、不思議ともっとずっと以前から近くにいたような錯覚を私に与えていた。

 猫は私に何を求めるわけでも、媚びる風でもなく。ただそこで眠って、起きて。そっけない素振りでたまに申し訳なさそうに私が分ける食べ物を口にして。勝手に外へ出かけて一晩戻ってこないこともある。そして気がつくといつの間にか帰っていて、ひっそりと隣の部屋に閉じこもっている。私たちは一緒に生活をしているというより、ただ同じこの場所に居合わせる生き物同士だった。

 実家にいた猫もそうだったけれど、猫という動物は飼い主に対する愛着や依存みたいなものが全くない。放って置いても機嫌を損ねることの無い代わりに、ある程度以上に近づいたり、構われ過ぎるとすぐに何処か他所へ行ってしまう。猫にとっては飼い主などお節介な同居人程度にしか思われていないものだ。

 そして私たちはお互いにあまりお喋りじゃなかった。誰かと一緒なら大抵話の聞き役にしか回らない私だったのに、それでも彼に比べたら自分が喋りすぎているように感じた。だから実は彼の事について知っていることは少ない。本当の名前も、年齢も、前に何処に住んでいたのかも。

 急に多くを知る必要もないと思っていたし、知っていたからと言って私に何を変える力もない事が良く解っていた。

 決して懐きすぎない猫のその適当な距離を私は心地良くさえ感じている。これまで全く接点のない場所で息をしてきた私たちに、むしろそれ以上の関係が用意されているはずがない。彼は行く宛てなく冷たい雨の中に留まっていた所を偶然にも私に見付かっただけの事だし、私が彼を拾い上げたのも一人暮らしに感じていた幾分かの淋しさと退屈さを埋めるためだったかもしれない。

  幸いにもまだ、その我ながら突飛な行動に後悔はない。

 少しだけ困った事を挙げるとすれば、私の考えていることや感情が口に出さなくても一方的に彼に漏れ、感じ取られてしまう事だった。



  

 コト、と薄い壁の向こうで微かな物音がした。

 気配が廊下から玄関の方へ移動する。

「出かけるの?雨、結構降ってるみたいだけど」

 普段は気づいても声もかけずに見送るところなのだけれど、天気の悪さ故に窓を開けるのを躊躇っていた私はつい口を開いた。

「……散歩、です」

 猫のくせに濡れるのを嫌がらないらしい。寧ろ考えてみると彼はわざわざ雨が降っている時を選んで出かけることが多い気がした。それにも何か理由があるらしいのだけれど、まだ尋ねてみる機会はない。

「外、涼しいかな。でも、……やっぱりいいや」

 レポート課題からも解放されたことだし、夕涼みに一緒に散歩に出るのもいいかなと一瞬考えたれども、やはり進んで外を歩きたくなるような天気ではないので遠慮することにする。それに散歩と言うのも尤もらしい口実に過ぎず、今彼が外出するのは何か別の目的の為なのだろうから。

 だけどちゃんと一人でも傘を持って行くだろうか?私は少しまたお節介心を起こす。

 生憎と我が家にはビニール傘という都合の良いものは備わっていないし、私の傘はどれも可愛すると倦厭されそうな物ばかりだ。濡れて帰って来ると後でいろいろ乾かしてやるのが大変になるのだが。

「傘はこないだ自分のを買ったので大丈夫です。あと…冷凍庫に昨日買ってきたアイスが残ってるので、食べていいですよ」

 また此方が口に出すより早く、考えていた事に対する返事が返って来る。この分ではそのうち口数が逆転する日が来るんじゃないかと、少し馬鹿げたことが頭の中を過ぎった。

 それでも必要最低限以外に向こうから口を開くようになったのは此処最近になっての変化かもしれない。

 一人きりの部屋で、思わず顔が綻ぶ。

 ありがと。いってらっしゃい。

「……はい」

 微かに返事が聞こえた気がして、ドアの閉まる音の後には本当に静まり返った空間が取り残された。それは自分以外の誰かが居て感じる静けさとは全く質の違う静寂だ。

 この生活に無意識に依存しているのは私の方なのかも知れない。猫の存在を感じることで得られる自分以外の生き物がこの家にいるという安堵。 

 窓の外の雨音を聞きながら思い出されるのは彼に初めて逢ったあの日、春の終わりの雨の日の記憶だった。

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