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めじるしの鈴

めじるしの鈴 柿沢の朝霧――その朝、わたしは一度も鳴りませんでした

掲載日:2026/10/07

わたしは鈴です。


目はありません。ですから、音で見ています。


鞄の持ち手に付いた、小指の先くらいの真鍮です。持ち主は藤谷ちはるさんといいます。二十二の夏に、駅前の土産物屋で三百八十円で買われました。今年で八年になります。


わたしを通している組紐は、赤いのだそうです。八年でだいぶ硬くなりました。三月に結び直してもらったところも、もう硬くなっています。


十一月の頭、鞄が棚から降ろされました。旅のために降ろされたのは、三月の霧尾から帰って初めてです。


内ポケットのファスナーは、三月のあの夜に一度鳴ったきりです。もらった紙は、まだ中に入っています。


行き先を聞かれて、ちはるさんは電話でこう答えていました。


「柿沢。去年、紅葉がよかったから」


語尾が上がりました。ちはるさんの語尾が上がるのは、本当にそうだとは思っていないときです。


去年の帰りの駅で、来年も来ますか、とちはるさんが聞いて、来ます、と答えた人がいました。即答でした。毎年、谷に霧の出る朝を撮りに来る人です。


この一年、わたしに聞こえるところで、ちはるさんがその人の話をしたことは一度もありません。


宿も、去年と同じ霧屋でした。


一日目の午後、寺へ行くバスに乗りました。隣の席から、あの吸う息はしませんでした。


停留所が近づいて、ボタンが押されました。去年より、ひとつ先の停留所でした。去年は、押すのがひとつ早かったのです。


その夜、ロビーで聞きました。


床が鳴りました。仲居さんではなく、泊まり客の重さでした。それから、短く息を吸う音がしました。


一年たっても、吸い方は変わっていませんでした。


顔を上げる前に、分かった気がした。分かった気がしたことに、ちはるは少し慌てた。


「霧屋の」


「はい。去年の」


羽場は、たまたま通りかかったという顔をしていた。そういう顔をしようとしていたのかもしれない。


「今年も、霧ですか」


「今年も、霧です」


同じ言葉を返されて、ちはるは笑いそうになった。去年もこうだった。この人は、聞かれたことをそのまま返してくる。


「去年の写真、焼いてあります。三枚」


「え」


来るかどうかも分からない相手のために、この人は一年前のフィルムを焼いていた。ちはるはそれを、どういう顔で聞けばいいのか分からなかった。


「部屋にあるので、取ってきます」


ちはるさんは立ち上がろうとして、鞄の持ち手を握り直しました。


ちりん。


「羽場様、お電話が入っております」


帳場の人の声でした。ロビーの端から端まで届く声です。


羽場さんは帳場へ行きました。電話は十四分続きました。そのあいだ、ちはるさんはソファに座ったままでした。十四分のうちに、衣擦れの音が九回しました。持ち手には二度、指がかかりました。二度とも、握り直されはしませんでした。


戻ってきた足音は、ソファの手前で一度止まりました。


「すみません。明日、渡します」


「はい」


二日目の午後、展望台で、羽場さんは封筒を出しました。厚みのある紙が三枚、中で滑る音がしました。封筒そのものは、新しい紙より音がやわらかいものでした。一年、鞄の中で角が丸くなったのだと思います。


「去年の三枚です」


ちはるさんは受け取ろうとして、手を伸ばす前に、持ち手を握り直しました。


ちりん。


坂の下から、エンジンの音が上がってきました。低い音でした。去年と同じ音のバスでした。


団体のお客さんが降りてきて、展望台は靴と声とシャッターの音でいっぱいになりました。人が流れてきたので、封筒は一度、羽場さんの鞄に戻りました。折れるといけないので、と言う声がしました。


ちりん、からエンジンの音まで、一秒ありませんでした。


ゆうべの電話もそうでした。ちりん、から、お電話が、まで、一秒ありませんでした。


並べてみると、去年の三度もそうでした。バスのボタンも、団体のバスも、駅の発車メロディも。三月の霧尾の玄関も、同じでした。わたしは毎回数えていたのに、並べてみたことは一度もありませんでした。


並べても、何かが分かるわけではありません。わたしは鈴なので、数えることしかできません。


人が引いてから、羽場さんが言いました。


「明日の朝、霧が出たら、僕は暗いうちにここへ来ます」


「出そうですか」


「分かりません。出ても、日が昇ったら二十分で消えます」


それきり、羽場さんは誘いませんでした。ちはるさんも、行きます、とは言いませんでした。空白は七秒ありました。


その夜、ちはるは布団の中で、去年の駅のことを考えていた。


あの、よかったら、のあとに何が続くはずだったのか。一年ずっと考えていた、と言えば嘘になる。考えなかった日のほうがずっと多い。それでも、考えた夜はあった。


走らなかったことを覚えておこう、と去年の自分は決めた。覚えてはいる。覚えているだけで、何も変わらなかった。三月の霧尾では、差し出された誘いを断った。走らないことと、断ることは、少し似ている。どちらも、あとから静かになる。


その静かさに、ちはるはもう慣れてしまいそうだった。慣れるのが、いちばん怖かった。


三日目、まだ暗いうちに、廊下の床が鳴りました。泊まり客の重さで、金具の音が混じっていました。カメラの鞄の留め具の音です。足音は玄関のほうへ行って、戸が一度開いて、閉まりました。


ちはるさんは起きていました。息の音が、寝息ではなかったので分かります。


窓の開く音がしました。冷たい空気が入ってくると、部屋の音は少し硬くなります。


「出てる」


小さい声でした。


そのあとちはるさんが着替える音は、この旅でいちばん速いものでした。


鞄が持ち上げられました。ちはるさんは、旅先でも鞄を置いていかない人です。


玄関で、靴を履く音がしました。


持ち手が、握り直されました。


ぷつ、という音がしました。


八年で初めて聞く音でした。組紐の切れる音です。


わたしは落ちませんでした。持ち手といっしょに、ちはるさんの手の中に握り込まれていました。玉が指に押さえられていて、鳴りませんでした。


ちはるさんはそれに気づかないまま、走りだしました。


宿の裏から、坂の道でした。砂利が四百十二歩、そのあと木の段が六十段ありました。手のひらの中なので、音はくぐもって聞こえます。それでも、数えるのに困るほどではありませんでした。


途中で、何も鳴りませんでした。


バスは来ませんでした。誰も呼び止めませんでした。電話も、時計も、発車のメロディもありませんでした。聞こえていたのは、息の音と靴の音だけです。


坂の途中で、ちはるは去年の駅を思い出していた。あのときは、走る前に考えのほうが先に来た。追って、それでどうなるのか。今朝は、その考えが来る前に、もう足が出ていた。


九分でした。


足の下が展望台の砂利に変わったところで、短く息を吸う音がしました。あの人は、言葉の前に必ず一度吸います。


「来ないかと思いました」


「走りました」


ちはるさんの息は、まだ整っていませんでした。


霧がどんなふうだったかは、帰りの特急で、ちはるさんが電話で話していたのを聞きました。


谷が、白いもので埋まっていた。


紅葉の帯は、その白の下を流れているはずだった。見えるのは尾根の先の色づいた木だけで、それが白の上に浮いていた。日が当たりはじめたところから、白が少しずつ金色になっていった。


羽場は一枚だけ撮って、カメラを下ろした。


「去年、駅で言いかけたこと、覚えてますか」


「メロディで聞こえなかったやつ」


「霧が出たら、見に来ませんか、って言うつもりでした」


羽場はそう言って、少し笑った。息を吸うほうの笑い方だった。


「出ない年のほうが、多いのに」


「来ました」


「来ましたね」


あの続きは、これだったのか、とちはるは思った。一年、自分の中で勝手に長くしたり重くしたりしていた言葉は、思っていたよりずっと短くて、ずっと具体的だった。霧が出たら、見に来ませんか。それだけのことを、この人は一年持っていた。


そこから、長い空白がありました。四十二秒でした。衣擦れは一度もしませんでした。気まずい沈黙ではなかった、ということです。


封筒の音がしました。


「去年の三枚です。来なかったら、来年も持ってくるつもりでした」


今度は、何も割り込みませんでした。紙が手から手へ渡る音を、わたしは初めて最後まで聞きました。


「一枚、撮ってもいいですか」


フィルムの巻き上がる音がしました。


「それは、来年もらいます」


ちはるさんが言いました。言ったあとに、空白が二秒ありました。


「来年も来ます」


羽場さんの答えは、去年と同じ即答でした。


約束をしてしまった、とちはるは思った。去年は、それが怖くて言えなかった。言ってみると、思っていたよりずっと軽かった。軽いのに、ちゃんと手の中に残っている。


笑い声が重なりました。重なったのは、わたしの聞いてきたかぎり、八年で六度目です。


「消えますね」


羽場さんがそう言ったのは、着いてから十九分たったときでした。


宿に戻って、部屋の前で、ちはるさんはやっと手を開きました。


「あ」


わたしは手のひらの上にいました。切れた組紐の端は、まだわたしに通ったままでした。


「いつから」


ちはるさんは少し黙って、それから笑いました。空白は三秒でした。


手首から何かを外す音がしました。髪のゴムでした。去年、この宿で二度鳴らしていたのと同じ音がしました。


わたしは、そのゴムで持ち手に結び直されました。玉は押さえられていたので、そのときも鳴りませんでした。


ゴムは、組紐よりずっとやわらかいです。


帰りの特急で、内ポケットのファスナーは一度も鳴りませんでした。三月の紙は、今回も中に入ったままです。


走りだしてから霧が消えるまで、何も割り込みませんでした。


今回、わたしは二度鳴りました。


三日目の朝は、一度も鳴りませんでした。


去年は、よく鳴る鈴でよかったと思いました。今年のことは、まだうまく数えられていません。

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