二代目悪役令嬢は容赦しない 婚約破棄した王太子殿下、使い込んだ四十八万金貨を返していただきます
前々作:婚約破棄ですか? では、王国を支えたものをすべて返していただきます
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前作:悪役令嬢の娘だから何ですの? 母が滅ぼした王国の王子に婚約破棄されました
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できれば上の二つから見てほしいです。
親子は互いを指さし、声を張り上げた。
この国を救う方法を話し合うはずの会議は、いつの間にか責任の押しつけ合いへ変わっていた。
やがて宰相が立ち上がった。
「失礼いたします」
国王が目をむいた。
「どこへ行く!」
「辞表を提出いたします」
「今、この国を見捨てるのか!」
「わたしは三十七年間、王家へ仕えてまいりました」
「ならば最後まで仕えよ!」
「その間、同じ警告を何度も申し上げました。国庫からの浪費をお控えください。地方の困窮をご覧ください。オスカー殿下へ国政を学ばせてください、と」
宰相は一枚の書類を卓上へ置いた。
「ですが陛下は、一度もお聞きになりませんでした」
「今は聞いている!」
「追い詰められてから聞くことを、聞くとは申しません」
冷え切った声が、会議室へ落ちた。
国王は顔を赤くした。
「無礼者! 今すぐ衛兵を呼べ!」
誰も動かなかった。
会議室の扉の前には二人の近衛兵が立っていたが、二人とも国王から目をそらしている。
「何をしている! この者を捕らえよ!」
「陛下」
騎士団長が静かに口を開いた。
「宰相閣下は罪を犯しておりません」
「王命に背いた!」
「辞職を申し出ることは、王命への反逆ではございません」
「ならば、お前が捕らえろ!」
「お断りいたします」
国王の口が開いたまま止まった。
「お前まで私を裏切るのか」
「裏切ってはおりません」
騎士団長は腰に差した剣を外し、卓上へ置いた。
「わたしも辞職いたします」
「何だと?」
「部下の給与を二月も支払わず、ご自分たちは舞踏会と宝石に金を使い続けた。これ以上、兵士へ王家のために耐えろとは命じられません」
「兵士は国を守る存在だ!」
「そのとおりです」
騎士団長は国王を見た。
「王家の浪費を守るために、剣を振るうのではございません」
国王の顔から血の気が引いていく。
財務大臣も立ち上がった。
「わたしも辞表を提出いたします」
「待て!」
「援助金の使途について何度も異議を申し立てました。しかし、陛下は王命によって支出を承認なさいました」
「命じられたからといって、本当に払う者があるか!」
財務大臣は、信じられないものを見るような目を国王へ向けた。
「財務大臣が国王の正式な支出命令を無視すれば、処刑されます」
「方法を考えるのがお前の役目であろう!」
「ですから、何度も浪費をお控えくださいと申し上げました」
「もうよい!」
国王は卓を拳でたたいた。
「誰も頼りにならん! 私が自らリディアと交渉する!」
オスカーが勢いよく立ち上がる。
「父上、その必要はありません。リディアは私の婚約者です。私が命じれば、請求を取り下げます」
「お前は昨日、婚約を破棄したばかりではないか!」
「取り消せばよいのです」
「リディア嬢は拒否したのだろう!」
「あれは人前だったから意地を張っただけです。二人きりで話せば、すぐに私のもとへ戻ります」
王妃の顔に希望が戻った。
「そうですわ。リディア様は、二年間もあなたを支えてきたのですもの。まだ気持ちが残っているはずです」
宰相は深いため息をついた。
「昨日の光景をご覧になって、なぜその結論になるのです」
「女心を理解していないのですね」
王妃は得意げに答えた。
「女性は人前では強がるものです。あれほど厳しい態度を取ったのも、オスカーに追いかけてほしいからに決まっています」
「援助金返還の契約書まで用意して?」
「愛情の裏返しというものです」
財務大臣が額を押さえた。
「では、四十八万金貨の請求書も愛情だと?」
「ええ。オスカーの愛を確かめたいのでしょう」
「ずいぶん高額な愛情ですな」
「アルヴェイン家にとって、四十八万金貨など大した額ではありません!」
王妃は当然のように言い放った。
「大した額でないなら、返さなくてよいではありませんか」
その発言に、部屋中が静まり返った。
宰相は国王一家を順番に見た。
困惑する国王。
自信満々の王妃。
リディアが自分へ未練を持っていると信じるオスカー。
彼らの中には、自分たちが他人の財産を使い込んだという認識がなかった。
裕福な者から奪うのは、悪いことではない。
自分たちは王族なのだから、与えられて当然だ。
それを拒む者こそ冷酷で、心が狭い。
本気でそう考えているのだ。
「三十七年間、お仕えしてきましたが」
老宰相は寂しげに告げた。
「わたしは今日、初めて確信いたしました」
「何をだ」
「この王家は、もう救えません」
宰相は国王の怒声を背に受けながら、会議室を退出した。
騎士団長と財務大臣も後に続く。
さらに、列席していた四人の大臣が席を立った。
会議室に残ったのは、国王一家と、王家の機嫌を取ることで地位を得た者たちだけだった。
彼らは誰も、四十八万金貨を用意する方法を知らなかった。
それでもオスカーは、自分なら何とかできると信じていた。
なぜなら彼は、王太子だったからだ。
その日の午後。
オスカーはリディアが滞在している帝国大使館を訪れた。
昨日までなら門番は彼を見ると即座に門を開けていた。
しかし今日は、槍を交差させて道を塞いだ。
「お通しできません」
「私が誰か分からないのか!」
「オスカー元王太子殿下でございますね」
「元ではない!」
「昨日、王位継承権の剥奪が決議されました」
「あれは無効だ!」
「正式な決議書を確認しております」
「私はリディアに会いに来たのだ!」
「リディア様に面会のご予定はございません」
「婚約者が会いに来たと伝えろ!」
「元婚約者でしょう」
門番の訂正に、オスカーのこめかみが引きつった。
「とにかく取り次げ!」
「ご用件をお聞きいたします」
「婚約破棄を取り消しに来た」
「承知いたしました」
門番は隣に立つ書記官へ振り返った。
書記官は手元の書類を確認すると、淡々と回答した。
「リディア様から、婚約関係についての交渉には一切応じないよう命じられております」
「私が来ると分かっていたのか?」
「はい」
「なぜだ」
門番と書記官が、無言でオスカーを見た。
なぜ分からないのか、と言いたげな顔だった。
「まだ婚約破棄から一日しか経っていないのだぞ!」
オスカーは門を揺さぶった。
「二年間も婚約していたのだ。一度の失敗で、すべてを終わらせるなど許されない!」
静かな足音が聞こえた。
大使館の庭を横切り、リディアが門へ近づいてくる。
その隣には妹のアリシアがいた。
「お下がりください」
リディアが門番へ告げる。
「ですが」
「鉄柵越しであれば問題ございません」
門番たちが左右へ下がる。
オスカーの顔が明るくなった。
「やはり来てくれたのだな、リディア!」
「ごきげんよう、オスカー様」
「昨日のことを謝りに来た」
そう言いながら、オスカーは頭を下げなかった。
「婚約破棄を取り消そう。君も少し言いすぎたが、今回は特別に許す」
アリシアが剣の柄へ手をかけた。
「姉様。あれを一発殴っても外交問題にはならないかしら」
「なります」
「残念だわ」
リディアは妹をなだめてから、オスカーへ問いかけた。
「わたくしが何を言いすぎたのでしょう」
「王家の不正を大勢の前で暴いただろう」
「事実を報告しただけです」
「王家の体面に配慮すべきだった!」
「被害を受けた国民より、王家の体面が重要だと?」
「そういう意味ではない!」
「では、どのような意味でしょう」
「君はいつもそうだ!」
オスカーは鉄柵を握りしめた。
「言葉尻を捉え、私を悪者にする!」
「発言の意味を尋ねただけです」
「とにかく、婚約破棄は撤回する」
「お断りいたします」
「四十八万金貨も返さない」
「それと婚約は関係ございません」
「婚約が戻れば、援助契約も戻るだろう!」
「戻りません」
オスカーの動きが止まった。
「何?」
「仮に婚約を結び直したとしても、一度発生した返還義務は消滅いたしません」
「そんな話は聞いていない!」
「契約書に記載されております」
「私は読んでいない!」
「それは、わたくしの責任ではございません」
「婚約者なら、説明すべきだっただろう!」
「契約締結時に三度ご説明いたしました」
リディアは数えるように指を立てた。
「一度目は王宮の会議室。二度目は婚約披露宴の翌日。三度目は最初の援助金を送る前です」
オスカーの表情が固まる。
「覚えておりませんか?」
「細かい話は、君へ任せると言ったはずだ」
「ええ。ですから、わたくしが正しく処理いたしました」
「正しく処理した結果が、王宮の差し押さえだというのか!」
「使い込んだ金額を返していただくだけです」
「金なら、君は十分に持っているではないか!」
リディアは、しばらく彼を見つめた。
「その考えが、すべての原因なのですね」
「何がだ」
「わたくしが多く持っているなら、殿下が勝手に使っても構わない。わたくしが有能なら、殿下は働かなくても構わない。わたくしが殿下を支えてきたなら、これからも何をされても支え続ける」
「婚約者なら当然だろう!」
「では、殿下はわたくしへ何をしてくださいましたか?」
オスカーの口が止まった。
「わたくしの仕事を手伝ってくださいましたか?」
「私は王太子として忙しかった」
「わたくしの意見を尊重してくださいましたか?」
「それは内容による!」
「わたくしの名誉を守ってくださいましたか?」
「君がフローラをいじめなければ!」
「その証拠は、どちらに?」
返事はなかった。
「わたくしの財産を守ってくださいましたか?」
「夫婦になれば共有のものだ!」
「まだ結婚しておりません」
「いずれ結婚する予定だった!」
「ご自分で破棄なさいました」
一つずつ逃げ道を塞がれ、オスカーの顔が赤く染まる。
「もうよい! 私は謝りに来たのだぞ!」
「まだ一度も謝っておられません」
「先ほど、謝ると言った!」
「謝りに来た、とおっしゃっただけです」
「同じことだ!」
「では、具体的に何を悪かったとお考えですか?」
オスカーは黙った。
リディアは待った。
十秒。
二十秒。
一分が過ぎても、彼は答えられなかった。
「フローラに惑わされたことだ」
ようやく出たのは、自分の責任を認めない言葉だった。
「やはり、お話しすることはございません」
リディアは背を向けた。
「待て!」
「請求に関する交渉は、代理人を通してください」
「私を見捨てるのか!」
「昨日、わたくしを捨てたのはあなたです」
「違う! あれは君の愛情を確かめるためだった!」
その言葉に、リディアの足が止まった。
オスカーは希望を見いだしたように続ける。
「君が泣いてすがれば、私は許すつもりだった。だから本当に別れるつもりはなかったのだ!」
リディアは、ゆっくり振り返った。
「わたくしを大勢の前で辱め、身に覚えのない罪を着せ、財産を奪おうとなさったのが、愛情を確かめるため?」
「そうだ!」
「では、わたくしも殿下の誠意を確かめることにいたします」
オスカーの顔が明るくなる。
「何をすればよい?」
「四十八万金貨をご返済ください」
その顔が再び凍りつく。
「それは無理だ!」
「返済できれば、殿下がご自分の行いへ責任を負う意思をお持ちだと分かります」
「ほかの方法にしろ!」
「では、使い込んだ援助金の全容を国民の前で説明し、王家の財産を自主的に返還してください」
「王家の恥をさらせと言うのか!」
「誠意をお示しになるのでしょう?」
「謝罪の言葉だけでは駄目なのか!」
リディアは小さく首を横に振った。
「行動の伴わない謝罪は、許してほしいという要求でしかございません」
それは、かつてセレスティアがレオナルドへ告げた言葉とよく似ていた。
「わたくしが求めているのは謝罪ではなく、返済と責任です」
「冷酷な女め!」
「その冷酷な女へ、復縁を求めにいらしたのはどなたでしょう」
アリシアが声を上げて笑った。
オスカーは鉄柵を蹴った。
「後悔するぞ!」
「何をでしょう」
「私を捨てたことをだ! 王妃になれる機会は二度とない!」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「殿下は、まだご自分が捨てる側だとお考えなのですね」
「何?」
「わたくしは王妃の地位を失ったのではありません」
彼女はオスカーをまっすぐ見た。
「国民を見捨てる男性の妻になる未来を、回避したのです」
リディアとアリシアが去る。
オスカーは鉄柵の外から何度もリディアの名を呼んだが、彼女は一度も振り返らなかった。
王家が期限内に四十八万金貨を用意できる可能性は、最初からなかった。
だが彼らは、三十日間を無駄に過ごしたわけではない。
正確には、金を返す以外の方法を探すためだけに使った。
最初に試したのは、新たな借金だった。
王家は国内の商会へ使者を送った。
しかし、どの商会も融資を断った。
返済能力がないばかりか、アルヴェイン家との契約を破った王家を信用する者はいなかった。
次に外国へ援助を求めた。
王家の使者は、リディアと婚約を破棄したのだから、別の国の王女をオスカーへ嫁がせれば持参金が得られると考えた。
ところが、返事はどの国からも同じだった。
『すでに王位継承権を失った方との婚姻に、利点が見当たりません』
オスカーは激怒した。
「私は王になる男だぞ!」
しかし、他国にとって重要なのは彼の自尊心ではなく、公的な地位だった。
貴族議会によって王位継承権を剥奪されたオスカーは、外交上ただの王族にすぎない。
しかも巨額の援助金流用に関わった疑いがある。
そんな男に娘を嫁がせる王家はなかった。
王妃は宝物庫の品を売ることを提案した。
ところが扉を開けてみると、高価な宝石の大半が消えていた。
「なぜ何もないの!」
王妃が宝物庫番を問い詰める。
「王妃殿下が舞踏会の費用へ充てるため、売却をお命じになりました」
「すべてではないでしょう!」
「残っているものの多くは、帝国とアルヴェイン家の援助金で購入されたため、すでに返還対象として封印されております」
「ならば、封印を外しなさい!」
「できません」
「王妃の命令です!」
「財産保全命令は、王国法務院によるものです」
「王妃より法務院が上だと言うのですか!」
「法は、王妃殿下の私物ではございません」
王妃は宝物庫番の頬を打とうとした。
だが、その腕を近衛兵に止められた。
「おやめください」
王妃は信じられない顔で兵士を見た。
以前なら、誰も彼女の行動を止めなかった。
不機嫌になれば侍女を叱り、気に入らない商人を牢へ入れ、欲しいものがあれば国庫から金を出させた。
それが王妃の権利だと思っていた。
しかし、その権力はすでに失われ始めていた。
王家を恐れていた者たちは、王家が金も兵も持たないと知った瞬間、命令に従わなくなった。
「全員、恩知らずです!」
王妃は空になった宝物庫で叫んだ。
「これまで王家が守ってあげたというのに!」
宝物庫番は何も答えなかった。
王家を守ってきたのは兵士と国民である。
王妃が守ったのは、自分の宝石だけだった。
一方、フローラは伯爵家の屋敷へ戻っていた。
彼女はオスカーが王位継承権を失ったと知ると、すぐに関係を切ろうとした。
「わたしは、殿下に脅されていたのです」
父である伯爵へ、涙ながらに訴えた。
「リディア様を悪く言うよう命令されました。逆らえば家を取り潰すと……」
伯爵は無言で娘の話を聞いていた。
そして、机の上へ百二十三通の手紙を置いた。
フローラの顔から涙が消えた。
「これは?」
「お前がオスカー殿下へ送った手紙だ」
「なぜ、お父様が」
「法務院から写しが届けられた」
一番上の手紙には、こう書かれていた。
『リディア様を追い出せば、アルヴェイン家の財産は殿下のものになります。そうなれば、わたしにも離宮を一つくださいませ』
次の手紙。
『婚約破棄の日には白いドレスを着ます。清らかなわたしと、銀色の悪女。きっと皆様も、どちらが殿下にふさわしいか分かりますわ』
さらに次。
『王妃になりましたら、貧しい者へ特別税を課しましょう。持っていない者から少しずつ集めれば、宮殿を建てられますもの』
伯爵は最後の手紙を読み終えると、娘を見た。
「どこが脅されていたのだ」
「それは、殿下に気に入られるために仕方なく……」
「王家から受け取った宝石を売り、我が家の借金返済へ使ったな」
「家のためです!」
「その借金を作ったのは誰だ」
フローラは黙った。
伯爵家は裕福ではなかったが、破産寸前でもなかった。
フローラが王都で流行のドレスや宝石を買いあさり、王太子の寵愛を受けていると誇示するために宴会を繰り返した。
その費用によって、借金が膨らんだのだ。
「お前は、家のために宝石を売ったのではない」
伯爵は冷たく告げた。
「自分が作った借金を隠しただけだ」
「娘を見捨てるのですか!」
「すでに法務院から出頭命令が届いている」
「守ってください、お父様!」
「我が家に残された領民と使用人を守らねばならん」
伯爵は呼び鈴を鳴らした。
入ってきたのは、伯爵家の騎士たちだった。
「フローラを法務院へ連れていけ」
「嫌です!」
フローラは父の机へすがった。
「わたしが罪人になれば、伯爵家の名誉も傷つくのですよ!」
「だから何だ」
伯爵の声には、疲れだけが残っていた。
「家の名誉を守るために、お前の罪を隠せと?」
「家族なら当然でしょう!」
「お前は何度も、家族へ借金を隠した」
「それは……」
「我が家の使用人の給与まで使い込み、王太子から金を受け取れば返せると考えた」
「王太子妃になれば、すべて返せました!」
「なれなかったではないか」
その一言が、フローラの胸を容赦なく刺した。
「違います」
フローラは首を振った。
「まだ終わっていません。殿下は必ず王位へ戻ります。そうすれば、わたしは王妃に……」
「オスカー殿下は昨日、法務院へ提出した証言書で、お前に惑わされたと主張している」
フローラの動きが止まった。
「え?」
「すべてはお前の計画で、自分は被害者だそうだ」
「そんな……」
「お前が王家の財産を狙い、リディア嬢への婚約破棄を進言したと」
「嘘よ!」
「お前も先ほど、脅されたと言っていたな」
フローラは何も言えなくなった。
昨日まで真実の愛を誇っていた二人は、罪を軽くするために相手を売った。
驚くほど似た言い分で。
「お似合いの二人だったな」
伯爵の言葉を最後に、フローラは騎士たちに連れていかれた。
期限まで、残り十日。
王宮では使用人たちが次々に退職した。
半年分の給与が支払われていなかったためだ。
料理人が減り、食事は質素になった。
庭師が去り、美しかった庭園は荒れ始めた。
馬丁がいなくなり、王家の馬車は動かなくなった。
王妃は毎日のように不満を口にした。
「なぜスープに肉が入っていないの!」
「予算がないからでございます」
「庭の花が枯れているわ!」
「庭師が退職いたしました」
「新しく雇いなさい!」
「給与を支払えません」
「わたくしのドレスにしわがある!」
「侍女は全員、昨日辞職いたしました」
「では、あなたが直しなさい!」
そう命じられた財務官は、王妃へ辞表を渡した。
国王は毎日、かつての家臣たちへ手紙を書いた。
王家への忠誠を思い出せ。
金を貸せ。
兵を集めよ。
しかし、返事はほとんど届かなかった。
返ってきた数少ない手紙にも、同じことが書かれていた。
『まずは国民へ謝罪し、使い込んだ金をご返済ください』
期限まで、残り三日。
ついに国王は、リディアとの面会を申し込んだ。
指定された場所は王宮ではなく、王都の法務院だった。
いつもなら国王が現れれば、全員が立ち上がって礼をする。
だが法務院で彼を迎えた者たちは、形式的に頭を下げるだけだった。
会議室には、リディアとセレスティア、ユリウス、帝国大使、王国法務長官が座っている。
「国王陛下」
リディアが挨拶する。
「本日のご用件をお聞きいたします」
国王は椅子へ座ると、開口一番に告げた。
「四十八万金貨は返せない」
「存じております」
「ならば、返還期限を延長せよ」
「理由は?」
「国庫に金がないからだ」
「それは延長の理由になりません」
「国が滅びてもよいのか!」
「民への支援は継続しております」
「王家が滅びれば、国も滅びる!」
リディアは机の上へ一冊の報告書を置いた。
「王家への補助を停止してから二十七日。地方へ送られる食料の量は二割増加しました」
「何?」
「援助金を王家へ預けず、救済組織へ直接届ける方式に変更したためです」
次の報告書が置かれる。
「兵士の給与も、帝国から各部隊へ直接支給しております。遅配は解消されました」
さらに一冊。
「閉鎖された診療所のうち、十二か所が再開しました。王立学院も運営を継続しております」
国王の顔が引きつった。
王家へ金を渡さなくても、国は滅びなかった。
それどころか、国民の暮らしは改善している。
「つまり」
リディアは静かに告げた。
「王家がなくなって困るのは、現在のところ王家だけです」
法務長官が口元を手で覆った。
笑いをこらえたのかもしれない。
国王が卓をたたく。
「無礼だぞ!」
「事実を申し上げております」
「我々がどれほど長く、この国を治めてきたと思っている!」
「三百十二年です」
「そうだ!」
「三百十二年も統治しながら、外国の一公爵家から援助を受けなければ立ち行かない状態になさったのですね」
国王は言葉を失った。
セレスティアが娘を横目で見る。
その表情は穏やかだったが、青い瞳には誇らしさが浮かんでいた。
国王はセレスティアへ向き直った。
「あなたからも、娘へ言ってくれ」
「何をでしょう」
「王家への敬意を持つようにと!」
「リディアは十分、敬意を払っております」
「どこがだ!」
「声を荒らげず、事実を述べ、契約に基づいて交渉しています」
セレスティアは微笑んだ。
「わたくしより、ずっと穏やかですわ」
国王は顔を青くした。
かつて一つの王家を終わらせた女性が、自分より穏やかだと言うのだ。
それが慰めになるはずもない。
「では、何をすればよい」
「王家所有の財産を自主的に返還してください」
リディアが答えた。
「王宮、離宮、鉱山、船舶、宝物、商会株式。査定額は合計三十七万金貨です」
「足りないではないか!」
「残り十一万金貨については、今後の年金から分割で返済していただきます」
国王が目を見開いた。
「年金?」
「退位後の生活保障費です」
「退位しろというのか!」
「すでに統治権は停止されております」
「私は退位を認めていない!」
「国王には、国を守る責任がございます」
「当然だ!」
「ですが陛下は、国民の医療費と兵士の給与を宝石や舞踏会へ流用されました」
「私は知らなかった!」
「知らなかったことは免責になりません。陛下の承認印がございます」
「大臣が勝手に押したのだ!」
元財務大臣が提出した記録には、国王自身の筆跡による指示書が残っていた。
リディアはその写しを国王へ示す。
『不足分は援助金から出せ。診療所の予算は来年へ回せばよい』
国王の手が震えた。
「昔のことだ」
「三月前です」
「覚えていない!」
「国民二十三名の命を失う原因となった命令を?」
「私が殺したわけではない!」
リディアの目から、最後の温かさが消えた。
「その言葉を、亡くなった方のご家族の前でおっしゃれますか?」
国王は答えなかった。
「陛下には三つの選択肢がございます」
リディアは三枚の書類を並べた。
「一つ目。王家の財産を自主的に返還し、退位する。その場合、残債は年金から分割で返済していただきます」
一枚目。
「二つ目。返還を拒む。その場合、期限満了と同時に担保を差し押さえます。法務院は援助金流用について、陛下と王妃殿下を起訴します」
二枚目。
「三つ目。王家の私有財産をすべて公開競売へかけ、四十八万金貨の全額返済を目指す。ただし不足額については、やはり分割返済です」
三枚目。
国王は書類を見比べた。
「どれを選んでも、王位を失うではないか」
「はい」
「選択肢になっていない!」
「退位そのものは、昨日の貴族議会で確定しております」
「ならば、これは何を選ばせるためのものだ!」
リディアは静かに答えた。
「最後に、ご自分の責任を認めるかどうかです」
国王は拳を握った。
「私は王だぞ」
「期限まで、あと三日です」
「王なのだ!」
「その言葉だけで金貨が生まれるのでしたら、財政問題は簡単だったでしょうね」
国王は椅子から立ち上がった。
三枚の書類を握りつぶし、床へ投げ捨てる。
「認めん! 王家の財産は、すべて私のものだ!」
「承知いたしました」
リディアは予備の書類を閉じた。
「では二つ目を選ばれたものとして、手続きを進めます」
「待て。今のは選んだという意味ではない!」
「返還を拒否なさいましたので」
「交渉中だ!」
「選択肢は提示いたしました」
「考える時間を寄こせ!」
「期限まで三日ございます」
国王は荒い息を吐いた。
「冷酷な娘だ」
「返還期限を契約どおり三十日設けております」
「セレスティアの娘だな」
「最高の褒め言葉です」
リディアの返答に、セレスティアが満足そうに微笑んだ。
三日後。
四十八万金貨の返還期限が訪れた。
王家から支払われたのは、七千二百金貨だけだった。
それも王宮に残された銀食器や装飾品を売り、ようやく集めた金だった。
正午の鐘と同時に、差し押さえが実行された。
法務官たちが王宮へ入り、財産目録を作成する。
王家の旗が下ろされ、門には法務院の封印が貼られた。
王妃は自室の扉へしがみついた。
「ここは、わたくしの部屋です!」
「王宮は担保として差し押さえられました」
「衣装だけでも持っていきます!」
「王家の予算と援助金で購入されたものは、返還対象です」
「では、何を着ればよいの!」
「私費で購入された衣類をお持ちください」
侍女が差し出したのは、地味なドレス三着だけだった。
王妃はその場へ座り込んだ。
「こんな服、着たことがありません!」
「本日からお召しになれます」
法務官は淡々と告げた。
国王は謁見室で抵抗した。
玉座へ座り、剣を抜いたのである。
「私はここを動かん!」
しかし、その剣は儀礼用だった。
刃すらついていない。
騎士団長は国王の手から簡単に取り上げた。
「陛下。お立ちください」
「私へ命令するな!」
「王宮からの退去命令が出ております」
「誰の命令だ!」
「法務院と貴族議会です」
「私が任命した者たちではないか!」
「国を治める責任を果たせると信じ、任命されました」
騎士団長はかつての主を見た。
「ですから、責任を果たしております」
国王と王妃は王宮を退去させられた。
住まいとして与えられたのは、王都北部の小さな官舎だった。
豪華な寝室も、大広間も、何十人もの使用人もいない。
食事、洗濯、掃除は自分たちで行わなければならなかった。
初日の夜、王妃は暖炉へ火をつけることができず、国王を責めた。
国王も方法を知らなかった。
二人は寒い部屋で、互いに責任を押しつけ合った。
翌朝、国王は食事が用意されていないことに怒った。
「使用人はどこだ!」
管理人は平然と答えた。
「使用人を雇うのでしたら、ご自身の年金から給与をお支払いください」
「私は料理などしたことがない!」
「市場でパンをお買いになってはいかがですか」
「買いに行け!」
「わたしは官舎の管理人であり、陛下の使用人ではございません」
「陛下と呼べ!」
「ああ、失礼いたしました」
管理人は頭を下げた。
「元陛下」
国王の怒声が官舎中に響いた。
そのころ、オスカーとフローラの裁判も始まっていた。
二人は隣り合う被告席へ立たされたが、一度も互いを見ようとしなかった。
最初に証言したのはオスカーだった。
「婚約破棄はフローラにそそのかされました」
傍聴席へ向け、深刻そうな顔を作る。
「あの女はリディアが恐ろしい悪女だと、毎日のように私へ吹き込んだのです。純粋だった私は、信じてしまいました」
フローラが立ち上がった。
「誰が純粋ですって!」
「静粛に」
裁判長が木槌を鳴らす。
フローラは座らされたが、オスカーをにらみ続けた。
「援助金の流用については?」
裁判長が尋ねる。
「私は知りませんでした」
「あなたの署名がございます」
「読まずに署名しました」
「支出先には、あなた自身の旅行費や贈答品が含まれています」
「王太子として必要な支出だと思っていました」
「王太子が伯爵令嬢と観劇する費用が、飢饉対策より重要だと?」
「息抜きは必要です!」
「年間百二十七回も?」
傍聴席がざわめいた。
オスカーは顔を赤くした。
「フローラが行きたいと言ったのです!」
ついにフローラが我慢できなくなった。
「殿下が誘ったのでしょう!」
「お前が新しい演目を見たいと言った!」
「殿下が二人で出かければ、リディア様が嫉妬すると!」
「言っていない!」
「手紙が残っています!」
フローラは自分の弁護士から手紙の束を奪い、一枚を掲げた。
「『リディアに私の大切さを分からせるため、今夜も劇場へ行こう』と書いてあるでしょう!」
裁判長は手紙を証拠として受け取った。
オスカーは青ざめた。
「なぜ持っている!」
「殿下からの愛の手紙ですもの。全部、取ってあります!」
「燃やしておけ!」
「あなたが無実だと言い張るとは思わなかったのよ!」
「裏切り者!」
「最初にわたしへ責任を押しつけたのは、そちらでしょう!」
裁判長が何度木槌を鳴らしても、二人の罵り合いは止まらなかった。
やがて騎士たちが間へ入り、二人を引き離す。
その日の裁判だけで、オスカーが書いた手紙七十四通と、フローラが書いた手紙百二十三通が証拠として採用された。
互いを陥れるために提出した資料によって、二人の共謀が完全に証明されたのである。
判決の日。
オスカーには王位継承権の永久剥奪、王族特権の停止、援助金不正流用の返済義務が言い渡された。
フローラには爵位継承権の剥奪、詐欺および公金流用への加担による返済義務が科せられた。
二人は王都南部の復興事業所で働き、給与の大半を返済へ充てることになった。
「私は元王太子だぞ!」
オスカーは叫んだ。
「その点は判決文にも記載されております」
裁判長が答える。
「未来の王ではなく、元王太子として」
傍聴席から失笑が漏れた。
「リディアを呼べ!」
「リディア様にお越しいただく必要はございません」
「私にこのような判決が出たのだぞ! 本人が聞くべきだ!」
「関係者には、判決書の写しが送られます」
「私を見捨てるつもりか!」
裁判長は不思議そうにオスカーを見た。
「婚約はあなたが破棄なさったのでしょう」
「それはもう取り消した!」
「リディア様は受諾しておりません」
「一度は私を愛していたのだ!」
「裁判とは関係ございません」
オスカーは衛兵に連れられながら、何度もリディアの名を叫んだ。
しかし彼女は、法廷にすら来ていなかった。
同じ日。
リディアは王都から遠く離れた北部の診療所を訪れていた。
援助金不足によって一度閉鎖され、現在は再開したばかりの施設だった。
「足りないものはございますか?」
リディアが尋ねると、年老いた医師は申し訳なさそうに答えた。
「薬も人手も足りません。ですが、以前に比べればずっと良くなりました」
リディアは施設内を見て回った。
ベッドは古く、壁にはひびが入っている。
それでも治療を待つ患者たちの表情には、わずかな希望があった。
廊下の端で、一人の少年がリディアを見ていた。
「どうなさいました?」
「お姉さんが、悪役令嬢なの?」
医師が慌てた。
「こら、失礼だぞ!」
「構いません」
リディアは少年の前へしゃがんだ。
「誰から聞いたのですか?」
「王都から来た商人。王様に逆らって、お城を取り上げたって」
「そうですね。おおむね間違っておりません」
「悪い人なの?」
リディアは少し考えた。
「あなたは、どう思いますか?」
少年は診療所を見回した。
「お姉さんがお金を出して、ここを開けてくれたんでしょう?」
「大勢の方が協力してくださいました」
「じゃあ、悪い人じゃない」
「なぜ?」
「ぼくのお母さんを助けてくれたから」
少年は診察室のほうを指さした。
彼の母親は病に倒れたが、再開した診療所で治療を受け、回復しつつあるという。
「でも、王様にとっては悪い人なんでしょう?」
少年の問いに、リディアは微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
「みんなにとって良い人になるのは、無理なの?」
「ええ」
リディアは静かに答えた。
「誰かを守るためには、その誰かを苦しめていた人から嫌われることもございます」
「嫌われても、平気?」
「少しは悲しいですよ」
リディアは、オスカーと国の未来を語った日々を思い出した。
初めから憎んでいたわけではない。
だからこそ、彼が自分の選択によって変わっていく姿を見るのはつらかった。
けれど、かつての優しさを理由に、現在の過ちへ目をつぶることはできない。
「ですが、嫌われることを恐れて何もしなければ、守れないものもあります」
少年は難しそうに考えた。
「それが、悪役令嬢なの?」
「わたくしの家では、そのように呼んでおります」
「変なの」
「わたくしも、そう思います」
二人は顔を見合わせ、笑った。
それから半年。
ルクシア王国では、新しい統治体制が発足した。
王家の一族から後継者を立てる案も出たが、貴族議会と地方代表はこれを否決した。
血筋だけを理由に新しい王を選べば、同じ過ちを繰り返す可能性がある。
そこで、国王の権限を大幅に制限し、議会と地方代表が政策を決める仕組みが整えられた。
ただし、リディアは王位にも最高権力者の地位にも就かなかった。
「リディア様が女王になられてはいかがでしょう」
法務長官から提案された際も、彼女は首を横に振った。
「わたくしは帝国の公爵家に属する者です。他国の王位へ就けば、新たな対立を招きます」
「ですが、この国にはあなたが必要です」
「必要なのは、わたくしがいなくても正しく動く仕組みです」
母が宰相を退く日に語った言葉だった。
一人の有能者にすべてを依存すれば、その者が去った瞬間に国が揺らぐ。
リディアは期限を三年と定め、ルクシア王国の財政顧問へ就任した。
役割は国を支配することではない。
新たな制度を整え、それを動かす人々を育てることだった。
各地の税収と支出が公開された。
援助金は王家を通さず、地方へ直接届けられた。
学校、診療所、国境警備隊への予算が優先された。
身分ではなく試験によって官僚を選ぶ制度も始まった。
王家から差し押さえた王宮は、行政庁舎と国立学院へ改装された。
王妃の舞踏会に使われていた大広間では、地方の代表者たちが国の政策について議論した。
オスカーの私室は、学生たちが使う自習室となった。
王妃の宝石は競売にかけられた。
その売却益は、閉鎖されていた診療所の再建へ充てられた。
かつて王妃が胸元を飾るためだけに購入した首飾り一つで、三つの村に新しい診療所が建った。
「宝石より、ずっと美しい使い方ですね」
完成した診療所を見ながら、リディアが言う。
隣に立つセレスティアがうなずいた。
「あなたは、わたくしより穏やかに国を変えました」
「王国を滅ぼしておりませんものね」
「わたくしも滅ぼしたつもりはございません」
「存じております」
「ですが、歴史書にはそのように書かれているそうです」
「次の改訂で直させますか?」
「いいえ」
セレスティアは楽しそうに笑った。
「そのほうが悪役令嬢らしくて、格好よいでしょう?」
リディアも笑った。
母と娘が並んで歩いていると、遠くから馬で駆けてくる者が見えた。
帝国騎士団の制服。
黒い髪。
アリシアだった。
彼女は二人の前で馬を止めると、分厚い封書を差し出した。
「姉様。帝国からです」
「何でしょう?」
「皇帝陛下から新しい任務の依頼よ」
「この国の改革も、まだ途中なのですが」
「それを見越して、三年後からでよいそうです」
リディアは封書を開いた。
海の向こうにある小国で、王位継承を巡る争いが起きている。
国を混乱させず、正当な後継者を選ぶため、制度作りを手伝ってほしいという内容だった。
「忙しくなりそうですね」
リディアがつぶやく。
「断ってもよいのですよ」
セレスティアが言った。
「あなたがすべてを背負う必要はございません」
「分かっております」
リディアは手紙を閉じた。
「ですから、まずはこの国で後継者を育てます」
「それから?」
「三年後のわたくしが、それでも海の向こうへ行きたいと思っていたら、お引き受けします」
セレスティアは満足そうに頷いた。
「良い答えです」
アリシアが姉の肩へ腕を回す。
「そのときは、わたしも同行するわ」
「護衛として?」
「妹として。それと、姉様がまた駄目な王子に婚約を申し込まれないよう見張るため」
「必要ありません」
「歴史は繰り返すのでしょう?」
「同じ失敗は、二度といたしません」
「本当に?」
「同じ種類の求婚者から申し込まれた場合、契約書を読む前にお断りします」
「そこは契約書を読むのね」
三人の笑い声が、春の風に乗って広がった。
その頃、王都南部の復興事業所では、オスカーが石を運ばされていた。
王家の浪費によって修繕できなかった橋を、自分の手で直すためである。
もちろん、まともに働いたことのない彼には重労働だった。
「なぜ私が、このようなことを!」
「返済義務があるからです」
監督官が答える。
「重すぎる!」
「民は毎日、同じ重さの石を運んでおります」
「私は王太子だったのだぞ!」
「昨日も聞きました」
「ならば、少しは敬意を払え!」
「敬意は過去の身分ではなく、現在の行動によって得るものです」
オスカーは石を放り出した。
「休憩する!」
「十分前に休憩したばかりです」
「私には特別な配慮が必要だ!」
「では、本日の給与を減らします」
「待て! 返済額が減らないではないか!」
「働かなければ、返済できません」
少し離れた場所では、フローラが作業員たちの食事を配っていた。
彼女は一人分のパンを隠そうとして、すぐに見つかった。
「違うのです!」
監督官へ連れてこられたフローラは涙を浮かべる。
「数を間違えただけで……」
「パンをドレスの内側へ入れたのも間違いですか?」
「お腹がすいていたのです!」
「皆、同じ量を支給されています」
「わたしには足りません!」
「追加分が欲しいなら、追加の仕事をしてください」
「力仕事は苦手です!」
「帳簿の整理もございます」
「数字も苦手です!」
「では、何ができますか?」
フローラは口を閉じた。
以前なら、泣けば誰かが助けてくれた。
可哀想だと言い、欲しいものを与え、面倒な仕事を代わってくれた。
しかし、ここでは誰も彼女の涙を特別扱いしなかった。
泣いていても、仕事は減らない。
食事は増えない。
罪も消えない。
「リディア様を呼んでください」
フローラは言った。
「あの方なら、わたしを助けてくださいます」
「なぜ、そう思うのです?」
「わたしは悪かったと反省しています!」
「具体的に何を?」
フローラの口が止まる。
「殿下を信じたことです」
近くで聞いていたオスカーが怒鳴った。
「また私のせいにするのか!」
「あなたが婚約破棄なんてしなければ、こうはならなかったでしょう!」
「計画を提案したのはお前だ!」
「実行したのはあなたでしょう!」
「金目当てで近づいたくせに!」
「王太子でなくなったあなたに何が残っているのよ!」
二人は作業場の中央で言い争いを始めた。
監督官は深いため息をついた。
「口論している時間は、労働時間から差し引きます」
二人の声が同時に止まった。
「それは困る!」
「返済が終わらないわ!」
「でしたら、働いてください」
二人は不満を漏らしながら、それぞれの作業へ戻った。
返済には、数十年かかると試算されている。
それでも二人は、自分たちがなぜこうなったのかを理解していなかった。
オスカーはフローラが悪いと言い、フローラはオスカーが無能だったと言う。
王家がもっと金を持っていれば。
リディアが素直に財産を差し出していれば。
セレスティアが母親として娘を説得していれば。
国民が王家へ忠誠を尽くしていれば。
誰かが助けてくれていれば。
二人の言葉には、必ず自分以外の誰かが登場した。
自分が選び、自分が署名し、自分が使ったという事実だけは、決して口にしなかった。
三年後。
リディアは予定どおり、ルクシア王国の財政顧問を退任した。
新しい議会は安定し、地方の代表者たちは自分たちで予算を決められるようになっていた。
診療所は以前の二倍に増え、学院には身分を問わず多くの学生が通っている。
国境警備隊の給与も、一度も遅れなくなった。
退任の日。
かつて王族へ拍手を送るために使われた大広間は、リディアを見送る人々で埋め尽くされていた。
しかし壇上に立った彼女は、功績を自分一人のものとして語らなかった。
「この国を立て直したのは、わたくしではございません」
議場が静まる。
「不正を記録した官僚。真実を証言した使用人。給与が遅れても国境を守った兵士。新しい制度を学んだ地方代表。そして、重い税に耐えながら家族を守り続けた国民の皆様です」
リディアは会場を見渡した。
「わたくしがしたのは、奪われていた金と権利を、皆様のもとへ返すお手伝いだけです」
最前列に座っていた年老いた法務長官が立ち上がった。
次に、地方代表。
学院の教師。
診療所の医師。
商人。
兵士。
最後には、会場にいた全員が立ち上がった。
拍手が大広間を満たす。
その音を聞きながら、リディアは母の物語を思い出していた。
セレスティアもまた、自分を断罪しようとした者たちの前で拍手を送られた。
けれど、リディアがいま受け取っている拍手は、誰かの破滅を喜ぶためのものではない。
この国が新しい一歩を踏み出したことを祝うものだった。
リディアは深く一礼した。
議場を出ると、セレスティアとユリウス、アリシアが待っていた。
「お疲れさまでした」
ユリウスが娘へ声をかける。
「お父様も、長い間ありがとうございました」
「わたしは契約書を確認しただけです」
「三千七百二十二枚も?」
「父親とは、そのくらい娘を心配するものです」
アリシアが姉へ封書を差し出す。
「海の向こうの国から、正式な招待状よ」
リディアは手紙を受け取った。
「三年前の依頼ですね」
「行くの?」
リディアは窓の外を見る。
新しく整備された王都の通りを、多くの人々が行き交っている。
誰も彼女の指示を待ってはいない。
自分たちで考え、自分たちで国を動かしている。
この国での役目は、本当に終わったのだ。
「参りましょう」
リディアは答えた。
「今度はどのような王家でしょうね」
アリシアが楽しそうに笑う。
「婚約破棄をなさる王子がいないことを祈ります」
ユリウスが言った。
「いらしたとしても、問題ございません」
リディアは母を見る。
セレスティアも、同じ色の瞳で娘を見返していた。
「請求書の書き方は、十分に学びましたから」
四人は笑いながら歩き出した。
その後、ルクシア王国の歴史書には、リディアの名が大きく記されることになる。
王家を追放した侵略者としてではない。
一人の王になることを拒み、国民が自ら国を治める仕組みを残した改革者として。
一方、オスカーとフローラの名も記された。
歴史上の失敗から何も学ばず、同じ婚約破棄を繰り返した者として。
学校の授業で二人の行いを学んだ子どもたちは、決まって同じ質問をした。
「どうして結末を知っていたのに、同じことをしたのですか?」
教師たちは、少し困った顔で答えた。
「自分だけは失敗しないと思っていたのでしょう」
「どうして?」
「失敗した人は愚かだが、自分は特別だと考えていたからです」
「でも、この王子も愚かだったのでしょう?」
「そのとおりです」
教室には笑い声が広がった。
やがて授業の最後に、教師は黒板へリディアの言葉を書いた。
『身分は仕事ではなく、謝罪は返済ではない』
それは国家を治める者だけに向けられた言葉ではない。
自分の責任を誰かに押しつけそうになったとき、誰もが思い出すべき言葉として、長く語り継がれた。
悪役令嬢セレスティアの娘として生まれたリディア。
彼女は母の名声に頼ることも、その影に隠れることもしなかった。
母から受け継いだ強さを、自分なりの方法で使った。
国を奪わず。
王位を求めず。
民を見捨てず。
自らの人生も犠牲にせず。
かつて、リディアを悪役令嬢と呼んだ王太子がいた。
けれど国民は、彼女を悪役とは呼ばなかった。
国を支えた賢女。
奪われたものを取り戻した改革者。
そして、王家へ史上もっとも高額な請求書を届けた令嬢。
さまざまな呼び名が生まれたが、リディア自身はどれにもこだわらなかった。
彼女にとって大切なのは、誰かに何と呼ばれるかではない。
自分が何を選び、何を守り、どのように生きるかだった。
母の物語は、婚約破棄から始まった。
娘の物語もまた、婚約破棄から始まった。
だが、二人が築いた未来に、愚かな王子たちの居場所はない。
彼らは物語の主人公ではなかった。
自分の価値を理解できず、それを失ってから泣きついただけの脇役にすぎない。
一方、二人の悪役令嬢は、自分たちの足で次の国へ向かっていく。
まだ見ぬ問題を解決し、新しい仕組みを築き、理不尽に苦しむ者へ手を差し伸べるために。
ただし、差し伸べた手を当然と思い、金を使い込み、最後に婚約破棄を宣言するような者が現れたなら。
アルヴェイン家の女性たちは、いつでも穏やかな笑顔で答えるだろう。
「婚約破棄、確かに承りました」
そして、あらかじめ用意していた請求書を差し出すのだ。
真実の愛は自由である。
別れを選ぶことも自由である。
だが、自分の選択によって生じた責任まで消えるわけではない。
その単純な事実を理解できなかった者たちはすべてを失い、それを理解していた二人の悪役令嬢は、誰よりも自由な未来を手に入れた。
母から娘へ。
そして、次の時代へ。
悪役令嬢たちの物語は、まだ始まったばかりだった。




