Fuzzy vacation
八月最後の水曜日、雨が降っていた。カウンターの端で氷が溶ける音がして、土岐は空になったグラスに視線を向けた。オレンジ色の液体を纏った氷に桃の甘い残り香が漂っている。ファジー・ネーブル。土岐は勤務明けの夜には決まってそれを頼んだ。
「バーにきて『オレンジジュース』って注文するようなものだよね。甘くて度数が低くて初心者向け」
「酒に初心者もクソもあるかよ。俺はこれが好きなんだ」
「甘党ってわけでもないのにね、お前」
速水はシェイカーを振る手を止めずに言った。バーカウンターの中で立ち働く彼は妙に渋味がある。ずっとふらふらしていた彼が今度はバーで勤めると聞いた時には、土岐はもっと軽薄な仕事ぶりを想像していたものだが、速水は案外このバーテンダーという職が向いていたようだ。
「仕事終わりにはこの甘さと度数の低さがちょうどいいんだ。制服脱いだ後まで気を張ってたら身が持たない。でも完全に酒で頭をふやけさせたくもない」
「土岐の場合、仕事終わりくらいもっと気を抜いたほうがいいと思うけど」
土岐はそれには答えず、グラスの縁を指でなぞった。これがちょうどいいのだ。八年前からずっと。桃でもなくオレンジでもなく、甘すぎず、酔いもせず。適度に冷えたバーの中で少しずつグラスが汗をかき、飲み終わる頃にはいい時間になっている。
高校の同級生だった二人が卒業後に地元の夏祭りの屋台裏で偶然肩をぶつけて互いに気づいたのが始まりだった。それから毎年、夏になると連絡を取り合い、夏が終わる頃には自然と間遠になる。そんな関係を大学、就職を経てもずっと続けてきた。学生時代はそれこそほとんど話したこともなかったのに不思議なものだ。
速水は「将来のことなんか知らねー」と豪語してフリーター生活を送っていたし、土岐は幼い頃から警官になることを夢見て勉学に励んでいた。ある意味では二人とも思い描いた通りの未来を歩んでいるのだろうかと土岐は思う。
「今年の夏も終わりだねえ」
「……八月の終わりって、べつに夏の終わりじゃないよな」
「いいじゃん。暑いと酒屋が儲かる」
「バーテンがバーのこと酒屋って言うなよ」
呆れたように土岐が呟くと、速水は笑いながら「自分用」と言って冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注いだ。
「大人になっちまうと、夏休みなんてあってないようなもんだよなあ。昔はあんなに八月三十一日が寂しかったのに」
「まあ、区切りが曖昧になるよな。九月一日になるからって何が変わるわけでもない。まして俺らみたいなのは、土日も平日も関係ないから」
軽い口調で言ったつもりだった。だが、土岐が一瞬グラスの中の氷を見つめて黙るのを見て、速水はその沈黙から目を逸らした。
何に気づいても無闇に踏み込まない。それが二人のルールだ。踏み込まなければ、いつでも元の場所に戻れる。
***
その翌週、八月最後の夜に土岐は珍しく手土産を持って店にやってきた。近所の和菓子屋の水羊羹。それを見た瞬間、速水は思わず変な顔をしてしまった。バーへの手土産としては不釣り合いだし、いかにも『挨拶』といった雰囲気で堅苦しい。土岐は昔から、何かを切り出す前には必ず前段を整える男だった。
「なに、重大発表でもあんの」
「異動になった」
案の定だと思いながら速水は水羊羹を受け取った。警官というのは異動が多い職らしく、土岐がこの店に通ってくるようになってからも何度か「なんとか課に行くことになった」だとか「どこそこの署勤務に変わる」だとか聞いたが、こんなふうに改まって事前に知らせてきたのは初めてのことだ。
「左遷? それとも栄転ってやつ?」
「べつにそこまでのことじゃない。単に経験を積む一環だ。県外の署に、十月付けで……もう向こうの部屋も見てきた。単身用のマンションで駅から十二分。悪くない」
土岐は淡々と、まるで天気予報を読み上げるように話した。学生時代から用意周到で備えを怠らない、隙のない男だった。全部決まってから報告されても速水には何も言えない。感情の入り込む隙間を先に埋めてしまわれた気分だった。
「ふーん。お疲れ様ですね」
速水はそれだけ言ってシェイカーに手を伸ばした。いつものファジー・ネーブルを作ろうとしたが、レシピが頭から抜け落ちていることに気づいて手を止めた。
「……何も言わないか」
「なんか言ってほしかった?」
速水はいつもの調子で曖昧に笑ってみせた。何事も勢いでやり過ごすのが速水なりのやり方だった。落ち込む前に次の話題に移ってしまう。深刻になる前に茶化してしまう。それが速水の処世術であり、誰にも本音を渡さずに済んできた盾でもあった。
単身用の部屋ということは、二人になる予定は良くも悪くもないわけだ。速水は水羊羹の包みをカウンターに置いて、和菓子に合いそうなリキュールを吟味することに集中した。
***
九月になって初めて土岐は速水がいる店を訪れた。二時半、他に客のいない店内で速水はグラスを磨いていた。土岐の顔を見ると「お客さん、もう閉店ですよ」と笑った。
「普通さあ、遠くに行くからって挨拶しにきたらもう来ないもんじゃないの? 一週間も経たずに来るのかよ」
「もう来ないほど遠くに行くとしたら水羊羹では済ませない」
「そう言われたらそっか」
土岐がいつものカウンター席に腰を下ろすと、速水はシェイカーを取り出した。ブランデーとコアントローにレモンを絞る。
「速水のそのいかにもバーテンダーっぽい動作、見るの初めてだ」
「お前がいっつも同じ酒ばっかり注文するからだよ」
速水はグラスを差し出しながら少し照れくさそうに言った。
「サイドカー。この酒は、大戦中にパリのバーで飲んでた軍人が急いで戦地に戻らなきゃいけなくなって、その時に作られたのが始まりだって説がある。『バーテン、ホワイトキュラソーをレモンジュースで割ってくれ』ってね」
土岐はグラスを受け取りながら微かに眉を寄せた。
「暗に帰れって言ってるのか?」
「なんでだよ。もっとロマンティックに受け取れよ」
今の話でどうロマンティックに受け取れというのか、飲酒運転になるとつっこめばよかったのだろうかと考え込みながら土岐はショートグラスを呷った。桃の甘さがない分だけいつもより酸味が際立っている。爽やかだが、決して柔らかくはない口当たり。
「サイドカー、ね」
県外への異動のことを伝えた時の無反応を見る限り、速水にとっては何でもないことだと思っていたのに。
土岐がいつもファジー・ネーブルしか頼まなかったのは、自分でもあまり自覚はないが、おそらくは本気になりすぎないための予防線だった。軽い酒で酔いもせずに長居して駄弁り、お互いに曖昧な態度で境界線を守っていた。
今日はもう、速水は逃げ道を作ってくれない。
速水は自分のグラスも用意すると、土岐のグラスにそっと合わせた。硝子の触れ合う小さな音が静かな店内に響いた。
「大人になっちまうと夏休みなんてあってないようなもんだって、この前言ったよな」
「うん。実際、九月になったからって特に変わったことはないよ。店の客層はちょっと変わるけどさ」
学生の頃は九月になってしまえばすぐに新しい日常に埋もれて消えていく日々だった。大人になった今やそれは、ほろ苦い余韻を残していつの間にか終わっている。
「じゃあ、変えよう。はっきりさせよう。長い夏休みは終わりにして……」
頭の中がくらくらと揺れた。水面越しのような視界で速水が「ちょっと待て、そんな弱かったの!?」と慌てる姿が見えたような気がした。
***
酔いが醒めて夜が明けるまでの数時間、二人はカウンターを挟んでいつもより言葉少なに過ごした。変わらない蒸し暑さが店内に満ちている。
空が白み始めた頃、土岐がぽつりと言った。
「急に距離が詰まっても、離れても、どっちでもいいように、心の準備だけはしてたつもりだったんだ。でも、実際は違ったな」
速水は黙って先を促した。
「……車で通うようになったから、飲んだら帰れない」
土岐らしくもあるひどく不器用な言い方に速水は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なら、いっそのこともう一杯飲んじゃえよ。店閉めるし」
土岐は呆れたように息をついたが、拒みはしなかった。長かった曖昧な夏休みが明けようとしている。
「お客さん、ご注文は?」
「ファジー・ネーブル……じゃなくて、サイドカーで」
これからは違う距離で、違う関係で。どんなレシピになるのかは、まだ分からないけれど。




