世界の深淵
――未来を連れたミーツは、研究所の三階、厳重な扉を開いた。真っ暗な部屋の壁を探り、パチンとスイッチを押す。エーテルで活性化した光子が部屋を照らした。
「ここは……ん? み、ミーツ君、壁のアレってまさか……」
部屋を見渡した未来が目を大きくする。白い研究室の壁に取り付けられたシンプルな壁台に、黒い肉片が漂う小瓶がズラリと並んでいる。溶けた目玉、解けた筋繊維、黒い指先、どれも目を背けたくなるようなモノばかりだ。
「はい。見ての通り、全て老魔の一部です。老滅が討伐してくれたモノから採取しました」
「……うっぷ」
鼻と口を押さえる未来。過去に何度か嗅いだ強烈な匂いが、薬品と混ざり襲いかかる。
「やっぱり匂いますよねぇ。僕はもう慣れちゃったんですけど」
「……うん。かなり臭い……けど、大丈夫。教えてほしい」
ミーツは部屋をグルリと一周し、未来に語りかけた。
「ズバリ言います。老魔は、この世界の理に反する生き物です」
「どういう、こと?」
何とか顔から手を離した未来が、言葉の真意を訊ねる。
「ミライさんと同じなんです。彼らの体には、エーテルが存在しない。……あり得ないんです」
自分まであり得ないと断ぜられた未来。しかし、やはりハテナが浮かぶ。
「何があり得ないの? だって、老魔は体内エーテルが減った大人が変化するものだって……」
「確かに体のエーテルは年齢と共に減っていく。ですが完全になくなるはずがない」
「だ、だって、実際にエーテルがなくなってるんでしょ?」
未来が投げかけ、ミーツが答える。
「老魔は元々この世界で生まれた人間。その細胞は、エーテルに対応した細胞のはずです。これでは道理に合いません」
ミーツが何を言いたいのか理解できない。体のエーテルが減る。そしてゼロになると老魔に変貌する。どこに矛盾があるのか、やはり未来は見当も付かない。
「えっと、僕が知りたいのは、何で体内エーテルがなくなると老魔になるかってことなんだけど……そもそもそれがおかしいし、まるで……」
「『呪い』みたい、ですか?」
ミーツに先回りされた。未来は頷くことしかできない。
「それについては自分も同意見です。むしろそうとしか表現できません。――だけど違うんです」
「違うって……」
ミーツが続ける。
「何より問題なのは、エーテルに対応していた人間の細胞が変化する点。ミライさんのように元々対応していなかったのなら辻褄が合います。だけどそうじゃない」
恐らくこれは、リラでさえ辿り着いていない事実。未来もボンヤリと、ミーツが何を言いたいのか分かってきた。
「老魔のエーテルは『減った』んじゃない。『消失』したんです。まるで……」
「まるで?」
「……誰かに、奪われたみたいに」
ミーツの目が、一瞬だけ黄金塔の方向を向いた
「エーテルが、奪われる……?」
未来は頭を殴られたような衝撃を受けた。目の前の天才的な頭脳を持つ少年は、この嘘のような話を確信している。そのあまりに衝撃的な内容は、異様な真実味を帯びていた。
(ちょっと待って。奪われるってなに? じゃあ誰が奪ってるの? オマケにこんな呪いまで……)
出口のない迷路に迷い込む。そしてその答えは、ミーツでさえ知り得なかった。
「誰が、何のために……それは僕にも分かりません。奪われたエーテルがどこに行くのかも、まだ調査と呼べるほど進んでいません。ですが……」
ミーツの手が未来に伸びる。背中にトンと触れ、未来の背中に青い刻印が浮かび上がる。
(何だ? 今一瞬、背中が温かく……)
そう感じたのも束の間――。
「……このことは内密にお願いします。恐らく僕たちは今、世界の深淵に触れています」
ゾッと背筋が凍り付いた。脅しではない。ミーツは未来を真実の共犯者にした。
「……どうして僕なんかに教えてくれたの?」
感謝と恨みを込めた視線でミーツを睨む。ミーツは、「あははー」と気さくな少年に戻っていた。
「ミライさんの話してくれる話、どれも面白いですから。その恩返し、ってことにしといてください」
「はは、とんでもない恩返しだ。だけどありがとう、ミーツ君。君の話もめちゃくちゃ面白かったよ」
「どういたしまして。今度は明るく楽しい話をしたいですね」
話は終わりだとミーツが告げる。これ以上は、彼にも分からないと。
未来は沈んだ気分を無理やり鼓舞し、出来損ないの笑顔でミーツに答えた。
「まったくだ。また面白い話思い出しとくよ。またね、ミーツ君」
「ええ。あ、出口分かります?」
「馬鹿にしてる⁉︎ 今来た道くらい分かるって!」
「ふっふっふっ。抜き打ち記憶力検査でしたー。……あ、そうだ」
背を向けた未来を、ミーツが何か思い出したように止めた。
「自覚ないとは思いますけど、ミライさんちょっと危ないかもですよ。人類の希望だって騒いでる人たちもいるので、変な人に捕まらないように」
ありがたいアドバイスまでもらい、未来は「ありがとうございます、頼りになる天才少年」とその場をあとにした。
「……これは、保険です」
閉めた扉にかけられた、少年の声にも気付かずに――。