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薬師の娘 ビアンカの話③

「では、明日の朝、また店で待っていますね」


 月の光が差し始めたパン屋の前。

 ブリオッシュが入った袋を抱えたドナが、ビアンカに向かって目元を和らげる。

 眼鏡の縁が光を反射し、きらりと光った。


 初めてビアンカがドナの庭に招待されてから、かれこれ半年以上、二人きりの朝食会は続いていた。

 お互い働いているので、ゆっくりと庭で過ごせるのは週に二、三度。

 春に始まった花々が鮮やかな朝食会は、いつの間にか涼やかな夏の朝に変わり、ビアンカは今、木々が色付く秋の庭を堪能していた。


「明日は、お勧めして下さった本から読んでもいいですか?」


「もちろんです。用意しておきますね」


 そう言って、ドナは目を細めてふっと笑う。

 パン屋の前でドナと別れ、それまで穏やかに微笑みを浮かべていたビアンカは、路地を曲がった先の街灯の下で、急に立ち止まり蹲み込んだ。


(あの顔は……反則じゃない?)


 ため息を吐きながら両手で覆ったビアンカの顔は、耳の端から首まで真っ赤に染まっていた。







 ビアンカが自分の恋心に気付いたのは、夏が終わりを迎えた頃だった。


 庭で朝食を食べながら、二人でゆっくり読書をしていたビアンカは、物語の結末で、主人公が幼馴染と結ばれた事に不満を抱いていた。

 正面に座ってカフェオレを飲んでいるドナに、むくれながら早口でそれを熱弁する。


「私は絶対、幼馴染よりも魔法使いの上司の方が良かったと思います! 彼の方が絶対優しいし大人だし、好みも合ってるじゃないですか。最初はただの顔見知りだったのが、お互いを少しずつ知っていく感じも良かったし、知的な感じとか、穏やかだけどたまに笑った顔が、甘い所……と、か……」


 ビアンカはそこまで言って、はた、と気付いた。

 プリプリと怒っている自分を、ゆったりとカフェオレを飲みながら、ドナが目を細めて見つめている。


 薄茶色の優しい瞳がじっと彼女を映し、薄い口端が柔らかく上がっていた。


(あれ……なんだろう。急に恥ずかしくなってきた)


 急に顔に熱が集まり、ビアンカは大人しく口を閉じて座り直した。

 ドナが笑みを僅かに深めて、落ち着いた声で言う。


「……()()()()()()()()()()()()?」


「え!?」


 ビアンカは問われ、何故か大きく動揺した。


「好きなんでしょう? ──その()()()()()()


「え、あ、はい……そう、好き……です。大人で優しくて、たまに見せる笑顔が素敵で──」


 ──ドナさんに似てて。


 不意に頭に浮かんだその言葉に、ビアンカは驚きの声を上げ思わず勢いよく立ち上がってしまった。


「え!!??」


 目を見開くビアンカの顔は、恐らく真っ赤になっていたはずだ。

 

「……どうしました?」


 ゆったりと尋ねてくるドナの瞳が、格段に甘さを孕んで見える。

 ビアンカの突然の挙動にも動じる事なく薄く微笑んでいるドナに、心の内が全て見られているような錯覚を感じ、眩暈がした。


「い……いえ、何でもない、です」


 消え入るような声で答えると、静かに座り直す。

 ビアンカは動揺を抑えるようにカフェオレを一気に流し込み、まだ湯気を立てるブリオッシュを頬張った。


(私、今なんて考えたの? ドナさんに似てて好き? え、好きって、え?)


 困惑したままのビアンカは、その様子をドナが嬉しそうに甘く見つめている事に気付いていなかった。


 





 それからの日々、ビアンカは大変だった。


 ドナとの朝食会の前はどれだけ早く起きても、支度に時間が掛かって待ち合わせギリギリになってしまう。

 服はこれで良いのか、髪は下ろしたほうがいいか、編んだほうがいいか、リップの色はピンクかオレンジか。


「はーーーーー、どうしよう」


 何度も鏡と睨めっこをし、時間があっという間に過ぎてしまう。


 それだけではない。

 書店の近くを通り掛かればソワソワと落ち着きなく視線が彷徨ってしまうし、大好きなパン屋へ行く時は彼に遭遇するかもしれないという緊張で心臓が煩い。

 

 ついには、仕事中に薬を受け取りに来た騎士が薄茶色の瞳だっただけで、ドナを思い出し心がざわついてしまうようになっていた。


 






 季節は冬に差し掛かり、ビアンカは柔らかな毛布に包まりながら、ドナにお勧めされて借りた本を読んでいた。


「……駄目だ」


 パタリと本を閉じ、顔の横で抱きしめた本を恨めしげに見ると、ビアンカは枕に顔を押し付けた。


 ここの所、どの本を読んでいても、登場人物の中にドナに似た人物を見つけてしまう。

 見つけてしまうと言うよりは、ビアンカが無理やりドナに仕立てて想像していると言ってもいい。


 ビアンカだって、これまで恋人がいた事はある。


 だがその誰もが同年齢で、友達の延長のような、爽やかな恋ばかりだった。

 お互いが気持ちを簡単に口にし、笑いながらじゃれ合い、ここまで思考を奪われ、絡めとられるような恋ではなかった。


「ドナさんは……私のこと、どう思ってるのかしら」


 恋を自覚して依頼、ビアンカはドナの前で常にいっぱいいっぱいだった。

 ドナは落ち着いていて、穏やかで、年齢だけでなく、その精神は自分よりも遥かに大人だ。

 

「この庭には、家族以外、ビアンカさんしか招待したことはないですよ」


 さらりとそう言われ、ビアンカは自分が彼にとって特別なような甘い期待で浮かれた。


(もしかしたら、ドナさんも私を好きって思ってくれてるかも……)


 自分の気持ちを自覚してから、ビアンカは比較的すぐに「好き」と伝えようとした事はある。

 恋をしたならすぐに相手に「好き」と伝える。

 相手が受け入れてくれれば恋人になるし、駄目なら諦めてそのまま友達でいるだけだ。


 だが、いざ告白しようとすると、ドナはそれを察してか否か、まるで「まだ駄目だ」とでも言うように、艶を含む甘やかな瞳でビアンカを制した。


「……どうかしましたか?」


 僅かに細めた目でじっと見つめながら、落ち着いた声でそう言われると、ビアンカはぎゅうと心臓を掴まれたような心地になり、何も言えなくなってしまうのだ。


 





 冬も終わりを迎える頃、ビアンカは限界を迎えていた。


 ビアンカの心の中は、常にドナに囚われていた。


 ドナはビアンカだけを、自分の特別な庭に招き入れてくれる。

 好みにぴったりの甘さのカフェオレと温め直したブリオッシュ、それから心躍るお勧めの本、彼女のための膝掛けやふかふかのクッションを用意してくれる。

 穏やかな会話の中でさりげなくビアンカを褒めてくれて、彼女の話を興味深く静かに頷きながら聞いてくれる。

 出会った頃よりビアンカを見つめる瞳は格段に甘く感じるし、神経質そうな見た目のドナがふっと笑うだけで、自分だけに特別な表情を見せているような錯覚に陥った。


 だが、ドナはビアンカが彼に一歩踏み出そうとすると、するりと離れてつれない態度をとる。

 

 心を期待と落胆で揺さぶられ続けたビアンカは、決めた。


(ドナさんに告白しよう。もし駄目なら……もう会うのをやめる。こんな毎日、苦しすぎる)

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