薬師の娘 ビアンカの話②
「こんにちは。……珍しい所でお会いしましたね」
入り口で固まっているビアンカに、カウンターの前に立つ彼──白ヤギさんがいつもの少し神経質そうな表情のまま、静かに声を掛けた。
ビアンカの心臓がドキリと大きく跳ねた。
(え……私の事、気付いてたの?)
パン屋はもちろん、本屋の店先でもビアンカはよく彼を見かける。
ずっと存在を意識してはいたが、まさか彼の方も、同じようにビアンカを認識しているとは思ってもいなかった。
さらには今、初めて直接、白ヤギさんに話し掛けられている。
これが驚かずにいられるだろうか。
ビアンカは緊張で喉を詰まらせながらも、平静を装って何とか挨拶を返した。
「こ……こんにちは。そうですね。……驚きました」
ぎこちなく頷きながら店の奥へ進み、ビアンカはカウンター越しにジャンに薬を手渡した。
視線を向ける事なく、緊張で縮こまっているビアンカを、白ヤギさんは興味深そうに静かに眺めている。
眼鏡屋店主のジャンが、二人の顔を面白そうに交互に見やる。
「何だ、ビアンカ。お前達、知り合いか?」
「え、あ……」
果たして、パン屋でブリオッシュを同じ時間に買うだけの顔見知りを、知り合いというのだろうか、とビアンカは逡巡した。
すると隣に立つ彼は、落ち着いた声でさらりと言った。
「パン屋でよく会うんですよ。ほら、あの幸せの店。私の中では、ビアンカさんは会えたらラッキーな存在なんです。遭遇するかどうかで、勝手に運試ししてるというか」
静かにふっと笑った横顔を見て、ビアンカの心臓は急にドッと鳴った。
いつも気難しそうな顔をしている彼の笑った顔を見たのは、初めてだった。
薬を渡したビアンカは、そのまますぐに店を出た。
用事が終わっていたのか、彼も長い足をゆったりと進め、隣に並ぶ。
同じ方向に向かうらしい。
同じ歩調で歩く彼に、ビアンカは沈黙が居た堪れず緊張しながらも声をかけた。
「あの……私のこと、ご存知だったんですね」
白ヤギさんは僅かに片眉を上げビアンカをちらと見ると、また正面を向いてふっと笑った。
「ああ……そうですね。でもお名前は今知りました。ビアンカさん……とお呼びしてよかったですか?」
「は……はい。えっと──」
「ドナです。ドナ・メルソン。書店を営んでいます」
穏やかな低い声でそう言われ、ビアンカは目を丸くした。
「え? あのお店って、ドナさんのお店なんですか? てっきり、雇われてる方だと……」
「もともと祖父の店だったんですが、人生の終わりが見えてきて、そろそろ荷物になってきたと言うので、私が貰ったんです。あのまま無くなるのも、寂しいなと思いまして。それまでは隣街の骨董店で働いていました」
「そうだったんですか。私は薬師の父の下で、見習いとして働いています。ジャンさんは昔からの知り合いなんです。あの人、結構すぐ怪我するんで、よく来るんですよ。まさか白ヤ……ドナさんにお会いするとは思っていませんでした」
ドナは慌てて言い直すビアンカを見て、また静かに目を細めてふっと笑った。
「確かに、あの人は豪快というか……忙しない人ですからね。私は眼鏡の修理をお願いしていたんです。いつもの眼鏡の弦が曲がってしまって。うっかり本の下敷きにしてしまったんです。分厚めの本を読みながら寝てしまって……寝起きに邪魔だなって脇のテーブルに雑に置いたのが駄目でした。弱いんですよね、朝。なので、今掛けているのは予備の方」
きっちりしていそうなドナの意外な一面に、ビアンカは思わず小さく笑った。
(何だか、思っていたより可愛らしい人だな。年上の男の人を可愛いだなんて、不思議)
会話は自然と穏やかに続き、ビアンカはドナとの会話に、初めて話したとは思えない心地よさを感じていた。
大通りに出た所で、二人はそれぞれ別の方向へ別れ、その日の邂逅は終わった。
再びビアンカがドナと遭遇したのは、あのパン屋だった。
例の如く、仕事が終わり、ご褒美のブリオッシュを買いに来たビアンカが店の扉を潜ると、目当ての棚の前に、眉間に皺を寄せてじっとブリオッシュを見つめているドナがいた。
自然と口端がニマリと上がる。
ビアンカは気配を消してそっとドナの隣に忍び寄った。
「今日は何個ですか?」
すぐ隣で急に話しかけると、案の定、ドナはビクリと肩を揺らし、驚いた表情でビアンカの方を向いた。
ニコニコとしている彼女を見るや、彼は小さくふっと笑った。
「ああ……ビアンカさんか。驚かさないで下さいよ」
「ふふ。ごめんなさい。あんまり真剣な顔をしているから、つい。いつもたくさん買っていますよね? 甘いものがお好きなんですか?」
「甘いものというよりは……。店の裏に、小さな庭があるんですが、朝から少し焼き直して温めたブリオッシュを食べながら、本を読むのが好きなんです。凄く美味しいでしょう? これ」
ドナは話しながら、ツヤツヤと光る丸いブリオッシュを次々籠に入れていく。
彼の話を聞いて、ビアンカは思わず唸っていた。
「うう……なんですか、その凄く羨ましい優雅な食べ方。最高ですね。私はいつも買ってすぐに、一瞬で食べきっちゃうんです。どれだけ買っても、気付いたらなくなってて。明日お休みなので、私も真似して朝食べよう」
二人は各々たくさんのブリオッシュを買い、紙袋を抱えて店を出た。
夜風が少しヒヤリとして気持ちがいい。
それじゃあ、とビアンカが挨拶をして、彼とは別の方向へ歩き出そうとした時、ドナが彼女を引き留めた。
「あの……よければ、一緒に食べませんか?」
「え?」
ビアンカは目を丸くしてドナを見たが、何故か声をかけた彼も、驚いた表情をしていた。
彼女に見つめられ、はっとしたドナは取り繕うような声で言葉を重ねた。
「明日お休みと言っていましたし……朝、大変でなければ、一緒に店の庭で食べるのもいいかな、と」
「いいんですか!?」
どうやら、店内で話していた彼の優雅な朝食の時間に、ビアンカを招待してくれるらしい。
ドナの申し出の意味がわかったビアンカは、パッと瞳を輝かせ、彼にぴょんと大きく一歩近づいた。
「行きます! 絶対行きます!」
その日の夜、ビアンカは買ったブリオッシュを一つも食べなかった。
紙袋を眺めながら、招待された店の庭がどんな所かを想像し、疲れた体とは裏腹に、心は躍っていた。
(楽しみだな……!)
その日の夢には、ドナが出てきた。
緑が揺れる庭で、ゆったりと椅子に座り本を読む彼の、短い燻んだ金髪が柔らかく陽射しを反射し煌めいている。
ビアンカに気付いた彼はゆっくりと立ち上がりこちらに近付くと、低く穏やかな声が耳元でそっと囁いた。
「ビアンカさん……」
ドナは銀縁の眼鏡を外し、甘やかな熱のある瞳でビアンカを見つめながら、そっと大きな手が彼女の頬に触れる。
そのまま親指でゆっくりと唇をなぞられ、そして──。
「うわあああああああああ!!!!」
ビアンカは顔を真っ赤にして布団から跳ね起きた。
(ななな……なんて夢を……!)
それから、邪念を振り払うように大急ぎで支度をしたビアンカは、ブリオッシュの入った紙袋を握り締め、朝日が輝く中、家を飛び出した。




