薬師の娘 ビアンカの話①
アップルパイのエピソードで、アランに頼まれ食堂でアップルパイを渡していた女の子のお話です。
「はあ……まずい……急がなきゃ」
サラリとした金髪を靡かせ、ビアンカは夕暮れの大通りを目的地まで早足で歩いていた。
街の薬師の娘であるビアンカは、父と一緒に薬の調合や配達、騎士団医務室での勤務や、長い付き合いの患者の家を回り薬について相談を受けたりと、毎日激務に追われていた。
この日も朝から晩まで、騎士団の医務室で勤務医に言われた薬を片っ端から調合し続けたビアンカは、働きっぱなしで正直もう体は限界だった。
だが限界の時こそ、自分を労るためのご褒美が必要というもの。
ビアンカは辛い体に鞭打ち、何とかその店に辿り着いた。
「いらっしゃいませ」
カランカラン、という鈴の音をくぐり、甘い小麦の香りがビアンカを包む。
閉店ギリギリに何とか間に合い、ビアンカは少し乱れた髪を整えながら、ほう、と安堵の息を吐いた。
ビアンカが目指していた場所は、街で人気の『パン屋オリビア』。
「頼む! 俺のためにアップルパイ買ってきてくれ!! 今日そっちの方にも行く用事あるんだろ!? どうしても食べたいんだ。禁断症状なんだ!!」
騎士団の食堂に常備している火傷用の応急セットを点検していた時、ビアンカは騎士団員のアランに声を掛けられた。
必死に懇願され、気迫に負けてビアンカがお使いを請け負ったのが一ヶ月前。
ついでに自分用のパンも買ってみたら、美味しくてそのまま常連になってしまった。
(あ! あった!)
ビアンカのお目当ては、ころんと丸い形が可愛らしいブリオッシュ。
元々ビアンカが好きな菓子パンだが、この店のブリオッシュはバターと卵がたっぷりと使われていて、甘味が格別だった。
他の店よりもやや小さめなため、ついつい何個も食べてしまい、何個買い込んでも気付けばなくなっているという至高の一品なのだ。
籠を持ち、棚に並ぶ艶々のブリオッシュの前に向かう。
その甘さを秘めた輝きは、棚いっぱいの宝石を見るよりも、ビアンカの心を弾ませた。
(四個……いや、今日は疲れたから五個くらい買っちゃおうかな)
真剣な顔で棚を見つめながら悩んでいると、ふと隣に人の気配を感じた。
(あ……)
チラリと顔を盗み見る。
隣にいたのは、ビアンカと同じように真剣な顔でじっと考え込んでいる男性。
(……白ヤギさんだわ)
心の中で呟いたビアンカは、すぐに視線を棚に戻したが、意識は目の前のブリオッシュではなく、隣の男性に集中していた。
くすんだ短い金髪に、細めの薄茶色の瞳と薄い唇。
ビアンカより年上であろう彼は、銀縁のメガネをかけ、眉間には気難しそうな皺が刻まれている。
焦茶のジャケットに身を包む、神経質そうな雰囲気のこの細身の男性は、騎士団の裏通りにある『白ヤギ書店』の店員だった。
店の奥でゆったり座って本を読んでいる姿は知れど、名前を知らないビアンカは、彼の事を密かに『白ヤギさん』と呼んでいた。
少し下がった銀縁のメガネの位置を戻すと、睨むようにブリオッシュを見つめていた彼は呟いた。
「──七個、かな」
見た目に反し、とても優しげな柔らかい声にビアンカが驚いたと同時に、男性はひょいひょいとブリオッシュを七つ手元の籠に入れると、足早に会計のカウンターへと向かった。
(……甘いものがお好きなのかしら)
支払いをする後ろ姿をまたチラリと盗み見し、ビアンカは彼と同じく、自分の籠にも七つ、ころんと光るブリオッシュを入れた。
ビアンカがパン屋で彼に遭遇するのは、実はもう五回目だ。
彼はビアンカと同じく、毎回ブリオッシュを買っていく。
ビアンカは男性に密かに親近感を抱き、ブリオッシュ好きの仲間として、出会えたらラッキーな存在として認識していた。
それから二月程過ぎた頃、足を怪我した眼鏡屋の店主のために、ビアンカは薬を届けに行った。
「ジャンさーん、お薬だよー」
眼鏡屋の店主ジャンは、昔からの知り合いだ。
いつものように気楽に店の扉をくぐり中に入ると、ビアンカは目を丸くした。
「おう、ビアンカ。いつもありがとな!」
カウンターの奥で、いつも通りニカっと笑うジャンが片手を挙げて挨拶をしてくる。
だがその傍には、固まるビアンカをじっと見つめ、あの白ヤギさんが立っていた。