鍛冶屋フリオの話
「うるせえ!!文句があるなら他所へ行け!!」
今日もしゃがれた怒鳴り声をあげているのは、『パン屋オリビア』の道向かい、数件先に店を構える鍛冶屋のフリオだ。
3人の息子を鍛冶屋として育て上げ、12人の孫がいる。
それぞれが立派に成長し、長男家族だけが家に残り、フリオと共に暮らしていた。
白い髭をたくわえた厳しい顔は炉の熱で焼け浅黒く、老齢を感じぬ腕は筋肉が盛上がりまるで丸太だ。
この街でフリオに喧嘩を挑む愚か者はいない。
大きな体から繰り出されるパンチは猛牛の突進のごとく。
掴み掛かった者は紙屑のように放り投げられる。
「ひいぃ!こ、こんな店二度と来るか!」
店から放り出された数人のゴロつきが、捨て台詞を吐きながら一目散に消えて行く。
大方、フリオをただの老人だと見誤り、難癖でもつけた他所物だったのだろう。
見慣れた光景に、通りを歩く住民達もやれやれ、と横目に眺めるだけだ。
「ふん!!鼻垂れ共め!」
腕組みして仁王立ちで鼻を鳴らすフリオ。
頑固。
豪快。
屈強。
苛烈。
彼を表すのにぴったりな言葉はそんな所だが、フリオは街の住人達には優しく、頼もしい男として皆に慕われていた。
そんなフリオには一つ、どうしても譲れない拘りがある。
それは、毎朝『パン屋オリビア』の胡桃パンを食べること。
「お義父さん、どうぞ」
長男と結婚したラーラが食卓を整え、家族全員が席につく。
それぞれの皿には、チーズ、ナッツ、ソーセージにスクランブルエッグ、少しの野菜と、それから胡桃パン。
軽く砕いた胡桃が練り込まれたパンはふっくらと丸く、香ばしそうな均一の焼き色が美しい。
だが、フリオの皿にある胡桃パンだけはそうではない。
生地から覗く胡桃は大きさがバラバラで、ゴロリとそそまま入っているかと思いきや、粉々に割れた破片の部分もある。
見た目ではわからないが、下処理も甘くアクが抜けきっていないため、味も渋い。
パン生地は粉がダマで残っている部分が硬くなり、そして表面は焼きすぎて焦げているのだ。
だが、そんなパンを見ても、誰も何も言わない。
フリオの一日は、この特別な胡桃パンがなければ始まらないのだ。
今でこそ想像もつかないが、一時期、フリオが仕事場の炉の前にも行かず、店にも立たず、食事すら殆ど摂らずに塞ぎ込んでいた頃があった。
妻、マリーが亡くなったのだ。
フリオは情熱的な愛を囁くような男ではなかったが、マリーを心から愛していることは誰もがわかっていた。
息子や街の住人達、時には客と乱闘騒ぎにまで発展し、誰にも手を付けられない状態になっていたとしても、マリーが一声かけるだけで、フリオはその拳をおさめた。
「あなた、なんて事ないわ。さ、笑って」
フリオが業火だとすれば、マリーは朗らかな春風のような女性だった。
マリーの不在は、フリオの炎を消してしまっていた。
息子達にも、孫達にも、街の住人達にもどうすることもできず、誰もがただ、時が経ちフリオが再び歩き始めるのを待つしかなかった。
そんなある日、フリオのもとに『パン屋オリビア』の娘、当時7歳のオリビアが訪ねてきた。
「フリオ爺ちゃん、これオリビアが作ったの。食べて!!」
オリビアが握りしめていた袋に入っていたのは、不恰好な焦げた胡桃パンだった。
フリオは大きく目を見開くと、吸い寄せられるように震える手でそれを口に運び、一口齧った。
「どうしたの、フリオ爺ちゃん。胡桃パン好きだったよね?美味しくなかった?」
静かな部屋に、オリビアの心配そうな声が響く。
フリオは号泣していた。
固い胡桃パンを握り締め、大きな背を丸めて嗚咽を漏らした。
(これは……このパンは──マリーの胡桃パンだ)
フリオの妻マリーは、それはもう料理が下手だった。
若い頃、何度その味で大変な目にあったかわからない。
だが彼女はいつも一生懸命で、心を込めて作ってくれていた。
フリオはそんなマリーを愛していたし、それで幸せだった。
「ごめんなさい……お誕生日だから、朝はあなたが好きな胡桃パンを焼いて、驚かせようと思ったんだけど」
そう言って項垂れるマリーの背に、隠していた黒焦げのパンを見つけ、フリオは大笑いしながらそれを食べた。
それから毎年、フリオの誕生日にはマリーが胡桃パンに挑戦した。
失敗し続ける胡桃パンを、フリオは毎年笑いながら食べた。
フリオにはそれが、何よりの贅沢なご馳走だった。
「流石に子供達に焦げたパンは食べさせられないわ」
子供が生まれると、そう笑いながら肩をすくめ、マリーがパンを焼く事は無くなった。
年月が経つと徐々に店も忙しさを増し、食事は隣の家のエマに頼んで作りに来てもらうようになった。
長男にラーラが嫁いで来てからは彼女に調理場を譲り、マリーが料理をしていたのはそれまで。
「──フリオ爺ちゃん、大丈夫?美味しくない?」
不安そうなオリビアの頭を、フリオはゴツゴツとした大きな手で泣きながら優しく撫でた。
「いいや……美味しいよ……本当に美味しい」
口の中に広がる懐かしい味に、マリーの言葉が聞こえた気がした。
「あなた、なんて事ないわ。さ、笑って」
オリビアの作った胡桃パンを全て平らげると、その足でフリオはパン屋へ向かった。
オリビアと手を繋ぎ、目は泣き腫らし真っ赤のまま。
そして驚くオリビアの父、パン職人のマシューに勢いよく頭を下げ、しゃがれた大きな声で言った。
「頼む。俺に毎日マリーの胡桃パンを焼いてくれ!」
マシューは話を聞くと、完璧にレシピを再現してくれた。
それから毎日、フリオはこの特別な胡桃パンを食べている。
「ああ、うまいな」
手の中の焦げたパンに目を細め、今日もフリオは呟いた。