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第9話 - 空白の上の震え

部屋に入るなり、ノートパソコンの電源を入れた。

モニターが灯った瞬間、ポータルニュースの一面に見慣れた名前が飛び込んできた。


〈「夜九時の人、紫乃しの 雨音あまね 休載宣言! ファンに衝撃と不安広がる」〉


息が止まった。

本能のようにマウスを握り、記事をクリックする。


――


「デビュー以来、一度も欠かすことなく毎晩九時に作品を投稿していた作家、紫乃 雨音が

突如として休載を宣言した。


ファンの間では、健康異常説、正体流出説、さらには共同執筆説まで様々な憶測が飛び交っている。


匿名の中で活躍してきた彼は『夜九時の人』と呼ばれ、読者に絶大な支持を得てきたが、

今回の休載をきっかけに、ついには“正体論争”まで巻き起こっている。」


――


記事の下には、切り抜かれたコメントがずらりと並んでいた。


「雨音さんは私の唯一の希望なのに……お願いだから戻ってきて」

「高校生とか、学生なんじゃない? テスト期間とか」

「正体を公開して責任を取れ。何十万人を欺いてるのか?」

「本当に天才だったのに……こんな終わり方ってある?」


私は画面をスクロールしながら――

もう、マウスを動かせなくなっていた。


モニターの光が冷たく部屋を照らし、

胸の奥がきつく締めつけられる。


――……世界が、私を押し潰そうとしている。


翌日。私は教室の窓際に座っていた。


昨日読んだ記事と、

部室での会話が頭から離れなかった。


黒板の文字はまるで滲んで見えず、

先生の声も遠いラジオ雑音のように流れていく。


普段は気にならないストッキングの締めつけまでが

今日はやけに鋭く感じられ、

その圧迫が脚を超えて全身に広がっていくようで、

胸が詰まるように苦しかった。


「ねぇ、お前らあの記事見た? あの雨音って作家、休載したらしいよ?」


後ろの席から飛び出した声に、心臓がびくりと跳ねた。


「マジ? あの人の文章めっちゃ良かったのに。同じ学校とかじゃね?」

「まさか。でも今どき高校生作家とか多いらしいしな。」


軽口まじりの会話だった。

けれど私の耳には、石の塊みたいに重く落ちてきた。


指先に力を込め、原稿用紙をぎゅっと握りしめる。

インクが手のひらに滲むほどに。


――……もう、本当に逃げ場なんてないのかな。


黒板をひっかくチョークの音が、やけに鋭く耳を刺した。

顔を伏せ、ペンを転がしたが――

滲むインクが文字を潰し、

何を書いているのかもわからなくなっていた。


後ろの子たちが、ふとこちらを見た気がした。


「お前、なんかやたら緊張してね?」

……ただの冗談だったのかもしれない。

けれど私には、その一言が

「お前が雨音だろ?」と聞こえてしまった。


――心臓が、ずしんと沈む。


顔を上げた瞬間、ユイと目が合った。


眼鏡の奥の瞳は、いつも通り無表情に見えた。

けれどその奥に、昨日の夜の問いがよみがえる。


――『もしかして、君……紫乃 雨音なの?』


慌てて視線をそらしたが、

もう完全に見抜かれたような錯覚が頭を締めつけた。


ストッキングの中の脚は汗で張りつき、

机の上の原稿は熱を帯びて、

触れたら火傷してしまいそうだった。


――……ユイは、どこまで確信しているんだろう。

 それとも、ただの推測……?


あと少しでチャイムが鳴るはずなのに、

その「あと少し」が、永遠みたいに遠かった。


全ての視線が背中を貫いてくるようで、

私はインクのしみだらけの原稿だけを見つめ、

必死に息を殺した。


チャイムの音が教室に響き渡った。


立ち上がる生徒たちのざわめきの中で、

私はゆっくりと身体を起こした。


手のひらには、

強く握った原稿の跡がまだくっきりと残っていた。


歩きながら、心の奥で呟いた。


――……今日、部室に行ったら……どんな顔をすればいい?


廊下を歩いている間も、

背後からはずっと雨音の話題が聞こえてきた。


誰かは心配そうに、

誰かは軽い冗談めかして。


どの言葉も、耳の奥で壁のように積み重なり、

息を詰まらせた。


特別棟の前に着いたとき、

私はドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。


冷たい金属の感触が、指先に伝わってくる。


――どくん。


心臓が一拍、重く落ちた。


結局、私はそっとドアを押した。


古びた部室。

棚に積もった埃。

壁に貼られた詩展のポスター。

そして――もう席について、私を待っていた三人の視線。


その視線に包まれた瞬間、

教室から続いていた緊張は、少しも解けなかった。

むしろいっそう鮮明に喉を締めつけてきた。


「来たのね。」

ミオ先輩が短く言った。

銀の瞳が一瞬だけ私を射抜いて通り過ぎる。


「とにかく、やることはやりましょう。

 昨日約束した通り、今日は原稿をまとめて共有する。」


その声は穏やかだったはずなのに、

私には硬い壁みたいに聞こえた。


チハル先輩が、明るく手を振って場を和ませようとする。

「そうそう! 昨日からめっちゃ楽しみにしてたんだからね!

 ……ま、ユイはどうせブツブツ文句言うんだろうけど〜」


「……ふん。」

ユイは眼鏡を直しながら、原稿を取り出した。


鉛筆が紙をかすめる音が、

静かな部室にぽつりぽつりと流れた。


けれど私だけが、

目の前の原稿から視線を外せなかった。


真っ白な空白が、

大きな渦みたいに私を引きずり込もうとしていた。


――……私は、今、何を書こうとしているの?

 ハナエとして? 雨音として?


ペン先を紙に落とそうとするほど、指先は激しく震えた。

文字ではなく、空白だけが増えていく。


部室はいつも通り流れているのに、

私の中だけ、時間が止まっていた。


チハル先輩は楽しそうに大きな文字を書き出し、

ミオ先輩はペンを持った瞬間から滑らかに文を紡いでいた。

ユイでさえ、ぶつぶつ言いながらも黙々と数行を埋めていた。


――でも、私だけが。

何ひとつ書けなかった。


目の前の原稿は、いまだ真っ白なまま。

ペン先は紙の上をさまようばかりで、一文字も落ちてこなかった。


――どうして、こんなに手が重いの……

 昨日までは、確かに書けたのに。

 みんなの目の前で、私だけが止まってるみたい。


空白が広がるたびに、

胸はぎゅうっと締めつけられていった。


紙を見ているのではなく、

自分自身の虚像を見つめているような感覚だった。


そのとき――隣から、小さな溜息が聞こえた。


「……まただ。」


顔を上げると、ユイが腕を組んで私を見つめていた。

眼鏡の奥の瞳が揺れていたが、声は鋭かった。


「ハナエ、最近おかしいよ。

 家では書いてるんでしょ?

 なのに、ここではなんで止まるの。」


息が詰まった。


「わ、私は……」

言葉は、空気に溶けた。


ユイはさらに身を寄せ、私の原稿を見下ろした。


「白紙を握ってるだけじゃ、

 誰も君の気持ちなんてわからないよ。

 “言葉を信じる”って言ってたの、ただの虚勢だった?」


その声は囁きに近かったのに、

私には教室全体に響く轟音のように聞こえた。


指先はさらに震え、

にじんだインクが紙の端に小さな染みだけを残した。


ユイの声が、だんだん熱を帯びる。


「答えないの? それとも全部偶然だったって誤魔化すの?」


私は何も言えなかった。

視線は原稿に落ちたまま動かず、

指先も凍ったように一ミリも動かなかった。


その瞬間――


タッ。


静寂を裂くように、

ペンを置く小さな音が響いた。


銀髪が照明に反射してきらりと光り、

ミオ先輩がゆっくり顔を上げた。


「……やめなさい。」


短く、それでも揺るがない声だった。


ユイは唇を動かしたが、

先輩の瞳に射すくめられて言葉を継げなかった。


「言葉は……誰かを追いつめるために書くものじゃない。」

ミオ先輩は一度、私を見て――

すぐに視線を外した。


「止まったからって、言葉を失ったわけじゃない。

 ただ、今は少し休んでいるだけ。

 それで誰かの本気を疑うのは、正しくない。」


部室に張り詰めていた空気が、

ほんの少しだけ緩んだ。


息はまだ詰まっていたけれど、

その一言が胸の奥に小さな隙間を作った。


ユイは眼鏡を直しながら、

まだ納得いかないように言った。


「……でも、友達がこうして止まってたら、心配するのは当然でしょ。

 それに……私は、ハナエがどんなふうだったか知ってるから、余計に心配なんだよ。」


私は小さく息を呑んだ。


ユイの声は震えていたけれど、

そこには確かな真心が宿っていた。


「私は……中学のとき、

 君が言葉から離れたときの顔、今でも覚えてる。

 だから、もう二度と、あんな顔を見たくない。」


眼鏡の奥で光る瞳が、

まっすぐに私を射抜いた。


視線を逸らしたかった。

けれど、逸らせなかった。


「……ユイ。」


短い呼びかけだった。

でも、その声は震えていた。


そのとき、ミオ先輩が小さく溜息をつき、

二人の間に割って入った。


「もうやめなさい。

 ハナエは、まだ自分の中を整理する時間が必要なの。

 無理やり引きずり出せば、余計に壊れてしまう。」


チハル先輩は両手をぱんっと叩き、

空気を変えようと大げさに笑った。


「そーそー! こんな重い話ばっかしてたら、

 原稿どころか家にも帰れなくなっちゃうってば!」


空気はまだ重かったけれど、

私はようやく少しだけ呼吸を整えられた。


けれど、胸の奥はまだ激しく波打っていた。


――……ユイは本当に、どこまで知ってるんだろう。

[読了ありがとうございます。

続きが気になったらフォロー&★評価をお願いします。

次回も21:00にお会いしましょう。]

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