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第8話 - 二つの名前

家に帰って、いつものようにノートパソコンを開いたときだった。

あるコメントが目に飛び込んできた。


「雨音さん、もう小説は書かれないんですか?」


――心臓が、どくんと落ちた。

数百、数千のコメントの中のひとつにすぎないはずなのに、

その一文は、私を正面から突き刺した。


最近は文芸部の活動が楽しすぎて、

しかも活動時間がアップロード時刻の「夜九時」と重なっていたから、

雨音としての執筆は、まったく手をつけられていなかった。


そう――私は紫乃 雨音。

別名、「夜九時の人」。


今日はたしかに〈ハナエ〉として文章を読んだ。

でも〈雨音〉は?


誰にも知られず積み上げてきたその名前を、

いまも何千もの人が待っているのに。


モニターの光が、部屋の空気を冷たく照らしていた。

キーボードに置いた指先が、かすかに震える。


――私は誰として書けばいい? ハナエ? 雨音? それとも……両方?


悩みだけが深く沈み込む夜。

たった一行のコメントが胸の奥で塊のように固まり、

眠れないまま何度も寝返りを打った。


誰かに打ち明けた瞬間、

自分が積み上げてきた二つの名前――ハナエと雨音、

その両方が崩れ落ちてしまいそうで怖かった。


キーボードを叩こうとしても、

原稿用紙を広げても、

指先は凍ったように動かなかった。


まるで、自分が壊れてしまったみたいだった。


ハナエとしても、雨音としても、

何ひとつ言葉を出せないまま、時間だけが過ぎていった。


――教室の窓際に座っていたときだった。


練習帳の上でペンだけを転がし、ぼんやりと時間を潰していた私に、ユイが歩み寄ってきた。


「ハナエ、最近どうしたの。」

ぶっきらぼうな声だった。

けれど眼鏡の奥の瞳は、今まででいちばん真剣だった。


「この前まであんなに熱心に書いてたのに、

 ここ数日まったく手つけてないじゃない。……何かあった?」


私は答えられなかった。

喉が詰まったみたいに、声が出なかった。


その沈黙がすべての答えになったのか、

ユイは静かに椅子を引き寄せて、私の隣に座った。


「……私ね、君がもう一度言葉を信じるって言ったとき、

 あれ、嘘じゃないって思ったんだ。」

小さな声だった。

「だから……中学のときみたいに崩れちゃうのは、ちょっと悔しいよ。」


ユイは私の返事を待っていたけれど、

私はやはり黙ったままだった。


――紫乃 雨音であることは、ユイにも秘密だった。

今ここで告白したら、驚きと疑い、そして冷たい距離しか返ってこないだろう。


ユイはやがて小さくため息をつき、練習帳を指で軽く叩いた。


「……いいよ、無理に話さなくても。

 でも、一つだけ覚えておいて。

 君が立ち止まっているときでも、君の言葉を待っている人がいるってこと。」


その言葉は、ただの慰めみたいに聞こえた。

けれど、胸を射抜く矢のようだった。


――そうだ。雨音を待つ人がいて、

 ハナエを信じてくれる人もいる。

 でも私は……どちらとして生きればいい?


授業にも集中できず、

その日は部活にも行かずに帰宅した。


机の上には、まだ開かれていない原稿が置かれていた。

私はしばらくそれを見つめていたが、

やがてノートパソコンを開いた。


カーソルが点滅し、私を急かしてくる。

でも指先は、一文字も打ち込んでくれなかった。


「雨音さん、最近静かですね」

「次のお話もぜひ聞きたいです」


いくつかの通知コメントだけが画面に浮かんだ。

その言葉たちが足首をつかむようだった。


私はキーボードに手を置いて――そして、降ろした。


――……私は、いったい誰として書けばいいんだろう。


決断のときだった。

そして私は、生まれて初めての「休載告知」を投稿した。


告知ボタンを押した瞬間、

画面が一気に空虚になった。


コメント欄には

「待ってます」の言葉が何百も積み上がっていたけれど、

そのひとつひとつが、

今の私には石のように重くのしかかった。


息を吸い込んで――でも、吐き出すこともできずに、

モニターの前で固まった。


――もう私は、雨音でも、ハナエでもないのかな。


指先は震えていた。

告知はそのまま公開された。


たった一度のクリックだったのに、

まるで自分が築き上げてきた世界が

音を立てて崩れたような虚しさが押し寄せた。


翌日、部室へ行ったときだった。

チハル先輩が、その話題を切り出した。


「ねえみんな! あのニュース見た? **紫乃しの 雨音あまね**さん、休載だって!」


ミオ先輩もすぐに応じた。


「一度もそんなことなかった方が、最近は投稿時間にも現れなくて……

 何かあったんじゃないかって、むしろ私が心配になるわ。」


チハル先輩は原稿を手にしたまま、

まだ興奮した声を上げていた。


「こんな大物作家さんが突然休載だなんて、ネットも大騒ぎだよ。

 みんな何かあったんじゃないかって心配してる。記事にもなってた!」


ミオ先輩は顎に手を添えて、静かに言葉をつないだ。


「雨音さんは、ただ筆力があるだけじゃなくて……

 言葉に真心がこもっていた方よ。

 そんな人が止まったということは――きっと大きな理由があるはず。」


息が詰まりそうだった。

隣のユイが、そっと私の顔を覗き込んだ。


「ハナエ、けっこう読んでたよね? ずっと好きな作家だったじゃん。何か知らない?」


一斉に視線が私に向いた。

言うべきか、隠すべきか。


胸の奥で「雨音」という名前が飛び出しそうで、指先が凍りついた。


私は無理に笑顔を作った。

「わ、私も休載告知しか見てなくて……よくは……」


声はいつもより少し震えていた。


チハル先輩が目を輝かせる。

「でもね、なんかさ、ハナエの文章読んでると雨音さんっぽいんだよね!

 表現とか、雰囲気とか!」


ユイがびくりと肩を揺らし、私を見た。

「……たしかに。私も昨日ちょっと思った。」


――息が詰まった。

机の下で指先がぎゅっと握られた。


「そ、それは……偶然だよ。誰も真似できない人だもん、雨音さんは。」


けれどその言葉は、弁解のようにしか聞こえなかった。


そのとき――

ミオ先輩の銀の瞳が、冷たく閃いた。


「……偶然、ね。おもしろいわ。」


そうして、息の詰まるような部活の時間は終わり、

私たちは帰路についた。


ユイと私は家の方向が同じで、二人で歩いていた。

そのとき、ユイがぽつりと声をかけてきた。


「……ハナエ。」


「ん?」


「もしかしてだけどさ、君……紫乃 雨音なの?」


――胸が、どさりと落ちた。


ストッキングに包まれた脚の神経が一気に逆立ち、

少しでも気を抜けば崩れ落ちそうだった。


私は小さな声で問い返した。


「……もし私が雨音だったら、どうする?」


「私は……今まで通り、君のそばにいるよ。 でも――」


ユイは少しだけ間を置き、言葉を続けた。


「……君は、違うって言うんだろうね。」


夜風が通り抜け、

街灯の光がユイの眼鏡越しにきらりと揺れた。


その瞳は、からかいでも好奇心でもなく――

どこか、確信に近いものだった。


唇が動いたけれど、言葉は出なかった。


「違う」と言えば、あまりにもわざとらしい否定になる。

「そうだ」と言えば、すべてが壊れてしまう。


喉が、凍りついたみたいに塞がっていた。


――ユイは……どこまで気づいてるんだろう。

 それとも、ただの推測……?


心臓は舞台上の太鼓みたいにどくどく鳴り、

足取りはどんどん重くなっていった。


ユイはしばらく私の返事を待っていたけれど、

やがて視線をそらした。


「……いいよ。ちょっと確認したかっただけ。」


軽く息をつき、手に持ったかばんの紐をぎゅっと握った。


「行こ。遅れる。」


短いやりとりはそれで終わったけれど、

空気はずっと重いままだった。


ユイの歩調に合わせながらも、

さっき呑み込んだ言葉が、喉の奥で苦いまま渦を巻いていた。


――……いつまで隠していられるかな。

 それとも、もう全部バレてる……?


家に帰った私は、

チハル先輩が言っていた記事を探した。


そして、画面に浮かぶ太字の見出しが――

私の心臓を突き刺した。


「夜九時の人、紫乃 雨音 突如休載……ファンに衝撃」

[読了ありがとうございます。

続きが気になったらフォロー&★評価をお願いします。

次回も21:00にお会いしましょう。]

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