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第5話 - 君の声で

私は原稿を手に取った。指先は凍りついたように震えていたけれど、もうこれ以上は先延ばしにできなかった。


昨夜、何十回も心の中で繰り返した最初の一文が頭に響く。




息を吸い込み、静かに口を開いた。




「夜の九時、止まっていた時計がまた動き出した。」




静かな部室を、私の声が横切った。


その瞬間、原稿の文字はただの記号ではなく、私の中に広がる風景へと変わっていった。




「窓の外の街灯は、不器用な画家のように光を散らし、机の上には一日の影がゆっくりとほどけていた。うつむく人もいれば、笑う人もいたけれど……私はただ、流れゆく時間をつなぎ止めたかった。」




声を重ねるほどに、指先の震えは消えていった。


目の前にあるのは、古い原稿用紙ではなく、自分が描いた情景だった。




「秒針がカチリと鳴るたび、忘れていた声がよみがえる。その中には友達の笑いも、先生の叱責も、そして……もういない父の声さえ重なって聞こえた。私はその残響を閉じ込めたくて書く。私の文章は、散ってしまった記憶をつかまえる小さな試みだから。だから信じたい。書く限り、止まっていた時計はいつかまた動き出すと。」




息が詰まりそうだったけれど、最後まで言葉を押し出した。


最後の一語が唇を離れると、部屋は再び静けさに包まれた。




チハル先輩が思わず口を開く。


いつもなら真っ先に冗談を飛ばす彼女が、今は感嘆をこめてつぶやいた。


「……すご。あんた、本当に天才じゃん!」




ユイはペンを強く握りしめた。文句ばかりの顔は消え、眼鏡の奥の瞳が揺れていた。


「ハナエ……やっぱり、あんたは……」




そしてミオ先輩。


銀色の瞳が深く揺れ、言葉を失ったように私を見つめた。


「……そう。『文章を信じる』って言ってたの、嘘じゃなかったのね。」




私はうつむいた。胸ははちきれそうに高鳴っていたけれど、不思議と穏やかだった。


ようやく自分の声が、本当に届いた気がしたから。




四人は静かに息を整え、机の上には原稿や文集が散らばっていた。




そのとき――




「……お前たち、まだ帰ってないのか?」




低く重たい声が、扉の隙間から響いた。


ガチャリ、と音を立てて扉が開き、黒い影が差し込む。




文芸部の顧問、国語教師の澤村 一彦。


きちんと締めたシャツの第一ボタンは外れ、ネクタイは緩んで垂れていた。


疲れた顔に、半分落ちた眼鏡の奥は、濃い疲労に覆われていた。




「もう十時を過ぎてるぞ。学校の規則では部活動は九時半までだ。知ってるな?」




チハル先輩がびくっとして、慌てて原稿を背中に隠す。


「あ、あはは……ちょっとだけ続けてから帰ろうかと……」




サワムラ先生は溜息をつき、窓の外を指さした。


暗い校庭が影のように広がっている。




「夢中になるのはいい。だが教室は宿泊所じゃない。遅くなる前に片付けて帰れ。」




ユイが顔をそむけ、ぼそりとつぶやく。


「だから言ったじゃん、早く帰ろうって。」




それでもミオ先輩は落ち着いて立ち上がり、頭を下げた。


「申し訳ありません、サワムラ先生。今日はここまでにします。」




先生は散らばった原稿に目をやり、眉をひそめた。


「……お前たち、本気で文章を信じてるんだな。」


その一言は小さかったが、妙に胸に残った。




扉のノブを握ったまま、先生はしばらく私たちを見つめた。


厳しい顔は変わらない。だがその奥に、かすかな温もりが漂っていた。




「……俺が同じ歳の頃は、こんな暗い教室に残って文章にしがみつく勇気なんてなかった。だから言いたいことがあるなら、今の時間に刻んでおけ。ただし規則は守れ。文章を信じるって言っても、一晩中は無理だろう。」




言い方はぶっきらぼうだったけれど、不思議と胸が温かくなった。


先生は背を向けて手を振る。


「帰れ。家でも書ける。文章は逃げないんだから。」




扉が閉まると、チハル先輩がくすくす笑った。


「ほらね? サワムラ先生、意外と応援してくれてるんだって!」




「応援じゃないでしょ。」


ユイは腕を組み、視線をそらす。


「ただ面倒だから追い出しただけ。」




「えー、違うって。バレバレなんだから〜。」


チハル先輩はわざとユイに近づき、からかうように笑った。


「あんたも結局、ちゃんと書いたじゃん? さっきすごく真剣だったし。」




ユイは顔を赤らめ、ペンをぎゅっと握って言い放つ。


「……ちょっと気分がそうなっただけよ。」




その瞬間、ミオ先輩が短く言った。


「その気分が積み重なって、文章になるの。言い訳はいらない。」


厳しい言葉だったのに、なぜか全員がうなずいていた。




そして私たちは帰路についた。




四人で静かな夜道を歩いていると、沈黙を破ったのはチハル先輩だった。




「ねぇねぇ、今日書いたやつを全部まとめて、一つの物語にしてみない? 絶対面白いって!」




ユイが顔をしかめる。


「はぁ? ふざけてんの? 自分のだけでもしんどかったんだから。」




「でも楽しそうでしょ〜!」


チハル先輩は弾む声で続ける。


「四人の文章をつなげたら、新しい物語になるよ。タイトルもあるし。《9時に読んで!》! 毎晩九時に少しずつ読んでいくんだ。」




ミオ先輩は黙って聞いていたが、銀の瞳を細めてつぶやいた。


「……興味深い発想ね。」


その一言には確かな重みがあった。




私はそっと唇を噛んだ。


(みんなの文章を合わせる……? もし本当にできたら、それは私一人では生み出せない世界かもしれない。)




夜道に再び沈黙が訪れる。


でも今度は重苦しい沈黙じゃなく、何か新しい芽が生まれるような、不思議な余韻が混ざっていた。




家に戻った私は、カバンを置くなりベッドに倒れ込んだ。


今日の出来事が一気に押し寄せ、頭が渦を巻く。




机の上にはまだ閉じていない原稿と、サワムラ先生が消した灯りの残像が残っていた。


でも、それ以上に鮮明に浮かんでくるのは、帰り道でチハル先輩が言った一言だった。




「今日書いたのを全部合わせて、一つの物語にしてみない?」




思わず笑みがこぼれる。


冗談みたいに聞こえたのに、頭の中ではもうその可能性を反芻していた。




チハル先輩の弾んだ声、ユイのぼやき、ミオ先輩の短くも力強い認め言葉。


それらすべてがパズルの欠片のように耳に残っていた。




(本当に、四人の文章がつながったら……どんな物語になるんだろう。)




ノートパソコンの電源を入れると、点滅するカーソルが私を見つめ返した。


「紫乃 雨音」という名前で、これまで数えきれない人に文章を届けてきた。


でも今は少し違う。




今回書くのは、私一人の文章じゃない。


誰かの言葉と重なり、ぶつかり、つながって、まったく新しいものになるかもしれない。




キーボードに手を置き、私は小さくつぶやいた。


「明日の夜九時、どんな物語が生まれるんだろう。」

[読了ありがとうございます。

続きが気になったらフォロー&★評価をお願いします。

次回も21:00にお会いしましょう。]

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