第3話 - 止まっていた時計が再び刻み始める
部室は一瞬、静寂に包まれていた。
澪先輩のため息、結衣のぼやき、そして古びた文集から漂うインクの匂いだけが空気を満たしていた。
その沈黙を破ったのは――弾けるような声だった。
「ふははっ! やっと入れた! 思った以上にいい場所じゃん!」
扉を勢いよく開け放ったまま、そのままの勢いで部室を駆け回る。
明るい茶色のショートヘアが跳ね、灰色のニーソックスの下で元気な足取りが軽快に響いた。
「澪ちゃん、言ったでしょ! 廃部なんて絶対ありえないって!」
彼女は澪先輩の周りをひょいひょい歩き回り、声を立て続けに弾ませる。
結衣は眼鏡を押し上げながら、ため息交じりにぼやいた。
「だから、私は入りたくて来たわけじゃないって何度言えば……。華恵が心配だから仕方なく付き添っただけよ」
「はいはい、そういうことにしとけば?」
彼女はにっと笑い、結衣の肩をぽんと叩いた。
「でも結局ここにいるんだから、運命ってやつだよ!」
私は呆然とそのやりとりを眺めていた。
さっきまで重苦しい静けさに沈んでいた部室が、一瞬で違う空気に塗り替えられていく。
澪先輩ですら眉をひそめていたが、その銀色の瞳の奥にわずかな興味が揺れた気がした。
彼女は胸を張り、明るい笑みを浮かべる。
「あ、自己紹介忘れてたね! 二年の九条千春! よろしくね、後輩ちゃんたち!」
「千春、勝手に連れてくるなって言ったはずよ」
「えーだって、今日中に四人集まらなきゃ廃部だったんでしょ? この子は澪ちゃんが言う“言葉を信じる子”みたいだし、結衣だって本当は友達が心配だから来たんでしょ?」
「な、なに言ってるのよ!」
結衣は顔を赤らめ、思わず声を荒げた。
「私は……ただ……」
言葉を飲み込み、そっぽを向いてしまう。
その時――。
コン、コン。
規則的なノック音が響いた。
扉が開き、学生会の腕章をつけた上級生が書類を抱えて入ってきた。
きびきびとした足取り、乾いた声。しかしその瞳にはどこか既視感が漂っていた。
「……まだ残っていたのか、白咲」
澪先輩の銀髪が光を受けて揺れ、彼女は眉をひそめた。
その瞬間、私は悟った。二人は見知らぬ関係ではない、と。
「三島雪」
澪先輩の声は低く冷ややかに落ちた。
「学生会の腕章、随分似合うようになったじゃない」
雪先輩は肩を軽くすくめ、冷たい笑みを浮かべた。
「相変わらずだな。まだこんな古臭い部室で、文字遊びにすがってるのか」
彼の視線が古い文集をかすめる。
「俺も昔は信じてたさ。でももし言葉で世界が変わるなら、図書館が世界を支配してるだろう。現実は成績表だ」
空気が一気に凍りつく。
胸が詰まり、息すらできなかった。
それは、まるで母の言葉と同じだったから。
澪先輩は毅然と立ち向かう。
「だからお前は捨てたんだ。言葉も、自分自身も」
「捨てた? 違うな。選んだんだ。現実を。夢にしがみついて足掻いてるのはお前の方だろう」
「現実?」
澪先輩の銀の瞳が鋭く光る。
「現実を言い訳にして言葉を捨てた者に、文芸部を語る資格はない」
二人の視線が交錯し、私は息を呑んだ。
父の姿が脳裏に浮かび、胸が締めつけられる。
“私も……いつか言葉を捨てなきゃいけないの?”
雪先輩は書類を閉じ、淡々と告げる。
「とにかく四人集まったから、廃部は取り下げだ。ただし、これがいつまで続くか見ものだな」
彼は背を向け、規律正しい足音を残して去っていった。
扉が閉まると、部室には再び重たい沈黙が落ちた。
「……はぁ、結局私まで文芸部扱いね」
結衣が投げやりに言うと、千春がぱっと声を弾ませた。
「いいじゃん! おかげで廃部も免れたし、これで正式に活動できるよ!」
「だから私は入るなんて言ってないって!」
結衣は頬を赤らめ、眼鏡を押し上げる。
「勝手に名前書かれて、本当に迷惑なんだから」
千春はおどけた笑みを浮かべて言った。
「でも公式記録に残っちゃったんだし? よろしくね、新入部員!」
「誰が新入部員よ!」
声を荒らげながらも、結衣は席を立たなかった。
私はその二人のやり取りを見て、胸が少しだけ軽くなった。
昨日まではひとりだった。でも今は――確かに誰かと一緒にいた。
やがて澪先輩が机を手のひらで叩き、部室を静める。
「静かに。……四人揃った。規則上、文芸部はまだ生きている」
彼女は古びた文集を手に取り、鋭い視線を私たちに投げかけた。
「だが、人数が揃っただけではただの空箱だ。本当に文芸部を名乗るなら、私たち自身の言葉を残す必要がある」
銀の瞳が力強く光る。
「最初の活動は単純だ。――それぞれ短い作品を書け」
「えっ、いきなり? ラブレターとかでもいいの?」
千春が目を輝かせて手を挙げる。
「形式は問わない。詩でも小説でも随筆でも。ただし、自分自身の言葉であること。それが文芸部の最初の条件だ」
「まったく……。ほんと面倒」
結衣はぶつぶつ言いながらも、結局ペンを取った。
私は震える指先で原稿用紙を見つめる。
昨日破り捨てた原稿の記憶がよみがえる。
“また書けるのだろうか”
不安に押し潰されそうになりながらも、今はもう一人ではなかった。
――ペン先を落とす。
紙がわずかに震え、一行の文字が刻まれた。
『夜の九時、止まっていた時計が再び動き出した』
手の震えは次第に収まり、文字は恐怖ではなくなった。
「よし」
澪先輩が頷く。
「今日書いたものは持ち帰って推敲しろ。そして明日の夜九時、ここで互いに読み合う」
「やった! 部の名前と同じじゃん! 《九時に読んで!》! サイコー!」
千春が歓声を上げる。
「……私はなんでここにいるのよ」
結衣は赤面しながらも席を立たなかった。
私は原稿用紙に残った一行を見つめる。
昨日まではゴミ箱に消えていた言葉。
でも今は、誰かと一緒に読んでもらえる言葉だった。
まるで止まった時計が、本当にまた動き始めたかのように――。
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