第2話 - 言葉を信じる者だけ
ギイ――。
扉がきしむ音を立てて開いた。
埃を含んだ空気が流れ出す。
中は思ったより広かったが、どこかがらんとしていた。
壁には古い掲示板、半分剥がれた詩会のポスター。
傾いた本棚には色あせた詩集や文集が並び、誰かが時々手入れしている痕跡はあるものの、全体的には放置されたままの空間だった。
その中央――窓辺に座っていた上級生が顔を上げる。
銀色の髪が陽光を受けて揺らめいた。
まっすぐな姿勢、整然と並ぶ原稿、揺るぎない冷たい瞳。
片手に本を持ちながら、彼女はゆっくりと口を開いた。
「ここはまだ文芸部よ。廃部届なんて受け付けない」
先ほど廊下で聞いた声。
低く、凛としたトーン。
意地と誇り、そしてわずかな孤独が滲んでいた。
先に声を上げたのは結衣だった。
「廃部の話をしに来たわけじゃないんですけど」
「……じゃあ何の用?」
銀の瞳がこちらを射抜く。
「遊びに来ただけなら、出口はあっちよ」
私は思わず息をのんだ。
声を出そうとしたが、喉が塞がれてしまう。
昨夜破り捨てた原稿の感触が指先に蘇り、手が凍りついた。
代わりに結衣が答える。
「華恵が……ただ、見たがってたの。私は関係ないから、もう帰るわ」
肩をすくめて一言。
「後で泣きながら飛び出しても知らないからね」
足音を響かせて、彼女は出ていった。
部屋には私と上級生だけが残された。
彼女の視線は冷たかったが、どこか同じ傷を分かち合っているような気配があった。
私は視線を逸らし、傾いた本棚の文集に目を留める。
埃をかぶって眠っている言葉たち――昨夜床に散らばった私の言葉と重なった。
「文芸部〈九時に読んで!〉の部長、白咲澪よ。あなた、文芸部に興味があるの?」
「そ、それは……」
喉がひりつき、言葉が途切れる。心臓が激しく鳴り、声が出ない。
澪先輩は本をぱたりと閉じた。
「興味がないなら出て行って。ここは暇つぶしの場所じゃない。言葉を信じる者だけが残る場所なの」
胸が沈む。
私は“言葉を信じる者”なのだろうか。
昨夜、何度も原稿を破り捨てた手の感触がよみがえる。
信じたものはいつも嘲笑に変わり、残ったのはくしゃくしゃの紙屑だけ。
それでも――澪先輩の瞳は私を縛りつけた。
冷たく鋭いのに、その奥には私が失った何かが宿っている。
「それでも言葉を信じるか」と問いかけるような瞳だった。
私は一言も出せず、喉の奥で飲み込む。
だが、不意に零れた。
「……信じたい」
澪先輩の瞳が一瞬だけ揺らぐ。
静寂の中、私の鼓動だけが舞台の上の役者のように響いた。
「私は、言葉を信じます。だから……ここで文芸部員になりたいです!」
空気が凍りつく。
舞い上がる埃が光を受けてきらめいた。
澪先輩は小さく笑い、本を閉じた。
「ふふ……面白い子ね。名前は?」
「か、川崎華恵です」
声は震え、指先が痺れた。
けれど心臓は舞台の上のように高鳴っていた。
「いいわ」
澪先輩の瞳がさらに深くなる。
「だったら信じてみなさい。言葉というものを」
「はい!」
私は部屋を見渡す。
棚には古い文集が並び、一番古いものは十年前のものだった。
表紙の剥がれた文集を手に取ると、びっしりと文字が刻まれていた。
「……文集」
つぶやくと、澪先輩が頷いた。
「そう。昔は毎年発行していたの。詩でも随筆でも小説でも……十人以上の部員が一晩中かけて作ったわ」
淡々とした声には、遠い日を見つめる響きがあった。
私は古紙から立ちのぼるインクの匂いを嗅いだ。
それはまるで記憶が埃とともに甦るようだった。
「でも今は……」
視線を空いた机へ移し、澪先輩は呟く。
「去年から、私ひとりだけ。先輩たちは勉強に専念すると言って去り、新入も誰も来なかった」
彼女は再び私を見据える。
「言葉を信じる者が、いなくなってしまったから」
その言葉に胸が締めつけられる。
昨夜捨てた原稿が思い出された。
“言葉を信じる者が消えた”――それは、私自身の姿でもあった。
澪先輩はしばし私を見つめた後、唇をわずかに上げた。
「ふふ、ますます面白い」
銀の瞳が陽光に輝く。
私は息をすることすら忘れた。
鼓動はなおも舞台の上の役者のように暴れていた。
「いいわ、一つだけ聞かせて。――あなたの作品は? 見せられる?」
喉が詰まる。
昨夜破り捨てた原稿が脳裏をよぎる。
冷たい紙片の感触が再び頬に触れた気がした。
「わ、私は……」
声が続かない。
澪先輩は私の表情を読み取ったのか、机の横の箱を開いた。
中には古びた文集がぎっしり詰まっていた。
「……代わりに、これを見る?」
一冊を取り出して差し出す。
「文芸部の記録。先輩たちが夜を徹して作り上げたもの」
私は慎重にページをめくった。
紙は時の重みでざらつき、インクはかすれていた。
拙い文章もあれば、涙が滲むほど美しい文章もあった。
「これが……全部?」
息を潜めて問うと、澪先輩は頷いた。
「言葉を信じていた時代に生まれた、宝石のような作品たち」
その瞬間――
「ちょ、ちょっと! 本当に入らないってば! 離してって!」
外から騒がしい声。
ドンッ!
扉が勢いよく開き、二人が飛び込んできた。
先頭にいたのは、明るい茶色のショートヘアを揺らす上級生。
灰色のニーソックスが目を引く。
彼女は結衣の腕をがっちり掴み、にやりと笑った。
「じゃじゃーん! 新入部員もう一人追加!」
結衣は引きずられるようにして入り、苛立ったように眼鏡を直す。
「だから入らないって言ったでしょ! 私はただついてきただけ!」
「じゃあ今から入ればいいじゃん!」
彼女は茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「一緒にやれば楽しいよ? 文章ってカッコいいし!」
私は呆然と二人を見つめた。
突然の騒ぎで、部室の空気が一変する。
澪先輩は小さくため息をつき、冷たく言い放つ。
「……千春。勝手に連れてくるのは規則違反よ」
そう言いながらも、視線は結衣に注がれていた。
部室には四人の息づかいが満ちた。
古い文集の匂い、千春の笑い声、結衣のぼやき、澪先輩の鋭い声。
一見交わらない欠片たちが、一つの空間に散らばっている。
けれど不思議と、その欠片が重なり合えば新しい模様が生まれる気がした。
昨夜まで原稿を破ってばかりだった私の指先はまだ震えていた。
けれどその震えは、少し違って感じられた。
まるで止まった時計が――
ゆっくりと、再び動き始めたかのように。
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