二つの名前の証明
「アップロード完了」という文字が画面に浮かんだ瞬間、
部屋の中は息を呑むほどの静寂に包まれた。
マウスに添えた私の指先は、氷のように冷え切っていた。
「……終わった。」
震える声とともに、世界へ投げ出された歌。
もう、後戻りはできなかった。
千春先輩が真っ先に歓声を上げた。
「わああ! 本当に上がった! 私たち、ついにやり遂げたんだ!」
結衣は画面を凝視しながら短くつぶやいた。
「……更新してみて。」
一度のクリック。
再生数が「0」から「97」へ、さらに「532」へと跳ね上がった瞬間、
全員の呼吸が止まった。
次々とコメント通知が流れ込んでくる。
「帰ってきた!!!! 本物の雨音さんだ!!!」
「わあ…ただの告知だと思ったら、歌だって? 信じられない。」
「声が震えてる…でもその方が本気みたいで泣けた。」
眩しい歓声が波のように押し寄せる。
胸が熱く高鳴る一方で、別の波もまた割り込んできた。
「でも本当に雨音さんなの? 声が全然違うじゃん。」
「これ、誰かに歌わせたんじゃないの? 共同執筆説、本当かも。」
「こんなふうに正体をさらして歌まで出すなんて…どうして急に?」
画面いっぱいのコメント欄は、歓声と疑念、感動と非難が渦を巻いていた。
「いいね」が弾け飛ぶと同時に、〈疑惑提起〉のスレッドも急上昇していた。
「本物なら最高。でも偽物なら失望する。」
「私は信じる。これは間違いなく雨音の文章だ。」
私は画面を握りしめ、息を呑んだ。
『…歓迎も、疑いも、同時にやってくるんだ。』
喜びと恐怖が交錯し、心臓は舞台の太鼓のように荒々しく鳴り響いた。
しかしやがて、肯定的なコメントがさらに増えていった。
〈「雨音さん…帰ってきたんですね?」〉
〈「文章だけだと思ってたのに、歌だなんて…鳥肌立った。」〉
〈「休載の理由をこんなふうに伝えるなんて、本気で泣けた。」〉
千春先輩は椅子から飛び上がり、私の肩を叩きながら叫んだ。
「見てみろよ! 反応すごいじゃん! みんな待ってたんだって!」
結衣は腕を組んだまま画面を冷静に眺めた。
「でも疑ってる人も多いね。声が違うって言い続けてる。
文字でしか接してこなかった読者には、確かに違和感だろう。」
そう言いながらも、彼女の口元には微笑が浮かんでいた。
「でも肯定が勝ってる。『文章そのものが雨音らしい』ってコメント、見た? あれがすべてだよ。」
私はそのコメントをもう一度読み、喉を詰まらせた。
〈私は信じる。これは間違いなく雨音の文章だ。〉
短いその一文が、胸を真っ直ぐに貫いた。
『……誰かは、まだ私の文章を信じてくれてる。』
視界が熱く滲んだ。
そのとき、美桜先輩が静かに口を開いた。
「わかる? 君の文章を待っていた人が、これほどいるってこと。
歓迎と疑念が入り混じるのは当然。けれど結局、君の文章が君自身を証明するのよ。」
銀色の瞳がモニターの光を受けて輝いた。
「大事なのは、ここからどう続けるかだ。」
溢れるコメント群――歓喜、疑念、期待。
巨大な波の中に立ちながらも、私はもう逃げ出したくなかった。
『……そうだ。ここからが本当の始まりだ。』
——
家に帰ると、リビングの灯りがついていた。
母がソファに座り、スマホを手にしていた。
その画面には、つい先ほどアップされた「紫乃 雨音 新曲」の動画が映っていた。
「今日出したの…あんたのだよね?」
私はその場で固まった。唇が乾いて張り付く感覚。
「……どうして……」
母は静かに微笑み、スマホを置いた。
「この声を私が知らないはずないでしょう。お父さんは…文字を残す人じゃなかった。でもあんたは残してる。文字で、そして歌で。」
視界が一瞬で熱に染まった。
「……お母さん……」
「私は、どんな名前を使おうと関係ない。華恵でも、雨音でも。大事なのは、自分の心を残していること。それがお父さんと違う道であり、あんたの生き方なんだから。」
その言葉に、私はやっと頷くことができた。
『…一番近くの人さえも、私を文章で認めてくれてるんだ。』
——
教室のドアを開けると、ざわめきが押し寄せた。
「なあ、昨日のあれ、華恵じゃないか?」
「すげー…声、そっくりだったよな?」
「でもコメントでは疑ってる人も多かったって…」
歩みは重かった。だが同時に、期待を宿した視線が背中を引っ張っていた。
一人のクラスメイトが勇気を振り絞るように近づき、尋ねた。
「ねえ…本当に雨音さんなんでしょ?」
教室全体が息を潜めた。
心臓が再び、太鼓のように高鳴った。
私はゆっくり唇を開いた。
「……うん。私だよ。」
一瞬の沈黙のあと、反応は二つに分かれた。
「わああ! 本物だったの?! すごすぎる!」
「歌までやったんでしょ? ほんと尊敬する!」
「ネットでしか読めなかった文章が、君の声だったなんて…」
歓声と拍手、眩しい視線。
その隣ではまだ囁きも続いていた。
「でも変じゃない? なんで今さら?」
「声が違うって言ってた人たちの気持ちもわかるな…」
「ゴーストライターとかじゃないのか…?」
輝く歓声と鋭い疑念が、同じ空間でぶつかり合う。
私はその中心に立っていた。
体は緊張で硬直していたが、足は逃げ出さなかった。
窓ガラスが陽光を受けて煌めいた。
そこに映る自分の顔は、昨日とは少し違って見えた。
『……そうだ。今日からが本当の証明の始まりなんだ。』
「言えなくてごめん。実は川崎華恵として書いた文章は、誰にも届かなかった。だから破り捨てた。だから選んだんだ、在野の文才・紫乃 雨音という存在を。」
教室が再び静まり返る。
結衣が席から顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳は揺らがず、真っ直ぐに届いた。
「誰にも届かなかったなんて…それは君の勘違いかもしれない。私は最初から聞いてたよ。」
その一言に、思わず呼吸が詰まった。
やがて周囲から、小さな声が次々とこぼれ始めた。
「本当だったんだな…私、前から君の文章好きだったよ。」
「勇気出したんだね、すごいよ。」
「雨音でも華恵でも関係ない。ただ、君の文章が好きだから。」
拍手と歓声、囁きの応援が教室を満たしていく。
疑いの視線もまだあった。
それでも今は、確かに見えた。――私を信じてくれる声が。
私は静かに息を吐いた。
「期待してて。雨音としても、華恵としても、新しい出発が待ってるから。」
[読了ありがとうございます。
続きが気になったらフォロー&★評価をお願いします。
次回も21:00にお会いしましょう。]




