第11話 - 夜9時の人間
翌日――
特別棟の一番奥、文芸部の部室には
どこかいつもと違う空気が漂っていた。
机の上にはいつも通り原稿用紙が並んでいたけれど、
今日だけは――紙ではない「何か」が、私たちを待っていた。
ユイは静かにかばんから数枚の楽譜を取り出し、
卓上にそっと広げた。
「……二晩徹夜で作ったの。まだ未完成だけど、メロディはこれでいけると思う。」
楽譜の上に、きらめく旋律の余韻が見える気がした。
チハル先輩は目を輝かせて、紙に顔をぐっと近づけた。
「わあっ、ほんとに楽譜だ! さすがユイ〜! 吹奏楽部出身は違うなぁ!」
「うるさい。無駄に騒がないで、ちゃんと見て。」
ぶつぶつ言いながらも、ユイの耳はほんのり赤かった。
私は手に握りしめた原稿用紙を見下ろした。
昨夜、ペン先からこぼれ落ちた断片たちが
今はひとつの歌詞として紡がれている。
紙の上の文字は、もうただの文章ではなかった。
これは――**雨音**としても、ハナエとしても。
初めて二つの名前を重ねて紡いだ、私の声だった。
「……ハナエ、準備できた?」
ユイが尋ね、
ミオ先輩の銀の瞳が私に向けられた。
私は深く息を吸い込み、静かにうなずいた。
――夜九時、止まっていた時計が再び動き出すように。
今、この場所で――私たちの最初の歌が、生まれようとしていた。
手がまだ震えていたけれど、
今は恐怖よりも高鳴りのほうがずっと大きかった。
私はそっと原稿を広げた。
「……これが、私がまとめた歌詞です。」
部室の空気がぴたりと止まった。
チハル先輩が身を乗り出し、
ユイは鉛筆を置いたまま、真っ直ぐ私を見つめていた。
ミオ先輩は腕を組んだまま、黙って待っていた。
私は息を吸い込み、最初の一行を読んだ。
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〈仮題:秘密のノート〉
夜九時、止まった時計がまた動き出すとき
消えた声たちがひとつに繋がって
砕けた心は欠けた星屑になって
この部屋でお互いを照らし合う
恐れさえ隠せない瞬間でも
私はペンを取り、声を残す
ひとつの名前でも、もうひとつの名前でも
この言葉は、きっと私の心だから
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朗読が終わると、部室には短い沈黙が落ちた。
胸はどくどくと脈打ち、
指先はじんじん痺れていた。
けれど――確かに伝わったという感覚が、
胸の奥にうっすらと灯っていた。
一番に拍手したのはチハル先輩だった。
「わーっ! ほんとにすごい! 完全に歌詞だよこれ!
ていうかもうメロディに合わせてもいけそうじゃない!?」
ユイは頬をわずかに赤らめ、楽譜を手に取った。
「……メロディに合わせれば、本当に歌えるかも。」
ミオ先輩は目を閉じて、ゆっくりと頷いた。
「……いいわね。言葉を信じる、もうひとつの形。
私たちだけの歌が――生まれようとしている。」
ユイは楽譜に素早く書き込みながら、
ピアノのない部室で手拍子を軽く刻み始めた。
「じゃあ、この部分はこう……ハナエ、最初の一行から歌ってみて。
拍は私が取るから。」
心臓が跳ねた。
でも、私はうなずき、そっと声を出した。
「夜九時、止まった時計がまた動き出すとき――」
ユイがすぐさま指先でテンポを刻む。
「いいね、そのまま。次――消えた声たちがひとつに繋がって……」
チハル先輩は鼻歌混じりにハモリをつけた。
「砕けた心は欠けた星屑になって〜 この部屋でお互いを照らし合う〜♪」
ふざけたように見えて、その瞳は誰よりも真剣だった。
ミオ先輩は腕を組んだまま聞いていて、
低く一言つぶやいた。
「……言葉のリズムが、旋律に乗ると一層力を帯びるわね。」
私は思わず、手にした原稿を見下ろした。
――私の文章が……本当に歌になっていく。
ユイはチハル先輩の妙なハモリを制しながら、
私に向かって小さく微笑んだ。
「ね? 冗談じゃなかったでしょ。
ハナエ、君の言葉は歌になっても、生きてる。」
部室には本棚やインクの匂いじゃなく、
生まれたての息吹が満ちていた。
そしてその中で、私は初めて確信した。
――雨音でも、ハナエでも構わない。
今この瞬間だけは、紛れもなく「私の声」だ。
さっきまで笑いと旋律に満ちていた空間に、
ふいに――張りつめた沈黙が落ちた。
きっかけは、チハル先輩の何気ない一言だった。
「……やっぱりそっくりだよね。
ハナエの文章、雨音さんの作品にほんと似てる。」
――次の瞬間。
ミオ先輩が、腕をほどきながら低く言った。
「似てるんじゃない……同じなんでしょ。」
空気が、一瞬で凍りついた。
時計の秒針の音さえ止まったようだった。
私は原稿を握る手のひらに、
汗がじわりとにじむのを感じていた。
――……もう、隠し通せない。
心臓が舞台の大太鼓みたいに鳴り響く中、
私は静かに口を開いた。
「……そうです。」
三人の視線が、一斉に私に突き刺さった。
震える声で、それでもまっすぐに言った。
「私が……**紫乃 雨音**です。
毎晩九時に小説を投稿していた“夜九時の人”。
今まで隠してきた名前は……私自身なんです。」
チハル先輩は目を丸くし、唇をぱくぱくさせた。
「え、えええっ!? 本当なの!?
じゃあ私が毎晩楽しみにしてたあの作品、
全部ハナエが書いてたの……?」
驚きはすぐに込み上げる感情に変わり、
目尻が赤く滲んだ。
「すご……私、ずっとファンだったんだよ……ほんとに……!」
ユイはまるで知っていたかのように、
小さく息を吐いて私を見た。
そして頷きながら、微笑んだ。
「……やっと言ったね。ばか。」
その瞳には、叱るような色と――
あたたかな安堵が同時に宿っていた。
だがそのとき。
ミオ先輩が、ゆっくりと立ち上がった。
銀の瞳が、震えるようにきらめいていた。
「……紫乃 雨音。」
震える唇からこぼれたその名前には、
驚きと、そして抑えきれない熱が込められていた。
「……私ね、初めてあなたの作品を読んだときから、
ずっと惹き込まれてたの。
毎晩九時、あの作品を待つのが――
私の唯一の支えだった。」
その声は、震えていた。
けれど、確かな本気だった。
「高校に入ってから、
疲れ果てて机に向かっても何も読めない日々があったの。
でも、あなたの文章だけは不思議とすっと入ってきた。
一文読むだけで、また明日を耐えようって思えた。
涙がこぼれて机に突っ伏した夜もあった。
それでも、次の夜九時を待つ自分がいた。
――あなたの言葉が、私を支えてた。」
ミオ先輩の両手が、ぎゅっと握られた。
「だから……後輩たちに“言葉を信じて”って言えた。
私がまず、あなたの言葉を信じていたから。」
胸が、はち切れそうに熱くなった。
あれほど冷静だったミオ先輩の顔が――
今は、ひとりのファンとしての熱に満ちていた。
私は原稿を握る手を震わせながら、小さく呟いた。
「……先輩が、雨音のファンだったなんて……知らなかった。」
ミオ先輩は指先で目尻をそっと拭い、
静かに頷いた。
「ずっと目の前にいたのに、
毎回“作品を通してしか会えない”って思ってた。
でも、その人が……あなたになるなんて、想像もしなかった。」
チハル先輩は目元を拭いながら、涙混じりに笑った。
「なにこれ、まるでドラマじゃん……!
ミオちゃんがファンだったなんて〜!」
ユイは腕を組んだまま、じっと私を見て
ぽつりと呟いた。
「だから言ったでしょ。
ひとりで抱え込む必要なんてなかったのに。」
私は大きく息を吐いて、俯いた。
恐怖と解放感と涙でぐちゃぐちゃになった感情の中で、
――初めて、私は自分をまるごとさらけ出した。
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次回も21:00にお会いしましょう。]




