第10話 - 再び動く時計
夜九時。
スマートフォンのアラームが鳴った。
部室で約束したその時間――
けれど私は、机の前から一歩も動けずにいた。
ノートパソコンは点いていて、
真っ白な画面の上でカーソルが点滅していたが、
一文字も打ち込めなかった。
隣には原稿用紙が広げられていたけれど、
ペンはいまだ重たく、指先からこぼれ落ちそうに垂れ下がっていた。
ほんの数日前まで、たしかに私たちは声を合わせて笑っていたのに。
チハル先輩はふざけた文章でみんなを笑わせ、
ユイはぶつぶつ言いながらも、心のこもった言葉を残した。
ミオ先輩の硬質な文章は、私たち全員の呼吸を止めるほどだった。
それを歌にまでして、
言葉への信頼をさらに強めた。
表現の方法は一つじゃない――
そんな教訓も得ながら、私たちは少しずつ成長していたはずだった。
なのに今の私は、何もできなかった。
指先は凍りつき、
頭の中は空っぽだった。
止まった時計の前に、
自分ひとりだけが閉じ込められてしまったみたいだった。
――……止まっているのは、私だけ?
そのとき、スマートフォンに通知が届いた。
ユイからだった。
『ちょっと外に出てきて。話したいことがある』
画面に浮かぶ短い文字列が、まっすぐ胸に突き刺さった。
指先が、びくりと震えた。
「……話したいこと……?」
しばらくスマートフォンを見つめていた。
――まさか……**雨音**のこと?
胸がきゅっと締めつけられ、
ストッキングの中の脚が痺れるように固まっていく。
アラームは止まっても、
時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。
深く息を吸って、私はゆっくり立ち上がった。
校門近くに向かうと、
街灯の下に立つユイの姿が見えた。
彼女は両手をコートのポケットに突っ込んだまま、
呼吸を整えるように俯いていた。
私が近づくと、ユイはゆっくり顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、街灯に反射して揺れた。
「……来たんだね。」
その一言が、なぜか胸に深くしみ込んだ。
息を呑み、私はおそるおそる尋ねた。
「……話って、何?」
ユイは少しの沈黙のあと、
まっすぐに切り込んできた。
「……ハナエ。
今度こそ嘘じゃなく答えて。
君……**紫乃 雨音**なんでしょ?」
もう逃げ場はないと思った。
「……うん。」
その一言が唇を離れた瞬間、
隠してきたすべての時間が音を立てて崩れ落ちた。
街灯の光が揺れ、
冬の夜気が急に冷たく感じられた。
ユイは目を大きく見開き、私を見つめた。
眼鏡の奥の瞳が震え、
やがてとても慎重に、そっと言葉を紡いだ。
「……本当に……君が雨音だったの?」
声は鋭くも、責めるようでもなかった。
むしろ信じられないという驚きと、
ずっと胸の奥にあった疑念が解けていく気配だった。
私はゆっくり頷いた。
「そうだよ。
毎晩九時に小説を投稿していた――あの紫乃 雨音。」
心臓が、どくんと沈んだ。
この一言で、すべてが終わるかもしれない。
――それでも、不思議と初めて呼吸ができた気がした。
ユイはしばらく答えられず、唇だけが小さく動いた。
そして、ごく小さく――でも確かに言った。
「……ばか。」
涙を含んだような声だった。
彼女は視線をそらし、
ひとつ息をついたあと、
突然、私の腕をぎゅっと抱きしめた。
かばんの紐がぎしっと軋む音。
冷たい冬の空気の中で、
ユイの体温がふわりと私を包んだ。
「……なんで今まで言ってくれなかったの。
ずっと一人で抱え込んでたくせに……」
背中にかかる彼女の指先が、
まるでずっとこの瞬間を待っていたかのようだった。
私は驚いて固まっていたけれど、
その温もりが、
氷のように固まっていた胸の奥を少しずつ溶かしていった。
「……ユイ。」
彼女は肩を掴んだまま、
低い声でそっと囁いた。
「ひとりで背負わなくていいんだよ。
ハナエでも、雨音でも……
私は、君のそばにいるから。」
押しつぶされそうだった胸に、
小さな隙間がひらいていく気がした。
「……でも、ハナエ。」
「……なに?」
「先輩たちには……どうするの?」
心臓が、ひゅっと落ちた。
チハル先輩、ミオ先輩、そしてサワムラ先生。
もし私が雨音だと知ったら――あの人たちはどう思うだろう。
唇を噛んだまま、答えをためらった。
「……まだ、言う勇気がない。」
ユイは眼鏡の奥からじっと私を見つめ、
やがて静かに頷いた。
「……わかった。
じゃあしばらくは、私たちだけの秘密だね。」
そして、小さく笑った。
「その代わり、約束して。
ひとりで抱え込まないこと。
少なくとも、私には打ち明けること。」
その瞬間、胸の奥で固まっていた何かがほどけていくのを感じた。
「……うん。約束する。」
少しだけ気が楽になった気分で帰宅した私は、
ユイとの会話を何度も思い返していた。
――私たちだけの秘密。
初めて誰かと「本当の自分」を分かち合えたという実感が、
不思議なほど暖かく残っていた。
机の上の原稿用紙に目をやる。
さっきまで壁みたいに私を圧迫していた空白が、
今はもう違って見えた。
耳の奥で、ユイの声がよみがえる。
『ひとりで抱え込まないで。少なくとも、私には打ち明けて。』
私はそっとペンを取った。
指先の震えはまだ残っていたけれど、
少なくとも紙と向き合う勇気は戻ってきた。
――そうだ。まだ先輩たちには言えないけど……
少なくともユイに打ち明けられたって事実が、私を支えてくれる。
ペン先が紙をかすめ、最初の一文が残った。
「夜九時、また始まる声がある。」
短い一文だったけれど、
たしかにそれは、私自身の声だった。
翌日。
まだ先輩たちにどう伝えるか迷っていたとき――
ふと、雨音として書いた小説の一節がよみがえった。
二重の人生を生きる彼が、
愛する人に正体を打ち明けた方法は「歌」だった。
歌詞に自分の正体をさりげなく込め、
やがて信じ合える伴侶となる物語。
……そのとき、私はユイの席へ歩いていた。
彼女は教科書を広げていたけれど、
私の影が落ちると顔を上げた。
「なに、またぼーっとして。」
ぶつぶつした声。
でも、その瞳はやっぱりどこか優しかった。
小さく息を吸って、言った。
「ユイ。……もう一度、メロディを作ってくれない?」
ユイはぱちぱちと瞬きをした。
「メロディ? いきなり何それ。」
胸の奥に渦巻いていた確信を、そっと口にした。
「……どうやって伝えればいいか、やっとわかった気がする。
言葉だけじゃ無理。でも、歌なら――
嘘じゃなく伝えられる気がするの。
私の言葉と声、そして……君のメロディなら。」
ユイの瞳が一瞬、揺れた。
驚きと、理解と、
そしてどこか不思議な感情が入り混じったような揺らめき。
やがて、ふっと笑った。
「……ふふっ、やっぱりハナエらしいね。」
腕を組み、こくりと頷いた。
「いいよ。私がメロディを作る。
その代わり――逃げないでね。
最後まで、君の声で歌いきるんだから。」
私はしっかりと頷いた。
胸はまだ高鳴っていたけれど、
それはもう恐怖じゃなく、期待だった。
その後ユイは、文字どおり二晩を徹してメロディを作り上げた。
差し出されたその成果物には、
小さな疲労が滲んでいたけれど、
瞳だけはきらきらと輝いていた。
私はその指先を見つめながら、
まるで誓うように小さく呟いた。
「ありがとう、ユイ。
今度こそ……絶対に逃げない。」
夜。
部屋に戻った私は、
机に向かい、ノートパソコンと原稿用紙を見比べた。
紙はまだ重くのしかかっていたけれど――
今日は違った。
ユイがくれたメロディがあるだけで、
文字はもうただの文章じゃなく、
やがて歌になる予感に満ちていた。
私はペンを取り、
胸の奥に散らばった欠片たちを、一つひとつ書き留めていった。
「夜九時、止まった時計がまた動き出すとき……」
「消えた声たちがつながって、一つの物語になる……」
「二つの名前じゃなく、一つの心で歌いたい……」
「言葉を信じる私たち四人の声が、今夜一つの歌になる」
断片的な言葉たちが、紙の上に少しずつ積み重なっていった。
まだ完全な歌詞じゃなかったけれど、
文字たちはもうリズムに乗り始めていた。
まるで活字が、
メロディに寄り添って自然に流れ出すように。
指先の震えも少しずつ収まっていく。
今だけは――
「ハナエ」でも「雨音」でもない、
ただ“言葉を信じる私”として存在できていた。
ノートパソコンにカーソルを置き、
紙のフレーズをつなぎ合わせていく。
タタタッ、タタタッ――
キーボードの音が部屋に響いた。
それはもう恐怖じゃなかった。
新しい鼓動の音だった。
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次回も21:00にお会いしましょう。]




