第1話 - 九時で途切れた声
部屋に響いたのは、紙が裂ける音だけだった。
一枚。
また一枚。
指先がかすかに震える。
しわくちゃの原稿は、裂かれるたびに悲鳴のような音を立てた。
風ひとつない部屋の中、散らばった紙片は、ただの埃のように机や床へと落ちていく。
雪片と呼ぶには冷たくもなく、美しくもない。
それはまるで融雪剤をまかれた道路に、車に踏みつけられて汚れていく雪にすぎなかった。
机の端には一本の万年筆が置かれている。
父が最後に使っていたペン。
事故で突然この世を去ったあの日、病室で母が渡してくれた唯一の遺品だった。
黒い軸に細かい傷が残る古びたペン。
私はそれで文字を綴った。
文字を刻むことは、父の手のぬくもりを受け継ぐようで、やめられなかった。
幼い頃の記憶がよみがえる。
雨の日、父はよく窓辺に座って、本を読んでくれた。
「こんな表現はどうだ? 『風が吹く』じゃなくて、『風が歌う』って書いてみたら」
小さなノートには父の言葉が染み込んでいた。
その時間は、私にとって宝物だった。
けれど、その文章は誰にも届かなかった。
「なにこれ? つまんない」
「そんなの書いてないで、勉強しなよ」
「作家にでもなるつもり? 笑わせんな」
教室で私の原稿を盗み見たクラスメイトたちの嘲笑は、今も耳に刺さって離れない。
教師でさえ「作文なんて趣味で十分だ」と言って、ノートを閉じてしまった。
そして家では――
「華恵、もうやめなさい」
支えのはずだった母のため息は、重く、深かった。
「文章なんて結局なにも残さないわよ。お父さんだってそうだったじゃない。なにを残したっていうの」
私は言い返せなかった。
父は文章を愛したけれど、何ひとつ成し遂げられなかった。
彼の死後に残ったのは借金とため息、そして古びた万年筆だけ。
事故は偶然だったのか。
それとも、生活苦と文字への執着が招いた必然だったのか。
真実はもう知ることはできない。
だが母は、文章を「捨てるべきもの」と断じた。
だから私は、最後の原稿を破り捨てた。
「……はぁ」
息が漏れる。
机に突っ伏すと、くしゃくしゃの紙片が頬に触れた。
冷たくざらつく感触。
まるで自分の書いた言葉が、私自身を拒んでいるかのようだった。
部屋は静まり返っていた。
壁掛け時計の秒針だけが、カチ、カチと音を刻んでいる。
今は夜の九時。
世界が一日の幕を下ろす時刻。
けれど私の時間は、いつだってここで止まっていた。
再びペンを握る。
もう書かないと何度も誓ったはずなのに、書かなければ息が詰まりそうだった。
言葉が喉元まで込み上げて、吐き出さなければ窒息してしまう。
『また笑われたらどうしよう』
『母に見つかったらなんて言われるだろう』
思考が手を凍らせる。
ペン先からにじむインクは、もう文字ではなく恐怖そのものだった。
結局、また紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てる。
あふれた紙片が床に散乱し、足の踏み場すらなくなっていた。
椅子にもたれ、天井を見上げる。
白い天井に、ただ暗い影が落ちているだけ。
父の声が、かすかに聞こえた気がした。
「言葉は声なんだよ、華恵」
その声をつかもうとしたが、指の隙間から煙のように消えていった。
机の上の万年筆は、黙ったままそこにある。
光を失ったペン先が、私を見据えているようだった。
ぐしゃぐしゃの原稿でいっぱいのゴミ箱と机。
止まった時計。
夜九時という数字に囚われた一人の存在。
それが、今の私――川崎華恵だった。
学校に行ったからといって、なにも変わりはしなかった。
廊下はいつも通り騒がしい。
「新入部員、募集中です!」
「おーい、合唱部入らないか!」
「放送部に入れば、校内DJ体験もできるよー!」
元気な声が四方八方から飛び交い、耳を刺した。
私の手にもビラが数枚握られていたが、すでにポケットの中でしわくちゃになっていた。
紙が擦れるたびに、昨夜破った原稿を思い出す。
「まだ部活決めてないの?」
横から声をかけてきたのは、高嶺結衣。
中学の頃からの友人だ。
きちんと座っている姿勢と違い、彼女の瞳はいつも現実的だった。
「また文芸部に入るつもり?」
私は答えを飲み込む。
結衣は苦笑して肩をすくめた。
「華恵、また傷つきたいの? あなたの文章が掲示板に貼られたときのこと、忘れたわけじゃないでしょ。あのときも結局、笑われただけだったじゃない」
軽い調子で言った言葉だったが、その声には心配がにじんでいた。
しばらく沈黙の後、彼女は視線を逸らしたまま付け加える。
「……それに聞いた? 文芸部、この前廃部届が出されたって。顧問もいないし、部員もいないから、もうすぐなくなるらしいよ」
胸がひやりと沈む。
廃部。やっぱり、もう終わった部活だったのか。
「それでも、あんたが行くって言うなら、送ってあげる。……それくらいならしてあげる」
冷たく聞こえたが、それは彼女なりの気遣いだった。
私はうつむき、くしゃくしゃになったビラを鞄の奥へ押し込む。
『大丈夫。今度は入らない。本当に』
そう決意したはずなのに、「文芸部」という言葉が頭をよぎった瞬間、心臓はまだ早鐘を打っていた。
放課後、結衣は結局私を特別棟まで連れてきた。
「勘違いしないでよ。私は見送りなだけだから」
「わかってる」
特別棟の一番奥。
色あせた看板がかかる教室の扉。剥げかけたペンキの下に、たしかに文字が残っていた。
『9時に読んで!』
「……文芸部」
取っ手に手をかけ、ためらったそのとき――
中から本棚をめくる音が聞こえた。
そして、低く凛とした声。
「ここはまだ文芸部よ。廃部届なんて受け付けない」
その口調には、意地と誇り、そして淡い孤独が滲んでいた。
私は息を整え、取っ手を握りしめる。
この扉を開ければ、また傷つくだけなのか。
それとも、初めて私の声を聞いてくれる誰かなのか。
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次回も21:00にお会いしましょう。]




