6話 早くなんとかしないと
「うっ……おぇ……はぁ、はぁ」
朝に食べたご飯を全てトイレの中に吐き出す。
息を整えて落ち着いた後、洗面所で口の中に残っている吐瀉物を水で洗い流した。
「気持ちが悪い」
誰もいないトイレの中で一人ぼやく。
胃がむかむかしていて、胸が重く、気分は最悪だった。
そうなっている原因の彼女は、今頃クラスメイトたちから質問攻めに合い、教室はさぞ盛り上がっているだろう。全くもって腹が立つ。
担任が気を利かせたのか、一限目の授業は中止となり、自習という名の転校生タイムに突入した。担任曰く、「早めにクラスメイトとの仲を深めた方がいいだろう」という如何にも教師らしい気遣いだった。
そんな中、僕はトイレという名目で一目散にその場から逃げ出した。蘇芳の隣である僕がその場にいると、彼女と話したい人達の邪魔になってしまうからね。
【モブの流儀その11】
場の空気を読むべし。
例えば、一軍又は二軍の男子か女子が僕の席で駄弁っていたとしよう。そこで僕が空気を読まず、「そこ、僕の席なんだけど」と言ってしまえば途端に空気が悪くなり、敵意や悪意を向けられてしまう。
「あ~ごめ~ん」と気軽に謝って退いてくれるのなら問題ないけど、七割方は「はっ? 何言ってんのこいつ?」とか「ダルいんですけど~」や「そういうの冷めるわ~」と場の空気が凍ってしまう。
触らぬ神に祟りなしというけれど、そういう時は自分から声をかけずその人達が大人しく消えるのをじっと待つんだ。
その他にも、運動会の練習や文化祭の出し物で居残りが発生してしまったとしよう。「皆で一致団結して頑張ろうぜ!」と盛り上がっていて、居残り参加を強制されるような流れになった時、「僕は用事があるから帰るね」なんてことは絶対にやってはならない。
協調性がないと思われ、僕が帰った途端に僕への陰口が始まってしまうからだ。「あいつ勝手だよな、皆で頑張ろうってのに何考えてんだよ」といった具合にね。
一度そうなってしまったら、クラスの輪から弾き出されてしまう。目の敵にされてしまう。村八分にされてしまう。
だからそういう場面になったら、帰らず参加して無難に付き合っていたほうがいい。個人的には参加したくはないけどね。
今教室では、蘇芳アカネのもとへ生徒達が殺到していることだろう。そんな時に僕がのほほんと席に座っていたら、蘇芳と話したい生徒達の邪魔になってしまう。
「こいつ邪魔だな、どっかいけよ」と言われる前に、男子トイレに逃げ込んだという訳さ。
まぁ、理由は逃げ込んだだけではなくて、頭と心の整理をしたかったというのもある。一人で落ちつけるような場所で、一旦冷静になりたかった。
「ふぅ……これからどうするか」
蘇芳アカネは僕にとって爆弾だ。
こちらから接触しなくとも、あちらから接触してきたら終わってしまう。大勢の男子や、山田や野口といった友達からも嫉妬されてしまう。「蘇芳と話せていいなぁ」と。
もっと悪く厄介で最悪な展開は、「ラブコメの主人公」である八神の物語に僕が巻き込まれてしまうことだ。
わざわざご都合良く用意されていた、八神の隣の席というフラグを見事にへし折った蘇芳。しかしそれだけでは、八神の物語からは逃れられない。
僕の予想では、八神は一目惚れに近い好意を蘇芳に抱いていると思う。彼の中では蘇芳アカネが既にヒロインに成っているんだ。
そんなヒロインが、一人の男子を気になっていたとしたら?
そうなったらモブとしてはいられない。ただのモブから「ラブコメの主人公」の「敵役」に昇格されて、強制的に彼の物語に引き摺り込まれてしまうだろう。それだけはあってはならない。それだけは回避しなければならない。
そうなったらもう二度とモブには戻れない。平穏平凡な学園生活は終了し、何もかも終わってしまう。
「やれる、まだ終わらない。終わってたまるか」
僕がこれから取るべき行動は、なるべく無難にやり過ごすこと。落ち着いて対処すること。蘇芳から取るに足らない、興味が失せるような立ち位置になることだ。恐らくあのタイプは、一度興味が失せてしまった人間とは関わろうとしないだろう。
そういう方向に持っていくことが、モブとして生きる為の唯一の活路だ。
「あの転校生、マジ可愛かったなぁ」
「カリスマモデルだってよ」
「良いよな~あのクラス。俺のクラスに来て欲しかったわ~」
(一限目の授業が終わったのか……)
ずっと考えて込んでいたら、男子トイレに他のクラスの男子が転校生の話をしながら入ってくる。いつの間にか一限目の授業が終わり、小休憩となったのだろう。
だけどまだ、教室に戻るべきではない。今戻ったとしても、未だに蘇芳の席には人だかりができているだろうからね。
戻るなら、二限目の授業が始まるギリギリのタイミングがベストだ。
僕はトイレから出て廊下に立ち止まり、時間を潰して教科担当の教師が教室に入った頃を見計らって戻る。
「「……」」
(なんだ、何だその視線は?)
教室に戻った瞬間、複数の生徒達から異様な視線を感じる。
担当教科の教師が来たから生徒達は自分の席に戻っていて、蘇芳の周りに人はいないけれど、教室に戻ってきた僕に対して不可解な視線を送っていた。
まさか、この女が何か言ったのか? 僕について、クラスの皆にいったい何を話した?
非常に気になる。気になるけれど、僕はわざと気付かないフリをして何事もなかったかのように振る舞いながら自分の席に座った。
「あら、今までどこに行っていたのかしら?」
早速話しかけてきたな。
が、ここで動揺してはならない。
「ちょっとトイレにね」
「へぇ、随分と長いトイレね。よっぽど大きかったのかしら」
(こいつ……)
よく見ているな。そしてやはり、僕に対して一定の興味を抱いている。とても厄介なことにね。
「まあね。大変だったよ」
話を続けてはならない。強制的に会話を途切れさすんだ。無難なことを言って、なるべく興味を失わせる。
しかし、折角人が会話を終わらせようとするのに蘇芳は再び僕に話しかけてくる。
「ねぇ、教科書見せてくれないかしら。転校してきたばかりだから、まだ教材を受け取っていないのよ」
(何故わざわざ僕に頼むんだ。違う奴に借りておけよ。そのチャンスは今までに十分あっただろうが)
ほら見てよ、僕とは反対の隣の席にいる二軍男子野球部員坊主の畠山が一生懸命アピールしているじゃないか。これ見よがしに教科書を君に見せているじゃないか。「俺が貸してやろうか?」って感じでさ。
だが悲しいことに、蘇芳は畠山のことを一切見向きもせず僕に頼んでいる。断りたいところだけど、ここで断ったらクラスメイトに悪印象を与えてしまう。だから妥協する。
「それじゃあ僕の教科書を貸すよ」
「それじゃあアナタが見られないじゃない」
「大丈夫、気にしないで」
いいから早く受け取れよ。
それと畠山、地味なアピールしてないで「俺が貸してやるよ」ぐらい言えよ。何をチキッているんだ君は。早く僕を助けろ。
「あ~、そう」
(よし、やっと興味が失せたな)
「なら、こうしましょう」
(はっ?)
突然に、唐突に、蘇芳は自分の席を僕の席にくっつけた。ガンッと響くような音を立てて、無理矢理僕に近付いてきた。
そうしてから、やはりいたずら好きな悪魔のように口角を上げてこう告げるのだ。
「これなら一緒に見られるわよね?」
「そ、そうだね」
分かった、分かったよ。
蘇芳アカネには今までの常識が通じない。型が通じない。こちらがどれだけ壁を作ろうとも、平気でぶっ壊してくる。
結論を言おう。
早くなんとかしないと駄目だ。