33.予言通りに訪れる災難
「はっ、はっ……」
「廊下を走っては駄目です! 側妃殿下!」
今日は兄が会いに来る日。もう到着しているころなので、一刻も早く会いたくて、侍女たちの静止を無視して廊下を走るリナジェイン。視線の先で、背が高い男が話している後ろ姿を見つけ、兄だと思って思い切り抱きつく。
「――!?」
「兄さんっ! 会いたかったぁ」
ぎゅっと抱き締めて顔を擦り寄せる。
あれ? でも何か、いつもよりがっしりしているような。そう思って顔を恐る恐る上げると、シュナが無愛想にこちらを見下ろしていた。
「へ、陛下……!?」
「私は兄さんではない」
「ご、ごごごごごめんなさい……!」
「兄と思ったら誰彼構わず抱きつくのか? 気をつけろ」
慌てて体を離そうとするが、なぜか彼が解放してくれない。リナジェインも一度ぎゅっと彼のことを抱き締めて、小さくはにかむ。
「私……陛下にも会いたかったですよ?」
「…………」
そのとき、彼の唇がわずかに緩んだが、リナジェインは気が付かなかった。そのまま彼から離れて、「それではまた後で!」と満面の笑みで手を振り、走り去る。残されたシュナは赤面させながら額を手で押さえるのだった。
アージェリアとフォンディーノ公爵は、政権の転覆を謀った罪で裁かれた。爵位から財産まで全てを没収され、フォンディーノ公爵は死罪に、アージェリアは国外追放になった。
そして、リナジェインは永遠にフォンディーノ公爵とは無縁の者として、その姓を捨て生きていくことになった。
「最近、随分浮かれてるんじゃない? リナ」
「えっ、そ、そんなことないよ。ふ、ふふふふ普通だよ!」
応接間で兄と向かい合いながら談笑していたら、突然そんなことを言われて戸惑う。曖昧に笑ってはぐらかしたが、事実かなり浮かれている。歩いていて壁にぶつかるし、階段を踏み外したり、コップの水を飲み損じて零したり……。注意力がいつになく散漫になっている。
「さては、陛下と何かあったな?」
「なっ……!?」
「やっぱり」
顔を紅潮させたリナジェインを見て、ユリウスは「分かりやすい奴」とくすくす笑った。その通り。遂にシュナと、想いを通わせることができたのだ。
それが嬉しくてずっと浮ついている。誘拐されておきながら、自分は本当に呑気だと思う。
相変わらず、兄として接してくるユリウス。シュナとの進展を知っても、表情を変えない。
「ま、お前が幸せそうで何よりだよ。陛下にひどいことされたらいつでも俺を頼りな」
「……何をするつもり?」
「あらゆる手を使って鉄槌を下す」
「怖い」
そして相変わらず、妹のことになると少々過激だ。彼なら誰が相手でも本当に報復しかねないので恐ろしい。
「だ、だめだよ兄さん」
「ふふ、冗談さ」
ちっとも冗談を言っている感じではない。目が据わっている。リナジェインが呆れていると、彼が言った。
「だから、俺が手を下すより先に、陛下にくたばってもらう訳にはいかないね」
「……うん」
シュナは、この契約期間中に死ぬ可能性がある。今のところ、何が要因なのかは分かっていない。フォンディーノ公爵家との勢力争いが関係しているかと考えもしたが、争いになる前に公爵家は没落した。
政治に疎いリナジェインでは、ヴァーグナー家にどれだけ脅威となる存在がいるのか知らない。
(勢力争い以外だと、事故や病気に……自然災害とか?)
あれこれと思案してみる。
しかし、その瞬間は突然訪れた。
ユリウスと話している最中、急に異変を感じた。
「うっ……」
片手で口元を抑え、顔をしかめる。身体をふらつかせ、テーブルにもう片手を着いて支えた。
「――げほっ、けほ……うっ。ごほっ」
「リナ!? どうしたんだ?」
ユリウスがこちらに駆け寄り背中をさすってくれる。けれど、苦痛は収まらず、涙目になりながら咳き込み続けた。むせ返るような、強烈な死の匂いが鼻を刺す。
(この匂いは……煙)
死の匂いは、死因によって異なる。リナジェインにユリウス、扉の外にいるであろう使用人たちからも強い煙の匂いがする。
「煙臭い……兄さんは何にも感じないの!?」
「ああ。感じないよ。ってことは……」
焦げ臭くて、鼻や喉の奥が焼けるように痛い。そして自分しか感じていない。これは恐らく――
「火事が起こる……。宮殿が燃えちゃう、どうしよう兄さん……! げほっ」
「なんだって……!?」
よろめきながら立ち上がり、窓を開け放つ。すると、城下に広がる街からも、かつて感じたことがないほどの匂いが漂ってきた。
皇都で大火災が起こる。それも、大勢の死者を出して。都市は建物が密集しており、今日は乾いた東風が強く吹いているので、よく燃えることだろう。
(陛下に至急お伝えしなくちゃ! 皆が死んでしまう前に……!)
兄に支えながら応接間を出ようとするが、扉の前で崩れ落ちる。咳き込みすぎて、えずきはじめる。ユリウスは、肩を上下させながら激しく苦しむリナジェインの身体を支えて、口にハンカチをあてがい背中をさすった。
「まず落ち着いて。ゆっくり息を吸って、吐いて……」
「ふ……はっ……ぁ」
「そう。上手だ」
ひどく取り乱してしまったが、彼のおかげで少し冷静さを取り戻し、呼吸も落ち着いた。煙臭くはあるが、これはあくまで本物の煙ではなく、危険を知らせるための擬似的なものだ。
呼吸を整えて、執務室へ向かった。
◇◇◇
「皇都で大火災……か」
「宮殿も甚大な被害になりそうです。廊下ですれ違った人たちも、このままでは全員……」
シュナからも死の匂いがする。彼だけでなく、ロイゼや部下たちからも。きっと、これから起こるのは未曾有の大火災だ。
動揺するリナジェインとは裏腹に、シュナは落ち着いた様子で言った。
「皇都の民たちに避難勧告を出す。ロイゼ、消防隊に至急伝達を」
「御意」
執務室の窓からは、街を一望できるが、どこからも火は上がっていない。
まだ火事が起こっていないなら、未然に防げるかもしれない。人と違う嗅覚を持つ自分なら、火事が起こる場所を特定し、出火する前に直接対処したり、あるいは延焼を防ぐことができるかもしれない。
「陛下。何名かの兵士と馬をお借りできませんか」
「何をする気だ?」
「火元を特定し、出火を防ぎます」
「駄目だ。危険すぎる。お前は安全なところに逃げろ」
「私はこの国の唯一の妃です。ヴァーグナー家の者として、民衆を守る義務があります。行かせてください!」
すると、ユリウスが名乗りを上げた。
「俺が同行します。陛下は宮殿に残り、皆に指示を」
「だが……」
厳しい表情で逡巡したが、間もなく結論を出した。
「必ず生きて帰れ」
「はい」
シュナはリナジェインの目の前まで歩いてきて、肩に手を乗せて「無茶はするな」と言った。彼の言葉に頷き、ユリウスと複数名の兵士を連れて宮殿を出た。




