約束は破るためにある 2
サリア嬢と結婚して、3ヶ月がたつ。俺は、彼女と結婚する際に取り決めた契約を破棄したことを、未だ彼女に伝えられないでいた。
一つ、夫婦は白い結婚である。互いに干渉せず、求めず、自由であること。
一つ、お互いパートナーが現れた際は、これを認め、第二夫人、愛人とする。
一つ、第二夫人との子を跡継ぎとする。
一つ、サリア様は内政、ないしは領内のあらゆる権限をゲルド様へ譲渡する。
一つ、それにあたり、ゲルド様はサリア様から求められた金銭その他生活を保証する。
この契約書のみを破棄したため、結婚自体はしている。つまり、サリア嬢は既に俺の妻と言うことになるのだが、…契約あっての結婚なのだ。サリア嬢に知られれば、離縁される可能性がある。
「いや、言わないのは不誠実でしょう。」
「…わかっている。」
サリア嬢の為に準備した離れに向かう俺の後ろから、従者のアルフが呆れたようにため息をついてくる。ため息をつきたいのは俺の方だ。…まさか、フラウの蟇蛙が魔法で作られた幻だと誰が思うんだ。
だが、サリア嬢からすれば、女の見た目で態度を変える様な男で。本当の夫婦になりたいからと、勝手に契約を破棄する不誠実な男だ。
それに、あんな…いや、だが言わないわけにもいかない。しかし、言えばサリア嬢は俺と離縁を…考えただけで心臓が痛む。悶々と、しかし脚だけは離れに向かい歩みを止めず。気付けば簡素な屋敷が見えてきていた。
近付くにつれ、庭から楽しそうな笑い声や歌が聞こえてくる。サリア嬢は侍女のジェイスと二人でこの離れに住んでいる。勿論、他に使用人を入れるよう声はかけたのだが、自分達だけで良いと突っぱねられてしまった。
庭先に回ると、色とりどりの布が青空の中風に遊んでいる。紐に括られるわけでもなく、ひらひらと宙に浮き、踊るように戻ってくる。大きさも色もバラバラなそれらは、しかし自然な風合いで統一され、目に優しくただ美しい。
「あ、旦那様。」
声のした方を見て、息を呑んだ。サリア嬢は、大きな盥に水を張り、布を踏みしめている、の、だが。そのっ…。太股までスカートの裾を持ち上げている所為で、柔らかそうな白い脚が見えている。サリア嬢はそれを気にも留めていないのか、俺を見てにこにこと上機嫌に笑っていて。尚更目が離せなく
「んんっ、ごほん。」
背後のアルフからの圧と露骨な咳に、ハッとして目を逸らす。じわじわと自分の顔が熱を持ってきているのがわかる。
「旦那様、何かご用ですか?」
作業をやめる気は無いのか、盥の中の布を踏みしめながら、サリア嬢が声をかけてくる。合いの手のようにジェイスが水を注ぎ込んで。その、いいのかそれは。主人の肌が男の目に晒されているんが?
「ああ、少し、…話があったんだが。それはなにをしているんだ?」
「これですか?離れの庭に、染め物に使える木の実や植物が沢山ありまして。剪定して、棄てるのは勿体ないのでファブリックに使おうかと。染めてるんです。」
なるほど。よくよく見れば、周りに大鍋や塩、鉄、糸等も纏めておいてあった。
「!っ、…。そうか。それは良いな。」
盥の脇に、置いてあるタオル。と、その上にサリア嬢の物であろう長靴下が無造作に乗っていて慌てて目を逸らし、何事もなかったかのように返事をする。
「もう濯ぎなので、乾かしたら完成ですよ!」
ちら、と楽しそうなサリア嬢をみると、持ち上げたスカートの揺れに合わせて、ガーターベルトの留め具が揺れていて。白い太股に紅いベルトが映えている。無意識にその上を想像しそうになって…、ガン、と、踵を蹴り飛ばされた。後ろを振り返ると、口パクで『むっつり』と罵られた。アルフテメェ…。
「っ、あーっと、だな。話があるんだが、いいか?」
「なんでしょう?ちょっとお待ちを。」
サリア嬢が樽から降りる瞬間、残像のようにジェイスの手元がブレる。瞬きの間に身支度を整えたサリア嬢が、こちらに歩いてきて。そのままジェイスは後ろに控えている。
「…ジェイスも、か。」
どうやら何かしらの力があるのはサリア嬢だけではないようだ。
離れの庭にあるガゼボからも、色取り取りの布が舞う様が見える。
「王都のような華やかな物は出せませんが、よろしければどうぞ。」
出された茶請けは、何やら見たことのないもので。薄くきつね色で香ばしい香りがする。
「甘い物、苦手ですよね。ワインで良いですか?」
「…ああ。ありがとう。」
知っていたのか。…いや、夫になる相手の趣味趣向位は調べるよな。深い意味はない、はずだ。軽く焼き上げられているそれを食べると、濃厚なチーズの味。…ワインに合うな。思わず無言で食べると、ジェイスがサリア嬢に入れる紅茶の香りが運ばれてくる。
「貴女は、酒は…」
「飲みません。紅茶の方が好きです。」
「そうか。」
…俺は、サリア嬢の趣味趣向を、知らない。婚前には、調べてすらいない。この3ヶ月も、戦後休暇と新婚と言うことで休みを取らされたが、領地の事と…サリア嬢との契約の事で手一杯だった。
「それで、話とは?」
「ん、ああ。…貴女には申し訳ないが、そろそろ夜会に出席しないかと。殿下から招待状が届いているんだが…。」
「なるほど。わかりました。どちらにします?」
「どちら、とは?」
断られるかと思ったが、流石に殿下からであればそうもいかないか。ただ、どちらというのは何だ?
「フラウの蟇蛙と、このままと。どちらにします?」
「…はっ?あ、そ…うか。いやまて。貴女はあの噂を知っているのか、」
「あの噂を流したのは私です。」
さらっと、なんてこともないように告げられた、サリア嬢の言葉に絶句する。…なぜ、そんな自分を貶めるような、
「私は結婚したくなかった。夜会には必要最低限の出席で留めています。それでも参加する度に届く縁談も煩わしい。独身貴族になりたかったので。まぁ、私の立場で不可能なことはわかってましたが。でも、諦めたくなかった。」
だから噂を流した。『辺境フラウ領にいる蟇蛙』の話を。縁談など、寄越す気も起きないような女の話を。父は私の提案を笑って受け入れ、『見極め』に利用することにした。そして、断れない夜会には、元の姿で参加する。その繰り返しで、噂は錯綜する。
例えば、フラウ領には隠し子がいる。とか。噂の真偽を確かめない二流など話にならない。嬉々として噂を広げる者など信用に値しない。
そうやって『遊んで』いる間に噂は国中に広がって。
「今回の結婚は、アリス様に填められたというか、何というか…。まぁ、今となっては、ゲルド様が旦那様で良かったです。」
嬉しそうに微笑まれて、心臓が鷲掴みされたように痛む。まて、それどころじゃない単語がちらほらと出ているのだ。アリス様とは殿下の妻だろう、填められたとはどういうことだ。静まれ動悸。呻く俺を不思議そうに見ているサリア嬢に、咳払いをして誤魔化す。
「そうだな。俺も、その。ッサリア、が妻になってくれて、良かった。」
熱い顔を押さえ、紡ぐ俺の言葉に。花が綻ぶように笑うサリア嬢。無理矢理抑えた心臓が、また鳴り出す。
「ですよね!なかなか利害の一致する相手なんていませんから。あ、もし第二夫人になる方が決まったら、早めにご連絡ください!応援してます!」
握り拳を作り勇ましく言い放たれた言葉に、今度は冷水をかけられたように血の気がひく。
「そ、っ…。う、だな。」
なんとか吐き出した言葉は、震えていた。いま、言うべきではないか。契約は破棄していると。…いや、サリア嬢が言ったばかりだ。結婚はしたくない。利害の一致だと。サリア嬢は、俺に『夫』を求めてはいない。
「とにかく、夜会には今のままで頼む。」
「わかりました。」
そんな状態で、契約の話など俺の絶望を喚ぶだけだ。どうにか、俺と結婚したいと思わせなければ。…既に書類上では夫婦だというのに、おかしな話だが。