幼馴染を「ツガイ」から攫って逃げようと思います!
元々、ミアと私はそれほど仲がいいわけではなかった。
お互い物心ついた頃には孤児院にいたし、歳も同じくらいだったから何かと関わりも多く、一緒に過ごした時間は他の誰よりも長い。けれど、だから良好な関係性を築けるかといえばそれはまた別の話で、彼女は何が気に入らないのかことあるごとに意地悪をしたり、私に突っかかってきた。小さい頃は何度も彼女に泣かされた。
はっきり言えば、私は幼少期、ミアのことが苦手だった。
「ええー。リアーナって虫が怖いの?」
「やだ、近づけないで」
「こんなのが怖いなんて信じられない。ちょっと触ってみなよ、ほら!」
何やら足の本数が異常に多い奇妙な虫を持って追いかけられたときは、死に物狂いで逃げた記憶がある。虫は嫌いだ。足の多い虫は特に。その時は癖のある赤毛を振り乱して追ってくるミアが悪魔のように見えた。
孤児院の先生に聞いてみたことがある。
「どうして、ミアは私に意地悪ばっかりするの? 私、何にもしてないのに」
ミアは気が強くて他の子に対してもキツイ態度をとりがちではあったけれど、幼稚な嫌がらせを行うのは私にだけだった。
先生は私の問いに少し考えた後、こんなふうに答えた。
「もしかしたら、親からもらった名前が羨ましいのかもね」
ミアの名前は孤児院の先生がつけたものだ。まだ名前のついてない、もしくは名前がわからない赤ん坊を引き取った場合は、孤児院で名付けを行う。けれど、私が孤児院の前で発見された時は、おくるみに「リアーナ」と記された羊皮紙が添えられていたらしい。私の名前はおそらく親がつけたものなのだろう。
とはいえ、名前をつけようとつけまいと子供を捨てたことには変わりない。親による名付けを羨む感覚は私にはよくわからなかった。
私たちがいた孤児院では10歳以上になると、将来社会に出た時の助けになるよう、簡単な教育を受けることになっていた。内容は簡単な計算と読み書き、女子なら裁縫の訓練などだ。
この頃になってもミアはやっぱり私に突っかかってくることが多かったけれど、泣かされたりすることは無くなっていたし、関係性は以前ほど悪くなかった。ミアに反撃ができるようになったことが大きかったのだろう。むしろ言い争ったり張り合いながらも何かと一緒にいることが多いために、周りには「仲良し」だと認識されていたようだ。実際は特に仲がいいわけではなく、気が強すぎるきらいのあるミアと大人しすぎる私では他に友達ができず、あぶれたもの同士なんとなく二人でいたというだけの話なのだけど。
「あんた、刺繍はなかなかやるじゃん。まあ、負けないけど……?」
裁縫の時間、ミアはそんな言葉を投げかけてきた。相変わらずの負けず嫌いだ。彼女の手元をチラリと見やり、白いハンカチに描かれたおぞましい絵柄に思わず身を引く。
「ミア、それ何の刺繍? まさか、百足ゲジゲジ虫……?」
「ライオーン草に決まってるでしょ! 黄色と緑なのに、ゲジゲジ虫なわけない!」
「ゲジゲジ虫を芸術的な色彩で描いたのかと」
先ほどヴィオレッタ草の刺繍を施したハンカチを手に持ち、「ほら、私ってこういう平凡な刺繍しかできないからさ。そういう芸術的なのってよくわからないんだ……」とヒラヒラ振ってみせると、ミアは悔しそうに唇を引き結んだ。
ミアは刺繍が苦手だ。というより、裁縫全般が苦手だった。不器用なのだと思う。その代わり文字の読み書きや算術なんかは得意で、私とは正反対だった。
お互いにライバル視していたこともあり「こいつにできることが自分にできないでたまるか」と、私たちは苦手分野を必死に練習した。結果として、私の読み書き計算能力は向上したが、ミアの裁縫技術はひどいままだった。
ところで、例え読み書きや算術が得意であっても、孤児がそれを活かせる職につける可能性は低い。読み書き等は日常生活で不便がない程度に身につけるが、職に直接結びつくのは裁縫の腕だ。だから、先生たちは手先が不器用なミアの将来を心配していた。
転機になったのは、貴族令嬢の孤児院訪問だった。
奉仕活動の一環で私たちが暮らす孤児院に訪れた貴族のお嬢さん——レイラ様は、どうやら子供好きだったらしい。ニコニコ笑いながら私たちに魔法を披露してくれた。
魔法というのは庶民には馴染みがないもので、私も見たのは初めてだった。彼女が右手の人差し指を軽く振って見せると、それに合わせてクルクル、キラキラと光の妖精が踊る。私たちは時間も忘れて魔法に見入った。そしてこの時、光が舞い踊る幻想的な光景を一際真剣に眺めていたのがミアだった。
一通り終わってレイラ様が一礼すると、ミアは、自分にも魔法を教えてほしいとねだった。
「教えてあげたいのは山々なのだけど、元々平民には魔力が少ないから教えたとしても魔法を使うことは難しいと思うわ。ごめんなさいね」
申し訳なさそうにそう口にしたレイラ様。しかし、ミアは食い下がった。
「それでもやってみたいんです! お願いします……!」
しつこく頼み込み、とうとうミアは魔法の訓練を受ける約束を取り付けることに成功した。そして驚くことに、ミアには魔法の才能があった。
レイラ様が言った通り、私を含め、訓練を受けたほとんどの子供は魔法が発動しなかった。お手本を真似て右手を振っても、何も起こらない。
しかしミアだけは違った。ミアが人差し指を立ててスッと動かすと、現れた光が指の動きに合わせてゆらり、と動き、徐々に薄れて消えていった。
周囲はにわかに盛り上がり、レイラ様は呆然としていた。曰く、貴族でも最初から魔法が発動することはそうないのだとか。
レイラ様は暗くなる前に帰ってしまったが、以降も度々孤児院を訪れた。ミアはその度に魔法の手解きを受け、みるみるうちに魔法の威力、技術共に向上していった。
「リアーナって魔法の使い方が本当になってない! ちょっとこっちに来なよ、教えてあげるから」
私はレイラ様に指導を受けている子供の中では優秀な方だったが、それはあくまでミアを除けばの話だ。ミアからすれば、私の魔法などは全く話にならないようなものだったに違いない。
悔しさはあるにはあったが、才能の差は誰の目から見ても明らかだった。元々平民で孤児の自分が魔法に向いているわけがないとの意識もあったので、ミアに張り合う気はなく、ささやかな魔法を使えるだけで満足していた。けれどミアは違った。放っておけばいいのに、なぜか私に魔法の訓練をつけ始めたのだ。
「ほら、レイラ様も言ってたでしょ。魔法っていうのはイメージが大事なんだから、この枝が燃える様子を頭に思い描いて」
「やってるつもりなんだけど……」
「不十分なの! ほら、集中」
指導の熱心さを訝しく思いながら「平民なんだし、魔法が使えなくたって別にいいと思うんだけど」と溢すと、ミアは「平民が魔法を使えないなんていうのは貴族が勝手に言ってるだけの思い込み。そんなの理由にならないから」と、問題発言とも取られかねないことを言っていた。
数ヶ月間の厳しい指導を受けた甲斐あって、ミアに「まあ、それなりにはなったんじゃない?」とお墨付きをもらえる程度には、私の魔法の腕は上達した。
「魔法、教えてくれてありがとうね。ミアがいなかったらここまで上達しなかったと思う」
お礼を言うと、ミアはふい、とそっぽを向いてしまった。
そのまま黙り込んでしまった彼女の、かすかに赤くなった横顔をじっと見つめていると、彼女が口を開く。
「私さ、冒険者になろうと思うんだ……」
思わず目を見開いた。
冒険者というのは、冒険者ギルド等を通じて素材採取や魔物討伐などの依頼を受け、報酬を得る職業。成功すれば若くして財を成すことも可能だが、常に危険と隣り合わせで、相当な腕がないと生きていくことすら困難だ。
「私、裁縫がうまくないから。手先も不器用だし。だからみんなが働くような、お店とか工場で働くのは難しいと思う。だけど、冒険者になれば魔法を活かせるし、多分なんとかやっていけると思うの」
「そうなんだ……」
危険なんじゃないか。やめておいた方がいいんじゃないか。そんな風に思ったけれど、それがミアの意思なら、私には何も言えなかった。どういう顔をしていいか迷ってなんとなく目線を下げる私に、ミアはこう言い放った。
「だから……もし、あなたが私についてきたいなら、一緒に冒険者をやってあげてもいいけど!」
急に声の音量が上がったことに驚き、ふと顔を上げる。ミアは、はっきりとわかるくらいに顔を赤くしていた。
——それはなんとも彼女らしい、素直じゃない誘い方だった。
ちらりと目線だけでこちらを伺うミア。不安を隠しきれていないその表情を見て、なんだか可笑しくなる。
そんな顔をするくらいなら、もう少し言い方を考えればいいのに。まあ、それができないのがミアなんだけど。思わずふふ、と笑みが漏れた。
「ミアがどうしてもついてきてほしいなら、ついていってあげる」
冒険者としての生活は、きっと楽なものではないだろう。けれどミアと一緒なら、なんとか生き延びて、それなりに楽しく暮らしていけるに違いない。私はそんな風に二人で生きていく未来を想像していた。
けれど、思い描いていた未来は脆くも崩れ去ってしまった。ミアが隣国のお貴族様に見染められ、連れて行かれてしまったから。
それは14歳の夏のこと。孤児院にいる子供は15歳になると仕事を見つけて独り立ちする決まりだったから、冒険者になる予定まで、すでに一年もなかった。
その日、私たちは二人で街に出ていた。孤児院では掃除や水汲みなど孤児院の仕事を割り当てられるが、作業を終えればあとは自由に過ごすことができる。とはいえ本当は孤児院の敷地外に出てはいけないのだが、その日は地域の夏祭りがあったため、ミアがこっそり見に行かないかと誘ってきたのだ。お金がないので何も買えないものの、見たこともない屋台や食べ物がたくさんあって、楽しかった。
けれど大満足で孤児院に帰ってきてからわずか三日後、孤児院にお貴族様の使いがやってきた。
その男は私たちと同じ位置、つまり頭の横には耳がなく、その代わり頭の上に獣のような三角の耳がついていた。「獣人」という存在らしい。私たちの住むピノワールには少ないが、隣国のサーベランには多くの獣人が暮らしているのだとか。
その男曰く、ミアは男の主人である貴族の「ツガイ」なのだそうだ。獣人にはツガイという本能的に惹かれる相手が存在し、一度出逢えばその相手に心を奪われ、一生をかけて愛しぬく。獣人にツガイとして溺愛される生活を夢見る人間は少なくないのだとか。男の主人は偶然訪れたこの国で遠目にミアを見て一瞬で自らのツガイだと確信し、今まで探させていた。
男の主人はサーベランの伯爵であり、そのツガイとして求められることはこの上ない名誉なのだ、と男は強調していた。
ミアは院長先生に呼ばれて何か話をした後、その日のうちに使いの男と一緒にお貴族様の元へと出発した。
ミアは最後に、満面の笑みを浮かべて私にこう言った。
「お貴族様に愛されて何不自由ない生活が送れるなんて夢みたい。冒険者では望むべくもないような、贅沢三昧の生活を送ってやるんだ。羨ましい? もう会うことはないだろうけど、リアーナも元気でね」
私はなんだかがっかりしてしまった。そりゃあ、冒険者として命懸けで日銭を稼ぐ生活とお貴族様に見染められてお屋敷で悠々自適に暮らす日々を天秤にかけたら、誰だって後者を選ぶに決まってる。でも、どうしてだか、ミアは私を選んでくれると思っていたのだ。
勝手に裏切られたような気持ちになりながらも、私は現実的に自分の将来について考え直す必要性に迫られた。「冒険者になる」という将来設計は、あくまでミアが一緒だということを前提としたものだった。私は魔法の腕も大したことはなく、また人見知りで他人とのコミュニケーションも上手く取れない。情報がものをいう冒険者の世界では致命的だろう。
そうした困難を乗り越えてでも冒険者として成功したいと思えるほどの情熱は、私の中にはなかった。
結局15歳を迎えたわたしは、町の服飾店に職人として雇われることになった。
もともと手先が器用だった私はそつなく仕事をこなし、すぐに職場で認められた。同僚たちとも意外にうまく関係性を築くことができて、私はそれなりに充実した日々を過ごしていた。胸にぽっかり空いた穴に気づかないふりをしながら。
あれから三年後、服飾店での仕事でお金を貯めた私はサーベランに旅行に来ていた。ミアのことは関係なく、この国の祭りに興味があったからである。この国の、特に例の伯爵様が治める領地の祭りはとても盛り上がることで有名らしい。
祭りの開会宣言に伯爵様が奥方と一緒に現れるとの噂を聞いて、私は開会式の様子を見にいくことに決めた。別にミアの姿が見たかったわけではないが、開会式がどんなものかは気になった。祭りに浮き足立つ群衆の中、舞台に上がってくる二人を待つ。
果たして、伯爵様と仲睦まじげに寄り添いながら現れた奥方は、ミアではなかった。
「どういうこと……?」
思わずそんな言葉が口から漏れる。
慌てて隣にいた女性に「伯爵様のツガイはミアという女の子ではなかったのか」と聞くと、伯爵様の奥方はツガイではないのだ、と返ってきた。
詳しい話を聞くと、こういうことだった。
伯爵様とその奥方は、ツガイではないが仲の良い恋人同士で、ツガイが現れてもその愛は揺るがないと誓い合って結婚した。二人の仲の良さは領民の間でも有名で、それは伯爵様がツガイに出会った後も変わらなかった。
獣人はツガイと離れて暮らすと精神に異常をきたすことがあるため、仕方なく隣国から屋敷に呼び寄せはしたものの、伯爵様はツガイを愛しているわけではない。彼の心は今も奥方だけにある。ツガイに出会っても奥方への愛を貫いた伯爵様を、事情を話してくれたその女性は誠実だと褒め称えていた。
「でも……それだとツガイの人はどうなるんですか? 今でも屋敷に?」
「伯爵様と結ばれなかったにしても、ツガイだと明らかになってしまった以上は良からぬ輩に利用されないとも限らないから、屋敷で厳重に保護されているみたい。だけど伯爵様のツガイはもともと孤児だったって話だし、立派なお屋敷で何不自由ない生活を送れているならよかったんじゃないかと思うわ。きっと彼女も伯爵様に感謝してるんじゃない?」
その女性は話好きだったらしく、伯爵夫妻に関する噂について教えてくれた。
伯爵が奥方との夫婦関係を継続した事について、最初は獣人たちから「ツガイを蔑ろにしている」と厳しい目を向けられることもあったらしい。だが次第に「本能に逆らってまで愛を貫くその姿こそが獣人の誇りを体現しているのではないか」と周囲の見方が変わってきたのだとか。「愛の勝利ってやつね」と女性は目を輝かせていた。
聞いていた話と違う、と思った。
ミアはツガイとして伯爵様に愛され、大切にされているんだって、そう思っていたのに。
多分、そのツガイが全然知らない別の誰かだったら、私だって本能に負けず愛を貫くなんてロマンチックだなあ、だとか無邪気に感心していたかもしれない。だけど、今の私にはそんなふうに思えない。二人の幸福の陰で犠牲になっている存在を知っているから。そして、それがミアだから。
ミアは気が強くて意地っ張りで素直じゃなくて、とても面倒臭い奴だけれど——それでも、他人の幸福の踏み台にされたり、ぞんざいに捨て置かれたりしていい人間ではないのだ。絶対に。
数日後、私は伯爵邸の敷地に密かに侵入していた。といっても伯爵様や奥方が暮らす本邸ではなく、敷地の端にある別邸付近だ。本当はツガイの境遇を知った日の夜にでも行動したかったが、ミアが保護されている場所を探り出すのに時間がかかってしまった。
見るからに立派で手入れが行き届いている印象の本邸に比べて、ミアが過ごす別邸はどこか寂れた印象で、庭も長らく整えられていないことを示すように雑草が生い茂っている。警備も本邸に比べると格段に甘く、そのおかげで簡単に侵入できた。
私は身体強化の魔法で筋力を上げ、風魔法で補助をしつつ、別邸の壁をよじのぼってミアがいるはずの部屋の窓までたどり着いた。窓には鉄格子がはまっていたので力任せに引っこ抜く。
そして窓枠に足をかけた瞬間、部屋の中に立っていた女性と真正面から目が合い、ピシリと凍りついた。おそらく物音を聞きつけて様子を見に来たのだろう、手にはランタンを持ったままで、光を反射した瞳と、驚いたように開かれた口元がはっきり見えた。
——見つかった。
焦りで頭が真っ白になった。けれど次の瞬間、すぐに相手が誰かに気がつき、はっと目を見開く。おそらくほぼ同時に相手も私の正体に気づいたのだろう。
彼女——ミアは恐る恐る、口を開いた。
「……もしかして、リアーナ?」
ミアは突然窓から現れた私に驚きながらも部屋に招き入れた。最後に会った時よりもずいぶんとやつれてしまっているような印象を受ける。「よくわからないけどとりあえず座って」とソファーを勧めてくれた彼女の首には金属製の無骨な首輪が嵌められていて、その鈍い輝きが、やけに目を引いた。
「それで、なんであなたがここに?」
「ミアに会いにきた。今の生活に満足しているのかどうか、確かめに」
端的に答えた。なにせ時間がない。いつ私が別館に忍び込んだことが明らかになり、警備の人間が突入してこないとも限らないのだ。
私はミアの手を取り、両手でそっと握った。
「ミアの今の扱いは……孤児院に来たあの獣人が言っていたものとは、ずいぶん違うように思う。最後、私に『お貴族様に愛されて何不自由ない生活が送れるなんて夢みたい』って言ってたけど、今、伯爵様に大事にされている? 不満に思っていることはない? ミアは今、幸せ?」
ミアは一瞬呆然としていたけれど、すぐに手を振り解き、こちらを睨みつけた。
「何……嫌味を言いに来たわけ? 幸せだよ、私は。あなたたちみたいに汗水垂らして働かなくても衣食住は保証されてるし、こんなに立派な屋敷で使用人にかしずかれて暮らしてるんだから……」
「本当に?」
徐々に言葉に勢いがなくなっていくミアにもう一度問いかけると、完全に俯き、黙ってしまう。孤児院にいた頃には決して見せなかったような気弱な表情に仕草。
それを見て、私は彼女の本心を確信する。同時にあと一押しだ、とも感じた。
「ねえ。私、嫌味を言いに来たわけじゃないよ。ミアのこと、攫いに来たの」
「え?」
「ミアが今幸せならそれでいいよ。でもそうじゃないなら、もしここから抜け出したいなら……一緒に逃げよう、ミア」
ミアはまるで私に目や鼻や口がついているという事実に初めて気づいたかのように、まじまじと私の顔を眺めていたが、やがてはっとしたように再び目を伏せた。
無理だよ。そう呟き、自分の首にはまっている無骨な金属の塊を、右手で掴んで揺らす。
「これ、魔力を封じる首輪なんだって。ここに来て、すぐつけられたの。逃げられないようにって。リアーナが一緒なら逃げ出すこと自体はできるかもしれないけど……でもどっちみち、こんな特徴的なものを身につけていたら、すぐ見つかる」
私はなんだか急に不愉快になり、顔を顰めた。「保護をしている」なんて外には説明しておいて、実際は逃げるための能力を奪って監禁していたのか。
私はミアの首に手を伸ばした。
「ちょっと見せて」
「えっ? ちょっと待っ……」
首輪を両手で掴むと、そのまま力を込めて引きちぎった。するとその首輪だった金属の塊は無惨にひしゃげ、ガシャン、と音を立てて地面に落ちた。
「取れたね」
「えっ」
「自分では取れないってだけで、他人には簡単に取れるものだったんだろうね」
「んん……?」
釈然としない様子で首を傾げるミアだったが「これで行かない理由は無くなったよね」と聞くと、素直に頷いた。
床に落ちている首輪の残骸を拾い上げ、ポケットに入れる。
その夜私たちは、手を取り合って伯爵家の別邸から抜け出した。月のない夜だったから、きっと、誰にも私たちの姿は見られていなかっただろう。
数ヶ月後、私たちはサーベランでも孤児院のあるピノワールでもない、もっと遠い国で共にひっそりと暮らしていた。幸いな事にまだ伯爵家の捜索の手は届いていない。
私は服飾店を退職し、この国で冒険者を始めていた。数週間の休みをもらうだけのはずが急に辞める事になって申し訳なかった。せめて職場の人たちに今後は迷惑がかからなければいいのだけれど。
伯爵のツガイが逃げ出したのとほぼ同時期に、そのツガイと同じ孤児院出身の女が突然退職した事、その女が退職前サーベランに訪れていたことは、調べればすぐにわかってしまうだろうから。
冒険者として活動するにあたって、私は長かった金髪を短く切って茶色に染め、冒険者ギルドには偽名で登録した。追手の目を逃れるためのことだったが、ミアはそれらに引け目や罪悪感を感じているようだった。
「私、リアーナの綺麗な金の髪も、実の親にもらった名前も、手先が器用なところも、全部羨ましかったのに……私のせいで、全部捨てさせちゃった」
そんな風に思っていないし、私は今の生活に満足している。そう何度も言ったが、彼女の表情は暗いままだった。
けれど、ミア自身も赤かった髪を黒く染めている。それに彼女は見つかるリスクを避けるため外出も自由にできない。私にばかり負担をかけていると気にしているようだったが、不自由な生活による精神的な負担はむしろ彼女のほうが大きいように思われた。
「ミア。今度、薬草の採取に行く予定なんだけど、一緒に行かない?」
だからある日、冒険者として受けた依頼に一緒に行かないかと誘った。
冒険者としてギルドに登録をしているのは私だけだが、他者の手を借りることを禁止するルールもない。顔を見られるリスクが少ない森なら出歩いてもさほど問題はないだろう。
「……いいの!?」
ミアは提案したこちらが驚くくらい勢いよく食いついてきた。
「え、うん。手伝ってくれたら助かるし、よければ」
薬草の採取は順調に進んだ。
依頼された量を無事に取り終え、ギルドに戻る途中のこと。ミアが突然、ぽろりと涙をこぼした。
私はびっくりしてしまって、どう声をかけていいのかわからなかった。彼女とは長い付き合いだけれど、泣くところは初めて見た。派手にこけて血が出た時も、裁縫が下手すぎて先生に呆れられた時も、決して泣かなかったのに。
「こんなふうに、二人で冒険者をやるのが夢だったの」
ミアはそう呟いて、しばらくポロポロと涙を流し続けていた。
その夜、ミアは伯爵邸に行ってからのことについて話してくれた。
伯爵はミアをずっと憎んでいたのだという。彼にとってミアは奥方との愛を阻む敵であり、悪そのものだった。しかし、彼女をどれだけ疎んでも、ツガイが自分のそばから離れたり、まして死んだりする事に獣人の精神は耐えられない。だから別邸に監禁した。
暴力こそなかったものの、たまに訪れては彼女をひどく罵り、人格を否定するような言葉を吐いて去っていく伯爵が恐ろしかったと、ミアは話した。
私はその話を聞いて、衝動的にミアを抱きしめた。
憎かった。伯爵のことも、三年間も彼女を放ってのほほんと暮らしていた自分も。
「ミア、ごめん。私、勝手にミアに裏切られたみたいに感じてた。二人で冒険者になる約束してたのにって。貴族が自分を連れて行こうとしてるのに、逆らえるわけがなかったよね」
「うん……」
「もう大丈夫だから。伯爵はここにはいないし、二度と顔を合わすこともないから」
「うん……」
お得意の憎まれ口もなく、おとなしく腕の中に収まっているミアにもどかしさのようなものを感じた。彼女の気の強さに反発を覚えたことも一度や二度ではないのに。
風の噂で聞いたところだと、あの伯爵はツガイが逃げ出したことによる喪失感と絶望感のあまり執務も手につかず、愛する奥方すら顧みることなく半狂乱になってミアを探しているそうだ。
特に同情や後悔の気持ちは湧いてこないが、ただ、厄介だとは思った。
恐怖の対象が自分を血眼になって探しているなんてミアが聞いたら、きっと不安になるだろう。以前の生活を思い出すだけでも辛いはずだ。だから、その噂についてミアには話していない。
「今は、まだこんな風に息を潜めて暮らすことしかできないけど。でも、ずっとじゃないから。いつか絶対、冒険者として堂々と、二人で生きていける日が来るから」
そう告げてミアを抱きしめる腕に力を込めると、彼女もそっと私の背に腕を回した。
私は強く願った。これから二人で歩んでいく道の先に、彼女が心から安心できる日々があることを。そして改めて決意した。今度こそは決して彼女を、彼女と生きていく未来を、離しはしないと。