第8章
源頼朝と北条政子の長女・大姫の生涯を描いた作品です
静さまはうつむいて、しばらくじっと考え込んでいらっしゃいましたが、やがて顔を上げると毅然とした表情でこうおっしゃいました。
「姫さまからのせっかくのお申し出ですけど、お断わりさせていただきます」
(どうして?)
という驚きの表情が大姫さまの顔に浮かびました。その表情を読み取った静さまは、落ち着いた口調でこう述べられました。
「九郎義経の妻として、今さらじたばたしたくないのです。わたくしは鎌倉へ死ぬつもりでやってまいりました。覚悟はとうについております。もはや怖いものなど何もありません。ですから、逃げて捕まり、また連れ戻されて来るような惨めな真似はしたくないのです。義経の妻として、死ぬ時は堂々と死にたい、今はそういう気持ちです。姫さまには、わたくしのこの気持ちが、ご理解いただけますでしょうか?」
「分かります」
と大姫さまは即答なさいました。
「わたしも義高さまが亡くなった時、どんなに死のうと思ったことか」
「まだお若いのに姫さまはつらい体験をなさったのですね」
「ねえ、静さま、生きる事だけに価値があるわけじゃないですよね?」
「時によっては生きる事より死ぬ事に価値がある場合もある、とわたくしは思います」
「義高さまが殺されて、わたしの人生は早々と終わったのです」
「姫さまは、その方を深く愛していらっしゃったのですね?」
「はい。義高さまのいない現世になど何の未練もありません」
「わたくしも義経さまと一緒でない人生は考えられません」
「でも、生まれてくるお子さまは・・・」
大姫さまがそう呟いた時、静さまは一瞬ハッとした表情をなさいましたけど、すぐ平静に戻られて
「お腹の子が男だったら間違いなく殺されることでしょう。でも、どうせ殺されるのなら、何も分からないうちに殺された方が幸せかもしれません。成長して物心がついてから殺されるのは、あまりにも可哀想ですから」
「おっしゃる通りです。あまりにも可哀想です。後になって殺されるのは・・・」
義高さまの事が脳裏に浮かばれたのでしょう、そう言いながら大姫さまは両目から大粒の涙をぽろぽろこぼしていらっしゃいました。
「わたくしといたしましては、女の子が生まれるのを祈るだけです。女なら命が助かるかもしれませんから」
「女の子の命を奪うような真似は、このおいちが絶対に許しません。もし父上がそこまでしようとしたら、わたしが自分の命を懸けて阻止します」
「ありがとうございます、姫さま」
そう言って静さまは深々と頭をお下げになりました。
「しかしながら、ご自身のお命を粗末にしてはいけないと思います」
その言葉を聞いた大姫さまは、少し意外そうな顔をしてこうお答えになりました。
「だって、さっきも言ったように、義高さまのいない人生なんて、わたしには意味が無いんですもの」
「そのお考えはよく理解できます。義経さま亡き後は、いずれ後を追ってわたくしも死ぬつもりですから。しかし、もし今回わたくしの命が助かったとしたら、わたくしはすぐには死にません。女の子が生まれれば、その子を育てなければなりませんし、そうじゃない場合でも、わたくしには年老いた母がおります。母を一人ぼっちにして無責任に自分だけ死ぬわけにはまいりません。このように人間には様々な責任があるのです。いくら若いとはいえ姫さまも、ご両親や家来やたくさんの方々に責任を負っていらっしゃいます。死ぬのは簡単です。でも、ご自分の責任を果たした後で死ぬのでなければ、それは身勝手というものです」
「わたしの責任?」
そう言って大姫さまは途方に暮れた表情をなさいました。
「わたしにどんな責任があると言うの?」
「人間としての責任です」
「人間としての責任?」
「はい。この世に生まれて来たことに伴う最低限の責任です。義理という言葉に言い替えても良いかもしれません」
「分からないわ、そんな事」
「今はお分かりにならなくとも、この世に生をいただいた以上は、義理を果たしてからお亡くなりになってください。逆に言うと、それまでは生きていてください。わたくしからのお願いです」
狐につままれたような表情のまま大姫さまは静さまとお別れになられました。
その後、静さまはご出産なさいました。生まれてきた子供は男の子でした。覚悟していた事とはいえ、いざその時が来ると母親としての情は如何ともし難いのでしょう、静さまは泣きながら抵抗したそうですけど、哀れ赤子は頼朝さまが遣わした侍に連れ去られ、由比ヶ浜に沈められました。
最初、頼朝さまは、静さま母子も殺すおつもりでした。しかし、大姫さまが
「もし静さま母子を殺せば、即刻わたしも死ぬぞ」
と脅かし、そのギラギラした眼光が嘘偽りで無い事を如実に物語っておりましたから、頼朝さまは諦め、お二人を都へ帰すことにしました。大姫さまのご指示で帰路につくお二人にはたくさんの金銀が贈られました。
その後の静さまの消息を、わたくしは存じ上げません。母上さまの最期を看取り、後顧の憂いが無くなった後、ご自害なさったのだと思います。静さまならきっとそうなさったと思います。