私と共に生きてほしい
短編シリーズものです。初めての方はシリーズ一作目、「私の為に死ね」からご覧下さい。
「はあー、やっぱ渋くてかっこいいわー」
とある日曜日の夜、紗桐は居間で寝転んでお気に入りのクッションを抱えながらテレビの中の俳優に夢中になっていた。
彼女が見ているドラマは昔の……恐らく桐が生きていた頃と同じくらいの時代を舞台にしたものだ。小道具や歴史背景にも凝っており、桐の頃を覚えている彼女にも何となく馴染みのある光景に、よく出来ていたドラマだと感心する。
しかし紗桐が一番注目しているのは主役の男だ。アラフォーのその俳優は主役のイメージにぴったりで、元々彼を知らなかった紗桐もあっという間にファンになってしまった。
「定番だけど身分違いっていいよね。早く二人とも自覚すればいいのにー」
時代背景がシビアな上、主人公もヒロインも無自覚でいかにもラブストーリーという話ではないのだが、ふとした時にお互いを大事に思っているのが垣間見えてすごくいい。今時ちょっと珍しいくらいの純愛ドラマだ。
ちょっとじれったくなりながらも紗桐がドラマを見ていると、エンディングの後、突然ヒロインが咳き込んで吐血してしまった。
「は? え?」
そしてそのままドラマは終わりCMが始まる。衝撃の展開に紗桐はクッションを強く抱きしめて「えええ……!?」と酷く困惑した声を上げた。
「ヒロインやばいじゃん! え、もうすぐくっつくと思ったのにここでそう来るの!?」
そのままごろごろと畳の上を転がる。嘘でしょ、とショックを受けながら右に左にと転がり続けていると、不意に障害物にぶつかって紗桐は動きを止めた。
「……」
彼女の目の前に立ちはだかるのは二本の足。紗桐が少しずつ目線を上に上げると、そこにはいつも通り全く表情の動かない夫が高い場所から静かに紗桐を見下ろしている所だった。
瞬間、紗桐は飛び起きると正座して三つ指をついた。……この間、一秒となかった。
「お、お帰りなさいませ旦那様」
「……ああ」
内心悲鳴を上げながら頭を下げると、夫は相変わらず何を考えているのか分からない無表情で返事を返してくる。怒鳴られなかったことに安堵すればいいのか、それとも最早何も言われないことを恐れればいいのか分からない。
無言で差し出された鞄を受け取りながら彼女は小さくため息を吐く。結婚してから半年が経ったが、最近は気が緩んで猫かぶりが剥がれてきている。
流石に毎日顔を合わせていれば怖さも慣れて来るのだ。無くなったのではない、慣れただけで怖いという事実は変わらないが。
そもそも結婚当初と違ってあの件が紗桐の誤解だと分かっている時点で随分とましになった。お茶以外であまり辛辣な言葉はなく、それに以前貰った着物もお気に入りになっている。あとバレンタインのチョコレートもとても美味しかった。
ちなみに、あのチョコレートは美味しすぎて毒味だというのにうっかり半分くらい食べてしまい、食後に出したら呆れられたのか全部食えと言われてしまったのは余談である。
「先に風呂に入る」
「はい」
「それと、来週の土日は出張に行く」
スーツの上着を脱いだ夫はそれだけ言って紗桐に背を向ける。その背中が普段とは違いどこかくたびれているように見えるのは、恐らく彼女の見間違いではないだろう。
最近夫は忙しいのか帰りも遅く、今日も日曜日だというのに朝から休日出勤していた。社長で代わりがいないから仕方が無いのかもしれないが、こうも毎日大変そうだと心配にもなる。
先ほどドラマを見ていたからか、そういえば昔も同じように大変そうな時があったのを思い出す。急に敵が攻めてきたかと思えば飢饉の影響で食糧不足になったりと悪いことが重なり、休みたくても休めなかった時のことだ。この時は桐も色々と命を受けて慌ただしかったし、主も淡々と家臣に指示を出しながらも、時折疲れたように息を吐いている時があった。
心配ではあるが、しかし紗桐が休めと言った所であっさり休めるのならばとっくに休んでいるだろう。桐の時とは違い仕事を手伝える訳でもなく、彼女に出来ることなどない。
そうして疲れている夫を見続けること一週間。紗桐も仕事が忙しく平日があっという間に過ぎると、次の土曜日の早朝、彼は紗桐が起きるよりも早く家を出て行った。
「……ホントに大変そうだなあ」
いつも早く起きる夫の所為で更に早起きを強いられている紗桐でも今日は彼の姿を見ることがなかった。もはや早朝というよりも深夜に出て行ったのだろう。
がらんとして妙に広く見える居間で、紗桐は一人のんびりと普段は出来ない手抜きの朝食を食べながら天気予報を見る。天気は一日快晴、お出かけ日和だと予報士のお姉さんがにこにこと告げているが、生憎彼女に今日の予定はない。
映画を見たり買い物をしたりと色々と考えてみたものの、どうにも脳裏に疲れた顔で帰ってくる夫の姿が過ぎり、一人だけ楽しんでいいものかと少し考えてしまう。いや別にそれで怒られるとは思わないが、なんとなく後ろめたい気持ちになるような。桐の頃の献身的な性格がほんの僅かでも残っているのか。
「うーん……かと言って家の中でじっとしてるのも対して変わらないような」
ぼんやり考えながらとりあえず掃除をする。紗桐が出来ることと言えば家事くらいしかない。掃除と洗濯、あとは料理――。
「あ、そうだ」
紗桐は掃除機を置いてぽん、と手を打った。料理はいいかもしれない。
彼女も十分に花嫁修業をこなして来て料理は得意な方だが、やはり家庭ごとに味付けは変わるし口に合う合わないがあるだろう。茶と違って文句を言われたことはないが、逆に褒められたこともない。
紗桐はそもそも彼が何を好むのかも知らない。ならば義母がよければ実家の味を教えてもらいに行こうかと、電話を掛けてみることにした。
「――もしもし、紗桐ですけども」
『ああ紗桐さん?』
「少しお願いがありまして……」
料理を教えてほしいと頼むと、運良く義母も暇だったらしく快く頼みを受けてくれた。更に夫が出張だと伝えるとせっかくだから泊まって行ってと言われ、紗桐は僅かに躊躇ったものの頷いた。夫が居ない時に彼の実家に泊まるというのも緊張するが……よくよく考えなくても居たところで別に緊張が和らぐ訳でもない。むしろプレッシャーが掛かる。
電話越しに大喜びしていた義母にすぐに来て欲しいと言われ、通話を終えた紗桐は慌てて準備を始めた。
ささっと荷物を纏めて家を出ようとする。……が、その直前で彼女はひとつ思い出して小さく「あ」と声を上げた。
「何にも言ってないけど、一応実家に行くなら連絡しといた方がいいよね」
ただ出掛けるのではなく泊まるのならば尚更伝えておいた方がいいだろう。そう思った紗桐がスマホを取り出した所で、彼女は一旦手を止めることになる。
やばい、そういえば夫の連絡先が分からない。
いくら見合い結婚だとはいえ籍を入れてから半年も経過しているのに今更何を言っているんだという話だが、今の今まで使う機会などなかったし、結婚当初は怖すぎてそんなことを聞いてもいられなかったのだ。
「何か、私あの人のこと何にも知らないな……」
一応妻だというのにそれもどうなのか。紗桐はそう考えつつも、かろうじて会社の電話番号は分かったのでそちらに連絡を入れておくことにした。私事ではあるが緊急で誰も居ない家に電話が掛かってきても困る。
電話を掛けるとワンコールですぐに出てくれた女性に、社長の妻であること、そしてご実家にお邪魔させて頂くことを伝えてほしいと告げてから、紗桐は急いで家を出て夫の実家へと向かった。
□ □ □ □ □
「電話誰だったの?」
「何か社長の奥様からだったんだけど……」
「え、なんでわざわざ会社の方に?」
「スマホが壊れたとかじゃない?」
ここ最近会社全体が忙しく今日も休日出勤をしていた受付嬢は、電話を切ると隣の同僚と小さな声で話しながら内線ボタンを押した。
社長の奥様と言えば彼女たちの間でも少し噂になったことがある。あの社長と結婚したとは一体どんな女性なのかと皆でこそこそと予想したものだ。
「そういえば、今日社長いないっけ」
「あ、ラッキーじゃん」
いつも社長室に内線を繋ぐ時は死ぬほど緊張するのだが、今日は出張だと朝に連絡が来ていた。彼女が秘書課に電話を掛けると、聞こえて来たのは社長の威圧感のある声とはほど遠い生真面目そうな男性の声だった。
彼女は内心ほっとしながら伝言を伝える。
「社長の奥様からお電話がありました。ご実家に行かれると社長にお伝えして欲しいとのことです」
□ □ □ □ □
「……そうか、社長にはこちらから伝えておく」
いつもよりも静かな秘書課で、笹山は受付からの電話を切ると傍の机で仕事をする同僚の女性に声を掛けた。
「森川、社長の会議は何時までだったか」
「そろそろ終わるくらいじゃない? 何なら木村に掛けて確認取った方が確実だろうけど」
「そうだな」
今日の出張は社長と一緒に勉強も兼ねて新人の木村が着いて行っている。笹山ならば――というよりも基本的に誰でもだが――社長と二人での出張はかなり緊張するが、木村は相変わらずへらへら笑って「お土産何がいいですか?」と尋ねてくる始末だった。正直ここまで来ると少し羨ましくなるレベルだ。
今の時間は取引先の重役との会議をしている頃のはずで、笹山は待機しているであろう後輩に電話を掛けた。
『はーい、こちら木村でーす』
「……電話くらい真面目に出ろ」
『あ、笹山さんですか? どうかしましたか?』
「社長はまだ会議か?」
『それは終わったんですけどちょっと他の人に捕まってます。急ぎの用なら呼びますけど』
「あ、いや。後でいい。社長の奥様がご実家に戻られるそうだから伝えておいてくれ」
笹山がそう告げると、何故か電話の向こう側で何かが叩き付けられるような大きな音が響いて何も聞こえなくなった。
「おい、木村? ……何かあったのか?」
□ □ □ □ □
「……え?」
思わずスマホを取り落とした木村は、混乱しながらもたった今聞いた言葉を頭の中で繰り返した。
社長の奥様がご実家に戻られる。……実家に帰る。
「木村、何をぼうっとして――」
ちょうどその時、話を終えてスマホを落としたまま立ち尽くしていた部下に男が声を掛けると、木村は血相を変えて勢いよく顔を上げて男を振り返った。
「社長! 奥様が実家に帰らせて頂きますって!!」
「…………は」
その瞬間、木村は入社してから今までまったく表情が動くのを見たことがなかった社長の顔色が初めて変わった所を目撃することになった。
□ □ □ □ □
「へえー、やっぱりうちの分量と違いますね」
「ええ、我が家は昔からこの味付けなの」
夫の実家へ赴き早速料理を教えてもらっていた紗桐は、いつも自分が作るものとは少し違う煮物の味付けを確認しながら忘れないようにメモを取っていた。
「うちは一人息子だったから娘と一緒に料理をするのが夢だったの!」と嬉しそうに微笑む義母は終始機嫌が良く、一品一品丁寧に指導してくれる。
「……あれ」
「紗桐さん? どうかした?」
完成した料理を居間の机へ運んでいると、不意に飾られた一枚の日本画が目に入ってくる。紗桐が思わず立ち止まってその絵を見ていると、義母は不思議そうに彼女の視線の先を見て「ああ」と納得したように頷いた。
「これは……」
「それは、うちの先祖が昔暮らしていた屋敷を描いた物なのよ」
「先祖、ですか」
紗桐は料理を机に置くと日本画に近付いてまじまじと描かれている屋敷を見つめる。
彼女はこの屋敷を知っている。何せ、昔……大昔に別の人間として生きていた頃に住んでいた場所だったのだから。
「紗桐さん、ほらこっち」
「え?」
見れば見るほどそっくりなその絵に釘付けになっていると、義母が紗桐を隣の部屋へ連れて行く。襖を開けたその先には、天井近くに何人もの肖像画や写真が飾られており、彼女は「あ、これ校長室とかにあるやつ」と心の中で小さく呟いた。恐らく代々の先祖の肖像画だろう。
「ほら、あのご先祖様」
「……あ」
義母が示す肖像画を見上げると、まるでその絵の男と目が合ったように紗桐は固まった。
「驚いた? あの子にそっくりでしょ」
悪戯が成功したように笑う義母が示したのは、紗桐の夫と瓜二つである男の肖像画だった。実物でもないのに途端に平伏してしまいそうになる程の威圧感が滲み出たその絵に、紗桐は無意識のうちに小さな声で彼の名を呟いていた。
「主様……」
「え?」
「あ、いえなんでもないです! それより本当に似てますね!」
「そうなのよ。それでこのご先祖様が、さっきの屋敷に住んでいたんですって」
「……そうなんですかー」
愛想良く返事をしながらも、紗桐の頭の中に思い浮かぶのはあの屋敷とかつての主の姿だった。
親に捨てられていた所を拾ってくれた時のこと。最初は怖くて近寄れなかったこと。茶がまずいと怒られたこと。戦場で無我夢中に戦っていたこと。病に掛かり置いて行かれたこと。
今までずっとフィルターを通して見ていた桐の世界が、この絵を見た瞬間にようやく紗桐と繋がったような気がした。桐の生きていた時代は、そして彼女の主はちゃんと夢の中だけではなく存在したのだと証明されたからかもしれない。
「ねえ紗桐さん、ドラマとか見たりする?」
「え? ええ。見ますけど」
不意に別の話題を振られて現実に意識が戻る。
紗桐が義母に頷くと、じゃあこれは、と最近彼女がはまっている歴史ドラマの名前が挙げられた。
「はい。私あれ大好きで、毎週欠かさずに見てます」
「あの主人公、実はモデルがこの人なのよ」
「は? ……え?」
「少し前にこの人の忍びだか使用人だかの手記がいくつか見つかったらしくてね、それに脚本家が目を付けてドラマにしたって聞いたわ。勿論脚色はしてるだろうからどこまで本当の話かは分からないけども」
あのドラマの主人公がこの人……桐の主って。
紗桐はしばらく言葉の意味を呑み込むことが出来ずに口を閉ざした。確かに時代背景や立場はまんまかつての主と同じだ。顔は勿論全然違うしあんな威圧感もないが、貫禄がある渋い顔でイメージが似通っている部分はある。
が、肝心のヒロインは誰だ。ただの歴史ドラマだと受けないから勝手に恋愛要素を入れたのか、それとも実際に居た人物なのか。……桐が拾われる前や死んだ後の話だったら勿論彼女には分からない。
というよりも、そもそもその手記を書いたのは一体誰なのか。確かに忍びは何人か主についていたようだが顔を見たことはないし、第一忍びが主の情報を書き残している時点でどうなのか。
「ところで紗桐さん、もうあの子の顔には慣れた?」
「へ?」
「さっきからずっとあの肖像画見てるから、もう結構平気になったのかと思って。見合いの時はすごく怖がっていたみたいだから」
「いや、その……すみません」
「私も夫と初めて見合いで会った時は同じ気持ちだったから分かるわ。この家系どうにも強面が多いみたいで……」
聞けば義母も嫁いできた時はしばらく自分の夫の顔にびびっていたらしい。だが一緒に暮らしていればその人となりも分かってきて、元々相手が顔面とは裏腹に穏やかな気質だったこともあって上手くやっていけているとのことだ。
「あの子もうちの夫以上に怖い顔してるから色々心配でね。見た目で誤解されやすいけど、悪い子じゃないのよ」
「それは、分かってます」
「あら」
紗桐の想像以上にさらりとその言葉は口から出てきた。
「確かにちょっと……その、近寄りがたい所はありますけど、体調に気を遣ってくれたり着物をプレゼントしてくれたり」
「愛されてるわねえ」
「あい!? い、いえそれは分かんないですけど」
「それに紗桐さんもあの子の為に料理を教えて欲しいって言ってくれて……結構上手く行ってるんだって安心したのよ」
「だといいんですけど……」
「ちなみに孫の予定は?」
「まご」
不意打ちでぶっ込まれた言葉に紗桐は顔を引きつらせた。まだまだ完全にそれ以前のレベルだ。最近友人が口やかましい姑に孫を急かされていると愚痴っていたのを思い出した。
「その……申し訳ないんですが、もう少しお待ち下されば」
「あ、別に急かしてる訳じゃないのよ? 子供は授かり物っていうし、跡継ぎのことはあるけど、二人のペースでいいの」
「跡継ぎ……」
あの人はそういうこと考えているのだろうか、と少々首を傾げる。いやその為に結婚したんだろうからそりゃあ考えてはいるのだろうが、紗桐は今まで何も言われたことはない。
後継ぎ……つまり。
「……ちなみになんですけど」
「?」
「男の子を産まないと側室を作るとかありますか」
「紗桐さん一体いつの時代の話してるの」
□ □ □ □ □
「……これが主様かー」
翌日の日曜日、夫の実家から帰ってきた紗桐は先週と同じようにクッションを抱えてドラマを見ていた。しかし先週までとは違い主役の俳優にきゃーきゃーはしゃぐことはなく、ストーリーや他の登場人物に注目しながら画面に齧り付いている。
「で、結局このヒロイン誰だ」
先週まで可愛くて健気で好ましいと思っていたヒロインだが、紗桐はつい画面に映る彼女を見ながら無意識に眉間に皺を寄せていた。こんな人間は紗桐の知る限りは存在しなかったし、そもそも主が恋にうつつを抜かすなどありえないと思ってしまう。
そうだ、この辺はフィクションに決まっている。実在の人物云々には一切関係ないのだ。それしかありえない。
紗桐はうんうん頷きながらそう納得してどんどん展開が切り替わるドラマに夢中になった。
「あー! そいつ! 思い出した、そいつ裏切り者だから!」
真剣に見続けていると画面に何やら企むような表情を浮かべた男が映り、彼女の頭の中で大昔に敵方に寝返った同盟国の男が過ぎった。勿論顔が違うが立場的にもこの男で間違いない。
しかし勿論ドラマでは分かりやすく描かれているが裏切りに気付く人間は画面の中には居ない。歯がゆい気持ちになりながら畳の上をごろごろ転がっていると、突如何かに思い切りぶつかった。あれ、何かデジャブ。
「……」
「お、お帰りなさいませー!」
案の定顔を挙げると現れた鉄面皮にすぐさま起き上がってひれ伏すと、夫は何も言わないままじっと紗桐を見下ろした。そして何かを言おうとしてそれを止め、数秒後にもう一度口を開く。
「何故、居る」
「え?」
「いや……」
妙に歯切れの悪い言葉に紗桐は首を傾げる。変わらない表情も、どことなく戸惑っているように見える気がした。
「あの、居てはいけなかったでしょうか」
「違う。……実家に帰ったと、聞いた」
「実家? あ、昨日ご実家に邪魔させて頂きました。今日戻って来たので」
「……そうか」
相当疲れた様子の夫に出張が大変だったんだなと思った紗桐は、鞄と上着を受け取ってから用意していた夕飯を出す。義母に習った通りに味付けを変えてみたもののどうだろうか。
気付くのか、気付いても何か言ってくれるのか。そうして少しばかり期待を込めた目で箸を取る夫をそっと窺っていると、彼は一口二口夕食を口にしてから一度その手を止め、ちらりと強い眼光で紗桐を見た。慣れたことは慣れたがいきなり見られるとびびる。
「……」
「あ、あの、お義母様にご実家の料理を教えて頂いて」
「……」
「その、最近お疲れのようですし、慣れた味の方が落ち着くかと」
「……」
何か言って! ねえ何か言って!?
紗桐が脳内で叫ぶものの、夫はしばらく黙り込んだ後に再び箸を取って黙々と食べ始める。相変わらず美味いともまずいとも言わない。が、ここ最近疲れの所為か時間を掛けていた食事はいつもよりもずっと早く食べ終えた。
期待していた言葉は得られなかったが悪くはなかったのだろう。少しの落胆と少しの安堵を覚えながら紗桐が食後の茶を出しに行こうとすると、立ち上がり背を向けた所で「紗桐」と名前を呼ばれた。
「座れ」
「……はい」
油断した所に声を掛けられて思わずびくっと飛び上がりそうになるのを堪え、紗桐はおずおずと夫の前に正座する。
「……」
「……」
何を言われるのかと緊張しているというのに、今日の夫は珍しく中々口を開こうとしない。彼は普段から寡黙だが言いたいことはきっぱりばっさり言うタイプなのだが。
「……」
「あの、旦那様」
「離婚したいか」
「へ?」
離婚。
……離婚!?
「伝言に行き違いがあって、三行半を出されたのかと思っていた」
「み、みくだり、え?」
「誤解だとは分かったが、しかし元々お前との結婚は私が一方的に望んだものだ。事実お前は私を怖がっているし、不満を言いたくても言えないこともあるだろう」
一体何でそんな誤解になってしまったんだと尋ねたかったが、場の空気がそれをさせてくれない。
窺うように見る夫はいつもの威圧感をほんの少し潜めて、静かに紗桐の言葉を待っている。
「……」
確かに紗桐の結婚は彼女の望んだものではなかったし、なんなら結婚してからしばらく「離婚したい!」と友人に零していた。だが――。
「ひとつ伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「どうして、私と結婚しようと思ったんですか」
結婚当初からずっと問い質したくて堪らなかった言葉が半年経ってようやく言えた。
彼は自分が望んで紗桐と結婚したと言った。それは昔を覚えていてまた従者のように使えると思ったからか。それとも、誰でも良くてたまたまそれが紗桐だっただけなのか。
「――この先」
彼女が答えを待っていると、彼は今度は言い淀むことなくはっきりと告げた。
「この先死ぬまで、共に連れ添うのならばお前がいいと思った」
「だ、旦那様……!?」
「お前が望むのなら……離縁する。だがお前が許せば、私はこの先もお前を妻にしたい」
紗桐は言葉を失って、ただただ小さく口を開いたまま固まっていた。冗談など死んでも言わないであろう夫から告げられた言葉だ、嘘だろうなんて疑うこともできない。
頭が沸騰する。顔が熱い。混乱して思考がぐちゃぐちゃになる。しかしそんな中で明確にひとつ、ずるいな、という感情が頭の中を過ぎった。
どうしてそんなことを聞くんだ。既に情が湧いた、離婚したいという気持ちが薄れた頃に。
そう思うと同時に、今でよかったとも思う。そうでなければ、今頃夫を誤解したまま別れて、そして後から後悔したはずだ。
「旦那様」
混乱していた思考が落ち着き冷静に考えられるようになった頃、紗桐は辛抱強く待ってくれていた夫に向かって綺麗に頭を下げた。
「……不束者ですが、これからもよろしくお願いします」
そう言って紗桐が深々と下げていた頭を上げると、そこに見えたのは見落としてしまいそうなくらいほんの少しだけ目元を和らげた夫の表情と、彼の背中越しにテレビの中で死にかけの体を引き摺って主のいる戦場へと駆け出したヒロインの姿だった。
□ □ □ □ □
男はとある領主に仕える忍びだ。闇に紛れ、存在を認識されないように影に徹する。仕える主ですら彼の顔も名前も知らないがそれでいい。忍びは影であり道具、個を認識する必要はないのだ。
その男が忍びとして仕える主は、冷酷非情と周囲から遠巻きにされる男だった。悪政を敷いている訳では決して無かったが、他人に一切の情を持たず押しつぶされそうな威圧感を放っていて誰もが近付こうとしない。
そして自らにも他人にもとことん厳しく、治める国の不利益になる人間はたとえ血縁でも容赦なく切り捨てる。大を取って小を殺すのはこの時代珍しいことではないが、その表情には何の感情が浮かぶこともなかった。まるで、絡繰り仕掛けの人形のような男だった。
そんな主に変化が訪れたのはいつだったか……そう、同盟国に寝返られさんざん煮え湯を飲まされたあの後からだ。
あの時から、まったく変わらないはずの主の表情がどことなく違って見えるようになった。とはいえそれは良い意味ではない。元々感情など何処かへ置いていたはずの顔がますます空虚になって見えたのだ。他人の感情を読み取るのに長けている忍びの彼だからこそ分かったことで、家臣などは気付いてはいなかったが。
そして表情だけではない。あの時から、主が時折何をする訳もなく黙り込むことがあった。常に思考を巡らせて職務を全うして来た主のその姿に、男はやはり主は変わってしまったのだと確信を得た。
主が変わった理由は何だったのか。変化の時期を考えると男には思い当たることがひとつだけあった。あの戦で裏切られたという情報が屋敷に回ったその時、一人の女が馬に乗って屋敷から飛び出して行ったのだ。
桐、と呼ばれ主に仕えていた女。誰もがやりたがらない主への茶出しをして女中のようなことをしていたと思えば、民衆に紛れて敵方の情報を集め、そして戦場で主の敵を屠る。主が便利な道具のように扱っていた彼女のことは忍びの男もよく知っていた。
そして桐は、あの日飛び出して行ってから姿を見せなかった。元々病に伏していた体で出て行ったのだ。何処へ向かったのか想像は付くし、そしてその結果彼女が命を落としたということは容易に理解出来た。
主の変化は、間違いなく彼女が原因だったのだろう。あの日から茶に煩い主が極端に茶を飲まなくなったのを見れば男にだって分かる。時折誰かを呼び掛けて口を閉じるその表情は、忍びの男から見れば別人のようにすら感じた。
ああ、この人もこんな感情を持っていたのだと、男はただそれだけを思った。思って……それが、誰にも知られぬまま終わっていくのを酷く惜しいと考えてしまった。
主がとうとう病床に着いた。このまま主は血の通わぬ絡繰りのような人間だと認識されて死んでいくのだろう。それだって概ね間違ってはいない。だがそれでも、本当に誰もが知り得なかった一欠片だけ主にも心はあった。
主と同じく老いた忍びは、それを文字に残すことにした。本来ならば主の情報を残すなどもってのほかだが、それ以上に知って欲しかった。今彼を知る人物でなくても、せめてこれを見つける後世の人間にだけでも、主がたった一人に心を寄せ、愛することが出来た人間なのだと分かって欲しかったのだ。
本音を言えば誰かではない、無理だと分かっていてもあの女にそれを知って欲しかった。それが自分の為でしかなくても、それでも。
――
――――。
「ふああ……よく寝た」
「おい木村お前いつまで寝てるんだ! もう昼休み終わってるぞ!」
「あー、すみません。ついうっかり」
「社長が居たら視線で殺されるぞ。しゃっきりしろ!」
「そういえば、なんか夢見てたような。……まあいいか」
全然覚えてないしなんならこの先も思い出さないけど、社長と奥さんが仲良くしてるとつい嬉しくなっちゃう元忍び。