第3話 夜桜の下の決闘
戌ノ刻は干支の一一番目を表し、現代の時刻で一九時から二一時までを指す。湊は決闘をする気など全然無かったものの、仕方なく普段着のブラウスとグレーのパーカー、ブラックジーンズを纏い、雪庭を連れて自分の庭とも言える境内に入った。
辺りは町内会が主催した桜祭りが行われており、土曜日の夜ということもあって、足の踏み場もないほど多くの人が訪れていた。みんな、レジャーシートを広げて酒を煽り、屋台や家から持ち込んだ料理を食べながら花見を楽しんでいる。それにしても、今日は人出が多かった。きっと、お喋りなクラスメイトたちが湊と結菜の果たし合いのことを漏らし、見物に来た連中が沢山混ざっているのだろう。元々娯楽の少ない田舎町だ。彼らは境内に入った自分を興味深げに目で追っていて、その視線が首元に絡みつく。みんなが交わしている噂話も耳に入ってきた。
「聞いたか? 輪影寺の息子と武藤の娘が今から決闘だってよ」
「湊君は負けたら頭を丸めて出家するらしいよ」
「坊主になるなら、まだいいじゃない。結菜ちゃんなんて、負けたら湊君の嫁になるのよ。なんでも婚姻届は既に用意されていて、敗れ次第無条件で籍を入れるって」
「やだ、それって本当に人生を懸けてるじゃない!」
湊はびっくりしてその会話に聞き耳を立てた。そして、慌てて立会人を買って出た結菜の父親を探す。武藤家の当主を務めるあご髭で巨漢の武藤道玄は袴姿で境内の中央に仁王立ちして、湊の父親である一条義空と話し込んでいた。道玄が湊に気づいて会釈をする。
「湊君。この度は迷惑を掛けて済まない。結菜は君が知っての通り、聞かん坊だ。君に復讐すると言って収まらないから、悪いが決闘という形をとらせてもらった」
道玄はそう言って腰を折り、深々とお辞儀をした。
湊は慌ててその顔を上げさせる。
「いや、元はと言えば悪いのはこっちだし。でも、負けたら嫁にとるって街の人が騒いでて。いくらなんでも、そんな極端な話は……」
湊は道玄に翻意を促そうとした。
しかし、彼は達観した表情で返す。
「果たし合いは紛れもなく命の取り合いだ。敗れた者に後の人生などあるはずがない。勝った者が全てを得るのは当然のことだ。もちろん、湊君の意思もあるし、君らはまだ一五で婚姻届は役場預かりになるから、結菜が気に入らないようだったら妾にしてもらって構わない」
道玄は堂々と言い放った。
湊も、花見に集まった野次馬たちも絶句する。湊の父である一条義空が道玄に訊いた。
「武藤さん。一つだけお伺いしたい。それは、結菜君本人の意志なんですね?」
道玄が大きく頷く。
「無論、本人の意思です。あいつも武士です。二言はない」
義空も彼に頷き返した。
「ならば、結構。湊が負けた場合は頭を剃り、学校を辞めて僧門に入ります。二度と娘さんの前に顔を出しません」
彼はそう言って湊に目を向けた。「それでいいな、湊」
湊は反論をしたいところだが、何も言わず義空と道玄に頷いた。自分も武人だ。相手が命を賭けて挑んでくるのに、こちらが同じ条件で応じないのはフェアでない。足元で雪庭がため息をつくのが見えたが、もう運命に抗う術なんて思いつかなかった。
湊は意を決して結菜が来るのを待った。すると、境内の空気が一変する。本人が現れたのだ。
その圧倒的な殺気にギャラリーが気圧されて後ずさり、彼女のための道が出来た。真新しい濃紺の袴を纏った結菜がその真ん中を歩く。少女は右手に使い込まれた木刀を下げていた。多分、湊を倒すためだけに、日々振るってきた獲物なのだろう。結菜は湊の前で立ち止まり、ゆっくりと対峙した。
「逃げるのかと思ったけど、ちゃんと来るなんて。昔から意気地なしだった君でも、どうにか死ぬ覚悟だけは出来たみたいだね。気弱は治ったんだ」
そう言葉を発する彼女は舞い散る境内の桜のように綺麗だった。そして、神業のような闘気を纏い、見る者全てを恐れさせる。そもそも結菜は相手を挑発するようなタイプの人間ではなく、湊が本気を出し易いように煽っているだけなのだろう。だが、湊は戦う前から彼女の殺気だけでやられてしまいそうなほど圧倒されていた。しかし、それでも自分は武人であり、引き下がらずに挑発し返す。
「結菜、暫く見ないうちに太ったんじゃないの? 昔から甘党だったし、どうせ都会に出てはしゃいで、スイーツばっか食べてるんでしょ?」
湊は結菜の意を汲み、彼女が本気を出し易いようにわざと憎まれ口を叩いた。彼女は元々細身の女の子で、身体は無駄な筋肉も贅肉もなく、しなやかに見える。しかし、単に思いついた嘘を口にしただけだったにもかかわらず、結菜はそれをストレートな意味で受けとったようだった。それまで、全霊だと思っていた彼女の覇気が更に伝わってくる。見物人たちが湊の愚行を嘆き、思わず悲鳴が上がった。
少女が鋭利な目つきで湊を見据える。
「私に恥をかかせて……。七〇〇グラムしか増えてないのに、マジで頭にくる。地面にキスをさせてあげるよ。そして、永遠に眠ったらいいわ」
犬の雪庭がせわしなく辺りを走り回る。
「あわわ。湊。どうしよう。今ので結菜の磁場がおかしくなっちゃったよ。結菜も。お願いだから、優しい君に戻ってよ」
結菜はそんな雪庭をたしなめた。
「雪っちゃん、邪魔しないで。君はあとでブラッシングでもなんでもしてあげるから」
彼女はそう言ってその場でスニーカーを脱ぎ、綺麗な素足で土を踏んだ。そして、木刀を真っ直ぐ湊に向け、寸分の無駄もない所作で中段の構えをとる。
湊も覚悟を決め、左手を前にしたオーソドックスな拳法の中段構えをとった。
多くの見物人が見守る中、結菜の父である道玄が立会いの合図をして、果たし合いが始まった。
ここからは本当に命の奪い合いだった。そして、勝負の分が悪いのは湊だ。結菜の攻撃手段は木刀のみだが、圧倒的な破壊力を誇り、拳や蹴りと違って腕や足で受ける訳にはいかない。そして、なによりリーチがあった。元々「剣道三倍段」という言葉があるように、武器を持っている武者と相対するには、無手の武芸者は三倍の技量や段位が必要とされる。結菜は段位だけで見れば三段だが、それは連盟が決めた昇段資格の年齢が邪魔をしているだけで、ワールドクラスの彼女は六、七段の社会人をも簡単に打ち負かす。対して湊は准範士と言われる六段に相当し、段位だけを見ても圧倒的に不利な状況だった。
しかし、完全に劣勢な闘いであるにもかかわらず、何故か心が高鳴った。決して望んだ対戦ではないが、剣道の達人である結菜と真剣に競うことが出来る状況に胸が踊る。彼女の太刀筋は寺の境内で何度も見ていて、本当に綺麗だった。同じ武芸者として、その剣と本気で相対してみたい。
結菜のつぶらな瞳は真っ直ぐ湊を捉えているようで、虚空を見ているような、独特の視線をしていた。そして、隙がない。彼女が素足を半歩踏み出し、湊ににじり寄る。たったそれだけで湊は一気に追い詰められた。なす術は何もなく、焦りが胸に広がる。自分の骨が砕かれるイメージが頭の中で生々しく浮かび、気持ちがヒリヒリする。
しかし、窮地に陥ったその瞬間、何故か世界が暗転した。寺の提灯も屋台の明かりも照度が落ち、見物人たちが悲鳴を上げて騒ぎだす。そして、湊は言葉を無くしてしまった。目の前に、結菜ではない別の武者の幻影が現れたのだ。
澄んだ鈴の音が一つ鳴り、強い冷気が広がった。そして、幻だった姿があっという間に具現化する。黒い尖った帽子をかぶり、古風な白い袴を着た、侍と公家を合わせたような男の妖魔が目の前に佇んだ。その武者は同じく驚きを露わにしている結菜に歩み寄り、彼女に問いかける。
「我が主は、貴様か?」
犬の雪庭が、慌てて叫んだ。
「いけない、そいつは結菜の木刀が妖刀になってできた魔物だ。結菜、触れちゃ駄目。刀を捨てて逃げて!」
確かに、結菜の木刀は妖魔と呼応するかのように紫色に光り、妖しい空気を出し続けていた。彼女は弾かれたように雪庭に頷き、刀を地面に置いて武者から後ずさる。雪庭がその盾になるべく、二人の間に割り込もうとした。しかし、妖魔が結菜に似た覇気を出して行く手を遮る。
武者がその木刀を拾い、更に少女を見て続けた。
「恐るることはない。我は貴様が呼び寄せたのだ。積年の恨みが、悔しさが、貴様の木刀に宿り、力を得た。共に闘う。さあ、その身を我に捧げよ! 全ての怨念を奴にぶつけようぞ!」
武者はそう言って横目で湊を睨みつけ、結菜に再び木刀を握らせようと迫った。結菜は青ざめ、拒むように男から下がる。しかし、見えない力で押さえつけられているのか、足が止まってしまった。武芸者の腕が伸び、妖気が少女を取り込もうとする。
湊は無意識のうちに走り出していた。武者の前に立ちはだかり、結菜の手を掴んで強く引き寄せる。結菜は正気を取り戻したらしく、顔を耳まで真っ赤に染めて見上げてきた。
「湊、顔が近いよ。もう大丈夫だから。口と口が当たっちゃう」
「わっ、ごめん!」
湊も結菜を全力で抱きしめていることに気づき、慌てて腕の中から解放した。
対峙していた武者が、そんな二人の雰囲気を見て全てを悟ったらしく、結菜に目を向けて顔色を変える。
「女、裏切りおったな!」
妖魔は強烈な怒りの覇気を出した。身から出た妖気がドライアイスのように地を這い、境内に広がる。彼の怒気は怨みの主である湊に向いていた。武者は矛先を手前に向けて中段の構えをとる。
全てを見ていた立会人の道玄が、助太刀をすべく木刀をとった。
「おのれ妖怪、勝負の邪魔をしおって。成敗してくれる!」
道玄は刀を振り上げ、武者に近寄ろうとした。しかし、隣にいた湊の父である義空がそれを制す。
「武藤さん。二人は我らの跡取りだ。ここは若い二人に任せましょう」
結菜も頷き、父に言葉をかけた。
「そうよ、お父さん。いいところなんだから邪魔しないで! それよりもほら、その木刀を貸して!」
道玄は義空と結菜に頷き、ニヤリと笑った。そして娘に木刀を放る。結菜は隙のない動作でそれを掴み、自らの腕に収めた。
武者は怨念を孕んだまま中段構えで湊と正対した。恨みの矛先は、あくまで自分なのだろう。そして、負ければ今度こそ確実に命を取られる。しかし、湊は臆することなく中段の構えをとり、果たし合いの続きが始まった。
心拍数を上げてその間合いを図る。
妖魔の切っ先が跳ね上がった。
狙いは湊の左手首だ。
拳を下げて骨が砕かれるのを避ける。
しかし、それこそが相手の狙いであり、彼は湊の上段が空くのを待っていた。武者はそのタイミングを見計らい、無防備になった頭部に面を打ち込む。
命を奪う一撃が、湊の頭上を襲った。
だが、湊は内受けにそれを躱し、後ろ足で妖魔のみぞおちに逆蹴りを加えた。そして、剣を持ったその手の甲を掴み、逆関節に捻る。
「輪影寺拳法奥義、抜刀返し!」
湊は武者の手首を固めたまま、相手の背中側に押し込んだ。そして、妖魔の足が浮いたところで、そのまま投げ飛ばす。男は支えを失って一回転し、地面に背中を打ちつけた。
そして、主人を失った木刀は湊の手に収まっていた。見物をしていたギャラリーたちが揃って声を失う。一番傍で全てを見ていた結菜も唖然としたまま瞳を見開いていた。
湊が彼女に向き直って声をかける。
「結菜、最後のケリは君がつけるんだ」
湊は掴んでいた妖刀を結菜に放った。結菜は一瞬惚けていたがすぐに湊に頷く。刀は主人を失って制御不能になり、そのまま宙を飛んで彼女に斬りかかった。しかし、結菜はいとも簡単にそれを躱し、刀身の中央に狙いを定めて剣を振り抜く。そして、真っ二つにへし折った。
妖魔が甲高い声で嘶き、幻影が揺れた。二つに折れた妖刀は未だ妖しい光を放ち、小刻みに動いている。だが、犬の雪庭が口にくわえてなんなく拾い上げ、湊の父である義空の元に持って行った。
義空は雪庭の頭をひと撫でして労をねぎらい、袈裟の袂に入れていた木箱を取り出して中に収めた。そして、素早く読経し、蓋を紐で結ぶ。妖魔は封印をされることで力尽きたらしく、幻影が消滅して寺に明かりが戻った。
浮かび上がったのは、一面の夜桜だった。見物人たちが沸き立ち、湊と結菜を讃える。
「二人とも凄えぞ!」
「あんな妖怪をやっつけるなんて!」
「湊君と結菜ちゃんがいれば、街は安泰だ!」
ギャラリーから大きな拍手が起こった。湊は照れてしまい、その場で頭を掻いて応じる。そして、何気なく一緒に賞賛を受けている結菜を見やった。
しかし、少女は一人浮かない顔をしていた。彼女は湊を見上げて口を開く。
「凄いね。また『抜刀返し』をやるなんて。それも、今度は抜き打ちじゃなく実戦で自然に技を出して」
湊は首を横に振って否定した。
「いや。あれは自然に出た技じゃない。ネタばらしがあるんだ。相手が結菜の木刀から出た妖怪だったから、一年前の恨みもあるし、必ず上段を狙ってくると思って。だから、中段の構えをとった時、わざと左手首を少しだけ下げて、上段を誘ってた。君こそ、飛んでくる木刀を別の木刀で真っ二つに折るなんて。まともにやり合ったら絶対敵わないし、戦う前からこの勝負はついているよ」
湊はそう言って、自分の負けを素直に認めた。しかし、結菜は僅かに微笑み、長い髪を揺らして首を左右に振る。
「ううん、そうじゃない。元はと言えば、私の甘さ、至らなさが原因であの妖怪が現れたんだもん。私はあなたや他のみんなを危険に晒して。なのに、あの時、まったく何もできなくて。湊、助けてくれてありがとう。そして……」
結菜は不意に天使のように愛らしい笑みを見せた。湊が少女に見惚れていると、彼女はその場で膝をつき、両手を前に添えて湊に深々と頭を下げる。
「参りました。私の負けです」
見物人たちが「おお!」という声を上げた。彼らが口々に「結婚か?」「結婚だよね?」「結婚だ!」「祝言だ!」と確認し合う。犬の雪庭が「やったー!」と喜び、二人の周りを回って千切れんばかりに尻尾を振った。義空と道玄も隣で固い握手を交わし、二人はそのまま抱擁し合う。
湊は話が思わぬ方向に進んでいることに慌て、ギョッとしながら正座を続ける結菜の手を引いた。そして、その場に立たせて言い添える。
「いや、僕が闘ったのは妖怪であって君じゃないじゃん。それにさっきも言っただろ。まともにやり合ったら絶対に君に敵わないって。だから、負けたのは僕の方だから」
湊は結菜の身の上を案じて懸命にフォローをした。そして、こんなにも少女のことを思うのは、自分が彼女を好きだからなんだと気づく。境内は無数の桜が絶えず舞い散っていて、彼女の髪や肩にも降り注いでいた。湊は薄紅色の花にまみれた結菜を見やり、その綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。
湊にとって、結菜は心から愛しい大切な存在だった。そして、彼女はまだ一五歳であり、ずっと続くこの先の未来がある。だから、家柄や勝負に左右されることなく、自由な生き方をして欲しかった。
そして、もしも願いが叶うのなら、自分はその隣を歩いていたい。決闘を申し込まれたくらいだし、今は嫌われているのだろうけど、いつか打ち解けられたら。本当に家族になることができたら。それは、どんなに幸せなことだろう。
湊はそんな熱い気持ちを抱えたまま結菜を見つめ続けた。しかし、何故かは分からないが、彼女は急に険しい顔つきになっている。まるで、先程決闘をしていた時と同じような表情だった。結菜を案じて見守っていると、少女は暗い眼差しを湊に送った。
「湊、さっきから何? 僕が負けた、負けたって。まさか、私じゃ不満なの? そんなに結婚したくないの?」
彼女はそう言って今日一番の覇気を出した。そして、傍らの木刀を掴み、強く握りしめる。
「えっ? 何のこと?」
湊は背中に悪寒を感じて後ずさった。
「私のこと『太った?』とか言ってマジで許せない! 妾とかにしたら、本当に殺すから!」
結菜はそう言って木刀を渾身の力で振り抜いた。それがまともに湊の頭に当たる。彼はそのまま気を失い、地面にキスをした。
読んで頂ける方がいるなんて……。
感無量です。ありがとうございました!