ジェイド王子の涙
「どうぞ掛けてください」
グラン・ハルスタインの見慣れた一室。
ジェイド王子はわたしをソファーに勧める。
訪問する時間として好ましくなかったが、それでも辛うじて日が沈む前に宮殿に着けてよかった。
ルビナさんはわたしとジェイド王子がゆっくり話せるよう気遣い、別室で待機してくれている。
彼女には今回の訪問の目的を含め、詳しい事情を話していない。だからそのほうが都合がよかった。
「トキ王子を呼ばないと。いえ、ジェイド王子と一緒にセレカルド・イリスに行ったほうがいいのでしょうか?」
わたしは事前に連絡せず、いきなり訪問してしまったことを後悔した。
「いいえ。ご心配には及びません。あの後、兄と少し話したのです。兄は、姫の報告は僕が聞いた後に聞くと言いました。多分何か考えがあるのでしょう。重複させてしまうかもしれませんが、まずは僕に話を聞かせてください」
ジェイド王子はいつもより硬い表情をしている。
わたしは深呼吸をして、口を開いた。
「ライルさんに……想いを伝えました」
ジェイド王子は小さく頷く。
「ダメ……でした」
笑おうとしたけれど、なんだかジェイド王子の前では上手く笑うことができない。
きっと彼があまりに真剣にわたしを見つめているから。
「ライルさんは何と?」
「わたしに……相応しくないって言いました。でもきっとわたしを傷つけないようにそういう言い方をしてくれたんだと思います」
「姫はそれでいいのですか?」
ジェイド王子は真っ直ぐな瞳で質問する。
「いいもなにも……」
「ライルさんはあなたの臣下です。あなたの命令には背けません」
「付き合えと命令するということですか?」
「それも可能です」
わたしは大きく左右に首を振る。
「そんなことはできません。命令で気持ちは動かせません」
わたしはそう言って唇を強く噛む。
そうしていないと胸が苦しくて、なんだか涙が溢れてきそうだった。
「僕なら手段を選びません」
わたしはもう一度左右に首を振る。
「これ以上彼を困らせるようなこと……したくないんです」
ジェイド王子の大きく見開いた瞳から涙が零れる。
「どうして王子が……泣いているんですか?」
「気持ちが分かるからです。知りませんでした。あなたが痛いと僕も痛いんですね。自分が振られるよりも……ずっと痛い」
彼は零れる涙を拭おうとせず、わたしを見ている。
「……おかしいですね。少しも喜べない」
わたしは密かに改良したドレスのポケットにしまっていたハンカチを取り出すと、ジェイド王子に差し出す。
そのハンカチは偶然にも、彼の髪色に似た色合いの薄紫色だった。
「これでは逆です。こういう時、僕があなたのハンカチになろうと決めていたのに」
不謹慎だけど、ジェイド王子の泣き顔は笑った顔と同じくらい綺麗で、微動だにしない彼をわたしはぼんやり眺めていた。
「僕がいます」
ジェイド王子はようやく受け取ったハンカチで涙を拭うと、強い瞳でそう続けた。
「わたし……きっとサイネリアに戻ってくるべきではなかったんだと思います」
「どうして、そんなこと……」
「ライルさんを困らせ、ジェイド王子を傷つけただけです」
「それは違います!! 僕があなたにどんなに会いたかったか。例えあなたの気持ちが僕になくてもこうして再びあなたを見つめ、話をすることができる。それだけだって夢のようです。大体にして、あなたが戻ってきてくれなければ兄と和解することは叶いませんでした。兄を変えたのは間違いなくあなたです」
「ジェイド王子……」
ジェイド王子は更に痛そうな表情で目を伏せた。
「本当に不思議ですね。姫が振られればいいと残酷なことを望んでいた僕にとって、こんなにも都合のいい状況だというのに……」
ジェイド王子は自分の胸のあたりを押さえている。
そして言葉を続けた。
「前にも言ったと思います。僕を愛してくれなくても構いません。どうか僕の側にいてください」
「ライルさんに振られたからといって、他の誰かを選ぶことなんてできません。わたしは向こうの世界に戻ろうと思います」
「戻って一体どうするんですか?」
驚いたジェイド王子の視線がわたしに戻る。
「ライルさんのこと……忘れられませんから」
「意味が分かりません。向こうの世界に戻ったら、それこそもう二度と彼に会えないんですよ?」
「いいんです。こちらにいてもライルさんに迷惑をかけるだけです。それに、勝手に想い続けることは自由でしょう?」
「勝手に? そんなの……永遠の片思いです」
「はい」
わたしは小さく返事をする。
「では、父の願いは? ライルさんと離れ、誰も選ばず、これからどうやって姫は幸せになれるというのですか?」
「最初から誰かに幸せにしてもらおうなんて思っていません。……考えてみたら、幸せなことだったのかもしれません」
わたしは考えながら言葉を紡ぐ。
「振られたことがですか?」
「いえ……。ライルさんに出会えたことが……です。一生をかけたってこんなに好きだと思える人に出会えるかどうか分かりません。だから今は、出会えただけで十分幸せだったのかもしれないなって思います。欲を言えば、もっと彼の瞳を見ていたかったですけど……」
わたしはほんの少し笑って、ドレスの上から彼に貰った腕のリングに触れる。
「それほどまで……」
ジェイド王子は呟くと、俯いたまま暫く考え込んでいた。
「分りました。本当に……本当によく分かりました。僕から最後のお願いです。1日で構いません。僕の恋人になってもらえませんか?」
「え?」
「偽りの恋人です」
ジェイド王子は微笑む。
その表情は笑っているけれど、とても哀しげに見えた。




