ランチタイムの襲撃者 後編
第06話「ランチタイムの襲撃者」後編
ーーグイッ
ゴツゴツとした芋虫のような指が、俺の胸元を捕らえようと伸ばされる。
その巨体からは想像できない素早さだ。
無駄のない動きで巨体が前に出るのと同時に、次々と繰り出され、俺の胸ぐらを掴みに掛かってくる腕。
「ちょっと、短気すぎだろ!柔道家!」
機敏に反応した俺は、足下に拘束していた男の腕を早々に手放して後ろに飛び退く。
ーーグワッ!
ーーバシッ!
連続して繰り出される岩家の洗練された掴み手を、飛び退き、仰け反ってやり過ごす俺。
ーー確かにコレは高校生レベルじゃないな……
岩家 禮雄が柔道部主将でありながら、公式戦に出場していない理由が理解できる。
これだと高校生どころかオリンピックのメダリストでさえ、五分と生きていられないだろう……
ーーで?
俺はというと……
一見して逃げ回ることに必死な俺の動きは、岩家ほどの実力者でも簡単に掴まえる事が出来ていない。
ヒョイヒョイと躱す、まるで雲のようにつかみ所が無い俺に、簡単に御せると思い込んでいた大男は苛立っているようだった。
「貴様っ!」
ついに業を煮やした大男は怒号を放つと、同時に癇癪を起こしたように乱暴に足を蹴り上げ何かを蹴り飛ばした。
「ぐぎゃ!」
潰されたヒキガエルのような無様な声を上げて転がる哀れな男の体。
先ほどまで俺が組み伏せていた男だ……まだ踞っていたのか。
ーーしかし、マジかよ……腹いせに?仲間を思い切り蹴り飛ばしやがった
「っ!」
ーーガシッ!
一瞬、注意が逸れた俺の胸ぐらをグローブのような骨太の両手がガッシリと捕らえていた。
「ふっ……」
これ見よがしにニヤリと笑う岩家 禮雄。
「守居 蛍から手を引け!」
「……」
大男は仕留めたと言わんばかりのニヤケ面で言う。
確かに、柔道……いや柔術使いに組まれたら勝負は着いたようなものだ。
俺はその乱暴者を絵に描いたような巨漢を、至近距離から無言で見上げていた。
ーーああ、面倒くさい展開だ……
「貴様の為でもあるんだぞ……あの女は”死に神”だ、関わり合うと碌な事が無い」
「そういう噂もあるみたいですね」
俺は諦めたような顔で、興味なさそうに答えていた。
「噂?真実だ!あの可憐な見た目に騙されんことだ、折山……なんとか太郎」
ーー此奴、可憐って口にする顔かよ……いやいや、それよりも、襲ってる相手の名前も覚えてないのかよ……このゴリラ!
岩家の物言いにイラッときた俺だが、それが何故なのかよく解らない。
この程度で、本当の意味で不機嫌になるほど、俺はそんな多感な精神を所有していない。
そんなものはとうの昔に、錆び付いて、腐食して、何だか解らない細菌共に分解され尽くしたはずだ……
「…………」
ゴリラの角張った無骨な顔……その奥で光るギラついた両眼が俺の返事を待っている。
贅沢は言いたくないが、俺の返事を心待ちにするのは、ショートカットの可愛い少女が上目使いに頬を桜色に染めながらっていうシチュエーションだけにして欲しい。
「折山っ!」
ーーふぅ、とはいえ、こういう単細胞相手には、事を荒立てずに処理するのが一番だな
俺は自身の苛立ちという感情に疑問を感じることは感じたが、それを無視して人生経験上のセオリーを優先し、対処することにした。
俺が言うのも何だが、折山 朔太郎という男は、理解出来ない自身の感情などと言うものには、それこそ興味が無いのだ。
「わかりました」
ーーブオッ!
俺がアッサリとそう答えた次の瞬間、掴まれた胸ぐらを強引に引き上げられる!
「ぐっ」
俺は岩家にギリギリと詰め襟の胸元を、二本の丸太のような豪腕で締め上げられる。
「がっ、がはっ!」
俺の足下はいつの間にか宙に浮いていた。
獣じみた恐ろしいまでの膂力。
俺の身長は百七十八センチ、決して小柄では無い。
中肉中背、体重は六十キロ後半のはずだ。
その一人前の男が抗うのを、軽々と両の腕のみで釣り上げる。
岩家の巨体を見下ろす形で引き上げられた俺は、自重と丸太のような屈強な腕に締め上げられ、完全に死に体であった。
「折山、首つり自殺を味わう気分はどうだ?」
歪に大ざっぱな造形の口元を緩めながら問いかける岩家 禮雄。
勿論、俺が返事なんてものが出来ない状態であることは承知の上だ。
「どうだ?ついでに臨死体験もしておくか?」
そう言って、岩家が獲物を捕らえた自らの豪腕に更なる力を加えようとした矢先……
ーーパンッ!パンッ!
丸太のような厳つい腕を、俺は右手の平で二度ほど軽く叩いた。
「ふんっ」
途端に岩家は、面白くなさそうに鼻息を鳴らして両手を解き、俺を解放する。
ーードサッ!
電池の切れた仕掛け人形のように、力なく地面に崩れ落ちる俺の身体。
俺は尻を着いたまま、青い空を仰ぎ、虚ろな目で惚けていた。
謂わば首つり自殺と同じ、いや、下から締め上げられていることを考えれば、それ以上の状況であった俺が意識を保てないのは常識的な人間の身体なら当然の事といえるだろう。
「ギブアップの方法は知っていたのか?……小賢しいな」
岩家 禮雄は、半死の俺を睨みながらも、あの状態でよくそれが出来たものだと、少し感心しているような顔にも見える。
勿論、俺がそうしなくても、俺が完全に意識を失ったところで解放するつもりであったのだろうが……。
「ぐっ……わかったって言っただろ……ゴリラ……言葉通じないのかよ……」
「!」
岩家の無骨な顔、それが一瞬、驚きに変わる。
「話せるほどに意識があるのか……デタラメな奴だな」
ーーお前が言うな!非常識な馬鹿力出しやがって……
睨み返す俺だが、取りあえず今は立ち上がることは出来ない……そう、しない。
ーーそうだ、今は無理をする時では無いだろう……
岩家は、”そうだろうそうだろう”と、一度は驚いた俺の不甲斐ない状態に納得した笑みを浮かべると、無骨な顔を歪めていやらしく笑う。
「確かにその言葉は聞いたが……あれは貴様の目が嘘だと言っていた」
「…………」
ーー嫌な奴だな……お友達にはなたくない……いや、友達じゃ無かったな……って事は俺はラッキーなのか?
俺は、頭のこんがらがるような無意味な感想を巡らせながら、岩家のサディスティックな笑い顔を見て、取りあえずもう終わりにしようと決めた。
ーーああ面倒くさい……ほんと、くだらねぇ……
「わかった、わかりました、すみませんでした岩家先輩……金輪際、手を引きます、ちょっと可愛いから惜しいなーとか思ってません、ほんと!」
俺は素直に平謝りして許しを請う。
正直な話、もともと俺にはそんな未練は無い。
というか、蛍が過去を捨てたのなら、彼女は俺にとって全く興味の無い対象だし、そもそも他人と関わり合うのは面倒極まる。
少しばかり抵抗したのは売り言葉に買い言葉、このゴリラがどんな意図で俺に接触したのか少し興味があっただけだ……
だがそれも、もういいな……この程度の事なら理由を知る気も無いし、気に留める必要も無い……どうぞ、ご勝手にってところだ。
「どうしますか?」
そんな俺をよそに、岩家の後ろに控えていた二人の男が指示を仰いでいた。
ーーおいおい、今更出しゃばるなよ雑魚……
「……少々痛めつけろ、そうすればこいつの浮ついた頭でも理解できるだろう」
岩家は、元からそれが目的だったのではないかと思わせるような、見下した笑みで俺を見ていた。
ーー本気かよ!……こんな、かわいそうな俺に追い討ちって、こいつら鬼かよ!
立ち上がることも出来ない俺に、ニヤニヤしながら近寄る二人の男……いや三人の男。
「あ……あんた?……」
俺は、いつの間にか、ちゃっかりそれに加わっている、俺が最初に組み倒していた男の姿を確認して、ため息をついた。
ーー蹴られた男に媚び諂う、そういう性格……いいねぇ、ほんと……
俺は心の中で、そうごちると諦めたように天を仰いだ。
第06話「ランチタイムの襲撃者」後編 END