プロローグ
第01話「プロローグ」
きゃーー!
うわーー!
騒然となる踊り場。
運の悪いことは重なるモノだ。
男は足を滑らせた。
二限目の授業が終わり、移動教室へと向かう最中に階段から足を滑らせる。
”たったそれだけ”のこと。
よくあるシチュエーションだが彼は多少運に恵まれなかった。
踏み外したのが最も上の段で階下まで数メートルあったこと。
転げ落ちた先に片付け忘れた文化祭の廃材があったこと。
それの一つが一メートルほどの折れた木の棒で先が鋭利であったこと。
些細な運の悪さもこれだけ重なれば一つの結果につながる。
――死という最悪の結末に
「は、はやく!救急車を!」
「だ、誰か!」
「だめだ!血が、血が止まらない!」
阿鼻叫喚。
休憩時間で賑わっていた廊下はパニック状態であった。
倒れた男子生徒の胸に深々と突き刺さる木製の支柱。
ぐったりと仰向けに倒れた生徒は痛みに暴れることも無く、ただ力無く横たわり苦しそうに開いた口から弱い吐息と血の泡を吐き出している。
それは誰の目にも手遅れであった。
その瀕死の体の横にへたり込む、もう一人の男子生徒。
哀れな人物の友人らしい生徒は半狂乱で何かを叫びながら、朱に塗れた人体を激しく揺さぶっていた。
「ダメだよ、そんなにしちゃ……血が止まらなくなっちゃう」
場にそぐわない落ち着いた透明感のある声が響き、
同時に、死の門へと誘われつつある男に白く小さい手が差し伸べられた。
――
学園指定の制服である薄いグレーのセーラー服と膝までの清楚なプリーツスカート。
上品な装いで知られる私立天都原学園の制服は学園生にも近隣住民にも評判が良い。
その制服を纏った少女は皆がパニックになる中、しっかりとした足取りで”そこ”に向かう。
「……」
半開きの口から”ひゅーひゅー”と儚げな息を漏らす男子生徒の傍らに膝を着いた少女は、異物が我が物顔で突き刺さった胸部にそっと両手を添えた。
――白く美しい指先
直ぐに陶器のように輝く肌は溢れ出したドス黒い血に侵食されてゆく。
大気に触れ変色し粘り気を帯びる液体……
――
目前の光景に息を飲む生徒達は、先ほどまでのパニックが嘘だったかのように静まりかえっていた。
「……」
血の池に溺れる男子生徒に文字通り救いの手を差し伸べる少女は、
それはまるで切り取られた一枚の絵画のようである。
そして信じられないことに、赤黒く染まっていた少女の白い指先が次第にその透明度を回復してゆく……
――カランッ
自然とそうあることが当然の事の様に、死を象徴していた凶器の木片が抜け落ちて乾いた音を響かせた。
宛がわれた彼女の白い掌にはうっすらと淡い光が宿っている。
「これで……多分大丈夫。早く救急車を……」
横たわる男子生徒の隣で呆然とする友人らしき生徒にそう告げると、彼女はヨロヨロと力なく立ち上がった。
白い額には無数の玉の汗が輝いている。
覚束ない足取りで去って行く少女を追う者は一人もいない。
神々しささえ感じるその後ろ姿に声をかけられるほど不遜な人間はこの場には居なかったのだ。
天都原学園生の、去って行く少女の名は……
――”蛍”という少女と再会した時
俺の心は確かにざわついた。
再会と言っても子供の頃に一度か二度、話しただけだから向こうが俺のことを憶えていたかどうかは疑問だけどな……
まぁ兎に角、再会した時、俺の心は通常じゃ無い状態だったと認識している。
てっきりそういう思考や感情は無くしたと思っていたんだけどな。
そうして俺は、それからずっと自問している。
勘弁して欲しい、俺は色々と忙しいんだ。
何が忙しい?
生きるために……
そう、ただ生きるという行為を維持するために俺は忙しい。
他には何も無い……
過去にはあったかもしれないが現在は無い。勿論未来にも無い。
なのにあの蛍という少女に再会してから俺の頭を巡る答えの出ない問いかけ。
――俺はいったいどうしたいんだろう
――復讐?
それは無い。
抑もそんなことを考えるには時間が経ち過ぎた。
――自業自得?
いや、他人の不幸を望むほど俺は暇じゃ無い。
そうだ、俺は今更そんなことは望んでいないんだ。
なのに何だ……この感情は。
蛍……おまえに感じるこの感情の正体を俺は識らない。
識りたいとも思わない。
ただ俺は俺がどうしたいか識りたいだけ。
――なんだそれ?
全く意味が無い。
俺には意味の無い禅問答だ。
「……」
――ああ、くだらねぇ
――
―
「くだらねぇ……」
無気力な瞳でぼそりと呟く男。
特に苛立った風で無く、誰かを見下した様子でもない。
ただ何かを諦めたような無気力な言葉。
それが俺、折山 朔太郎の口癖になっていた。
抑も俺がこの高校を受験したのには大した理由は無かったんだ……
今の住居と職場から近かったということ。
入試の成績が特に優秀な者は特待生として入学金と学費が免除されること。
俺にとって理由はその二点につきる。
諸々の事情で親も無く経済的にも苦しい俺にとって、これらの条件はここ以外の選択肢を無くした瞬間だった。
――私立天都原学園
中高一貫で全国的にも名高い名門校だ。
文武両道、卒業生は政治家、官僚、学者、プロスポーツ選手など、どの分野でも優れた人材を輩出している有名校だ。
今日からここに通う事となった俺は高校からの入学組である。
小中学校も真面に通ったという記憶の怪しい俺は、ここでは確実に異分子だろう。
「おまえ入部したら良かったのに、すっげー可愛かっただろ?」
「いや無理だろ。クラブ活動が奉仕部って、せっかくの高校生活が台無しだ。まあ、確かに勿体ないくらいの娘だったけどなぁ」
ざわついた独特な雰囲気の教室で雑談に花を咲かせている新入生達。
入学式も無事終わり、振り分けられたクラスの教室で、担任、クラスメイト同士の自己紹介などフォーマットされた一連の流れが済んだ放課後に……
殆どの新入生達は直ぐには帰らず、お互いの親睦を深め合っているようだ。
――ガタッ
そんな同世代のなんと言うことも無い会話を尻目に、異分子であることを自認している俺は場違いなこの場所から早々に退散しようと帰り支度を済ませて立ち上がった。
「それって奉仕活動みたいな部活やってる”蛍”っていう二年の可愛い娘だろ?」
――蛍?
「そうそう”蛍”って書いて”てる”」
「蛍ちゃんって言うんだ、あの娘。確かに彼女の可憐さは”ほたる”ちゃんって感じだなぁ」
「やめとけってお前ら。俺は二年に兄貴がいるから聞いてるけど、あの娘って変な宗教関係らしいぜ。あと諸々ヤバイって二年でも敬遠されてるって言うか……」
――宗教?
蛍、宗教、ヤバイ……
帰り際、偶然拾ったキーワード。
つい聞き耳を立ててしまっていた俺の左耳に男子生徒達の新たな情報が入っていた。
因みに、俺の情報収集が左耳だけなのは大抵右耳にはワイヤレスの小型イヤフォンを装着しているからだ。
帰り支度を済ませていた俺は、後から新たに会話に加わった男子生徒の話の内容に完全に足を止めていた。
「蛍……宗教……」
楽しそうに他愛も無い会話を続ける同級生達を眺めながら俺は逡巡する。
――まさかな……いや、でも可能性的には……ありえる
俺は軽く頭を振った。
――いや、だからってどうするんだ?
どうと言うことは無い、俺にはもう関係の無い話だ。
そうやって自己完結した俺は気分を切り替えて中身の薄い鞄を肩に担いだ。
「やばいらしいぜ。奉仕活動部っていうけど、”けいせつの会”とか言う宗教的な勧誘してるらしいし、あの娘には学園生なら誰も関わらないって話だ」
「マジかよ……可愛いし雰囲気良かったのに。もったいねーー」
――けいせつ……蛍……雪?
その言葉で俺は、今度は完全に歩みを止めていた。
「それってクラブ活動の勧誘かなんかだろ?どこでやってたか教えてくれるか?」
そして俺は――
躊躇する事も無く、近くの席でたむろしている三人の同級生に問いかけていた。
「……えっと?」
初対面の男に突然声をかけられ多少訝しげに俺を見る三人。
「ああ、それなら一階の購買前の辺りだ」
彼らはぎこちないながらもそう答えた。
「わるいな」
俺は愛想無く礼を言うと平然とした顔で教室の出口に歩みを再開する。
しかし実際は――
胸のざわつきを押さえきれない俺の足は、誰から見ても明らかに足早になっていたことだろう。
「……」
――俺、折山 朔太郎の小中学時代は借金まみれだった
俺を束縛している一世会の西島 馨という男に早朝から深夜まで表家業、裏家業関係なく働かされ続けた。
一世会、哀葉組若頭、西島 馨という男は……
三十代半ばで痩けた面長な輪郭、いつも不機嫌そうなへの字に固定された薄い唇が特徴の、俺が知る限り最も危険な人物だ。
一世会からこの辺り一帯を取り仕切ることを任された……
有り体に言えば”ヤクザ”なんだが、とにかく業界でも特に武闘派として名を馳せている
俺は幼少の頃からこの恐ろしい男のおかげで殆ど学校にも通えず、こき使われ続けたのだ。
そんな環境で義務教育を何とか卒業できた俺は、本来なら高校生活を望むことなどあり得ない身分であったし、周りの者達もそう思っていただろう。
「おまえ……高校いけよ」
或る日、西島 馨はいつも通りぶっきらぼうな顔で突然そう宣った。
西島 馨がそんな素っ頓狂な事を言い出した時は、俺だけで無く周りの者達も最上級に驚いたものだった。
無論、入学金や学費は自分で工面する、借金返済のための労働は今まで通り熟しながらという抜け目の無い条件だが……
斯くして、俺はめでたく今年の四月から私立天都原学園に通う運びとなったのであった。
「……」
ここ最近、俺に起こった奇異な一連の流れを思い出しながら足早に歩いていると、やがて視界に目的の場所がフェードインして来た。
――ザワザワ
放課後はいつも賑わう購買前だが今日は輪をかけて活気に溢れている。
その理由は……
入学式のため午前中で帰宅予定の新入生達が、期待に胸を膨らませ明日まで待ちきれないとばかりにクラブ見学や施設見学などを目的として意気込んで残っているからであった。
彼ら彼女らは午後からの活力補給をするため、購買前や食堂前に押し寄せている。
「し、新入生の皆さん、あの……クラブ活動は決まりましたか……あの」
生徒達が入り乱れる人混みの中、小柄な少女が何かビラのような紙切れを手にあたふたと動き回っているのが見える。
「えっと……高校生活を清く正しく過ごすために……ぜひ、わが……」
彼女自身は大声を出しているつもりなのだろうが、如何せん声量が足りない。
自信なさげな言葉と相まって、雑然としているこの場では耳に入る者は少ないだろう。
なんだか覚束ない足下の少女。
その後ろ姿を確認しながら俺は目的の人物だと確信した。
「おい、あの娘」
「ああ、二年生みたいだけど……可愛いな」
俺以外にも何名かの男子生徒達が遠巻きに一生懸命な彼女を眺め、コソコソと話している。
俺の位置からはまだ後ろ姿しか確認できていないが……
雰囲気と周りの男共の反応からかなり見栄えのする美少女らしい。
天都原学園指定の制服である薄いグレーのセーラー服に膝までの清楚なプリーツスカート、オパールグリーンのタイは俺より一つ上、二年生の女子ということを示している。
恐らくは美人であろう彼女に興味はあるものの、上級生という事とまだ環境に馴染んでいないお互いを牽制し合ってか、男子生徒達は遠目に眺めているだけで彼女には接触出来ないでいた。
――まぁ、それでも放っておけば誰かが声をかけるのも時間の問題だろう
「厄介だな」
本来の目的を思い出し俺は行動に出ることにした。
――
「世の中のためになるクラブ活動で心身ともに……」
背後から足早に近寄る俺、
少女まで数歩と言うところで彼女がふいに振り返る。
自信なさげに勧誘を続けていた少女はどうやら俺に気づいたようだ。
「えっと、ちょっといいか?」
少女の直ぐ目の前まで到達した俺はそう言って彼女の顔を見下ろす。
「?」
彼女の優しげに少しだけ下がった大きめの瞳がキョトンと見開いた。
第01話「プロローグ」END