1話 酒と煙草と異世界と酔っ払い
酒と煙草を愛する男の、異世界での物語。
始まりです。
ゆっくりと、石で出来た階段を下っていく。
階段自体は急で、手摺もなく、照明と言えば壁に掛けられた蝋燭の僅かな灯り。今時不親切な構造だが、横の壁同士の距離は狭く、手を付けば問題はなく歩ける程度。
まるで地獄の底に繋がっているかの様だが、どうして俺はこの階段を下りているのだろうか。
気が付いた時には、この階段を下りていた。
それ以前の記憶を反芻するも、思い出せる事は自分の名前とどんな人生を送って来たかというエピソード。直前に自分が何をしていたのかは、全くもって思い出せない。
何か手掛かりがあるかと思ってジーンズとパーカーのポケット、ショルダーバッグの中を漁るも、出てきた物はスマホと財布。愛飲している安煙草とライター。コンビニのレジ袋に入っていたジャック・ダニエルと、ピーナッツチョコ。それとヴィクトリノックス。
スマホを確認しても圏外であり、Twitterも見れないし、メモ帳には買い出しメモしか書かれていなかった。
この状況へのヒントが、何一つとしてない。
それでも、何故か階段を上へ登ろうと思う事はなく、ただひたすらに降り続けてそろそろ一時間程度だろうか。
ようやく進む先に光が見え、安堵する。
だが、ここで階段を踏み外してしまっては大怪我の元だ。
これまでと同様に、一段一段確実に下りて行く。
そして、下り切ったそこにあった物は、木造の扉だった。
作りは簡素であり、板を並べてそれを数本の角材で固定している。その板同士の隙間から、光は漏れていたのだ。
扉に手をかけると、ふと、鼻に土と水の臭いが触れる。
雨の音はしないため、おそらくこの向こうには雨が止んだ後の外が広がっているのだろう。
そう思いながら扉を開ける。
「……ハハ、予想は間違っちゃいねえが、ちょっとこいつは予想外だな」
そこには、雨上がりの滴に濡れた森が広がっていた。
もっとも、その木々は今まで一度も見たことがない特徴をしており、飛び交う蝶の羽は輝くなど、まるでファンタジーの様な光景であったが。
鼻をひくつかせて臭いを嗅ぐと、先ほどと同じ様に土と水の臭いがする。音に耳を澄ませれば、聞こえて来るのは木々のさざめきと鳥や虫の羽音。
一先ず心を落ち着けるため、バッグからジャック・ダニエルを取り出し、一口呷ってから、煙草を咥えて火を点ける。
アルコールとニコチンでようやく頭を落ち着かせると、更に周囲がしっかりと見えるようになった。
よく見てみれば、先ほど飛んでいた羽の光る蝶には虫の体ではなく、人間の体が付いた妖精の様だし、そもそも光っているのは虫だけではなく一部の木々の葉や幹もだ。
いや、待て。今、スルーしてはいけない何かを、俺はスルーしたと思う。
もう一度、よく見てみよう。
羽の光る蝶……ではない。
あれは、羽の光る妖精だ。
「……なるほど?」
ようやく理解が追い付いた。
俺がいる場所は、ファンタジーの様な光景の場所ではない。
ファンタジーの世界そのものだ。
「いや、ワケが分からんわァァァァーーーーッッ!!!!??」
「「「「「「「「ッッ!!??」」」」」」」」
俺の突然の怒号に、周囲を飛び交っていた妖精たちが散り散りに逃げ惑う。
だが、そんなことは俺には関係ない。
いや、状況を教えてくれたという関係はあるけど、関係はない。
「なんで!?なんで俺異世界に来てんの!?そもそもなんで階段下りてたの!?ワケ分かんない!俺ワッッケ分かんない!!」
先程からずっと続いていた異常な状況に、ようやく感情が追い付いて来たのを実感する。
この状況も全く掴めないし、経緯もさっぱりだが、これだけは言える。これだけはできる。
「よし!酒飲んで寝ます!!」
バッグから勢い良く取り出した物は、愛しのジャックくん。
その蓋を急いで取り去り、瓶に直に口を付け、喉に琥珀色の液体を流し込む。
階段を延々と一時間下るという運動の後に飲む酒。
乾いていた喉が、命の燃料によって潤されていく実感と快感。
俺は今、間違いなく生きている。
「プハアァァァァッッ!!!酒超美味いッッ!!」
今の俺にできる事。
そう、それは酒を飲んで現実から目を全力で逸らす事だった。
黒で塗り潰された視界の中、コツッコツッと、固い床を歩く硬質な音が聞こえる。
この音には聞き覚えがある。
石の階段を下る音?いや、それよりも軽い。
これは、リノリウムの床の音だ。
ガラリ、と横滑りの扉を開ける音。
…………ああ、ならきっとこの後に聞こえる音は、あの人の声なのだろう。
「……やあ、君か」
やはり、そうだった。
落ち着いて、理知的な、あの女の声だ。
懐かしい、あの女の声だ。
「君も酔狂だね。毎日こんなところに「アナタ大丈夫!?こんなところで倒れて!?」
あの女の声を割り砕くように、別の女の声が聞こえて来る。
それを切欠に視界を覆う黒は消え、鮮やかな景色が写り込む。
いや、これは違う。
「………夢か」
ただ、夢から覚めただけだ。
目を開けると、そこには心配そうな表情をした、紫色の髪の美人の顔面ドアップがあった。
少し体を起こせば、キスできそうな程の距離。
……なるほど、これは悪くない目覚めだ。
「目が覚めたのね!?良かった……!こんなとこで倒れてたから、心配したのよ!」
「……ちょっと現実逃避に酒をかっ食らってな。酔って寝てただけだよ。すまないな」
草の上から身を起こし、背骨を中心に体をひねると、それだけで全身の関節からゴキゴキと音が鳴る。
やはり草が生えているとはいえ、土の上に直接寝るとこの様か。
軋む体を無理矢理伸ばし、稼働させる。
キョロキョロと周囲を見渡せば、そこにあるのは昨日の森の景色。我が愛しのジャックくんの空き瓶は、俺の枕として活躍していたようだ。
さらば、ジャックくん。また君に会える日を楽しみにしている。
ここで、改めて俺を起してくれた美人を見てみよう。
長い鮮やかな紫の髪に、整った目鼻立ち。色濃く、糖蜜色と言うべき肌と横に長い耳が特徴的だ。何らかの動物の毛皮で作られた貫頭衣の様な衣服は、その内側にある豊かな双丘に押し上げられている。ベルトの代わりにつる草を乾燥させたもので腰を縛っている様だ。そのベルトに括り付ける様に下がっているのは、動物の膀胱を使った水筒だろう。傍らにはつる草を編んで作ったのだろう、簡単な鞄。それと弓が置かれている。
この様子からして遠出をしているわけではなく、この近隣に集落のある住民といった感じだろうか。
さて、ここで一つ、俺は彼女に頼まないといけないことがある。
「……喉が焼けてる感じだ。水をくれ」
「……それ、完全にお酒で喉やけしてるんじゃ?」
紛れもなく、その通りだよ。
ジト目になりながらも、腰に下げていた水筒を渡してくれる彼女。
それを傾け、焼けた喉を潤す。
「プハアァァァッッ!!水が美味いッッ!!!」
「そう……それは良かったわね」
相変わらずジト目の美人さんに水筒を返し、再び周囲を見渡してみる。
辺りには昨日も飛び交っていた妖精たちが、光を放ちながら舞っている。背後には昨日あったはずの扉はなく、岩壁が剥き出しになっているのみ。木々は相変わらずよく分からない。
「さて、不都合な現実からは目を背け、人生をより良く生きていこう。とりあえず、まだお互いに名乗ってもいなかったな。俺は……あー……ジャックだ。『ジャック・ダニエル』だ」
「ジャックね……。アタシは『カタリナ』。この近くの集落に住んでるわ」
手を出すと、その手を握られて握手される。なるほど、ここら辺の文化は同一か。
そして咄嗟に偽名を使ってしまったが、こればかりは悪癖にして、職業病だ。
まあ、今更どうしようもない。失敗した過去ではなく、より良い未来を見て生きていこう。
「ところで、何でこんなところで寝てたの?」
「いやあ、それが俺にもさっぱりだ。気が付いたらここにいてな。ワケが分からないから、自棄酒して寝てたんだ」
「……転移魔法テロの被害でも受けたのかしらね?」
「さてな、皆目見当もつかないから困っている」
顎に手を当て考え込むカタリナと、肩を竦める俺。
どちらが当事者か分からない構図だとは、正直自分でも思う。
だが、これが俺の性分だ。
「……分かったわ。私の集落に連れてってあげる。ここじゃ危険だしね」
「ああ、ありがたい。優しい美人に助けてもらえるとは、俺も中々に幸運だな」
「……………ねえ、アナタ。軽薄って言われる事多くない?」
「あー、俺は分かれた女たちの事は忘れる様にしているんだ」
「……何度も言われてるのね」
ジト目をされるにそろそろ慣れてきてしまっている自分がいるが、そこは目を逸らしておく。
人間の良い所は、不都合な事実を無視できることだと俺は思う。
「まあ、いいわ。付いてらっしゃいな。私たち、『オーク族』の集落へ」
「ああ、よろしく頼むよ」
立ち上がり、歩き出す彼女に付いていく。
さてさて、これからどうなることやら。
気が付いたら始まる異世界ねえ……嫌な予感が付きまとうな。
…………って、オーク族だったのか。てっきり、ダークエルフとかだと思ってた……、