信長にまつわる 其ノ五
設楽原歴史資料館の歴史の品々を目にし私は資料館を出た。
すると先ほど資料館の中で見かけた中年の男性が
椅子に腰掛けて休んでいるのを見つけた。
私は男性に声を掛けてみた。
男性は地元の郷土史家だと言う。
男性は坂本と名乗った。
私は長篠の戦いについていろいろ坂本に
尋ねてみることにした。
「実は長篠の合戦はなかったとも言われています」
坂本は私の問いに淡々と応えた。
「なるほど・・しかし、なかったというより
僕らが学んできたような戦いではなかった、のではないですか?」
「そうです。よくご存じですね」
「名古屋市博物館の長篠合戦図屏風を見ました。
最古の作だと聞いて、これこそが事実ではないかと思ったのです」
「そうなんです。信長の鉄砲隊は長篠の合戦で三千挺の火縄銃を
8時間にわたって使用したとされてました。
三千挺が8時間で約三十万発の弾が打ち出された事になります。
この設楽原で見つかった弾は何発だと思いますか?」
「ん〜、一万発ほどですか?」
「12個です」
「12個!?たったの!?」
「信長にそもそも鉄砲隊などなかった。そう言われてます」
「鉄砲隊がなかった?」
「長篠の合戦以降の戦いで信長が鉄砲隊を使った
という記述は一切ありません。それどころか、
長篠の合戦以降の上杉との戦で大敗しています。
鉄砲隊がいるなら使わないわけがない。
使わずして負けたというのは、そもそもないからだと思われます」
坂本の話に私は納得していた。
それは有名な長篠合戦図屏風でも、馬防作の前で鉄砲隊が構えていたり、
三列に並んでいなかったりと不自然な点が多く見られたからだ。
さらに坂本は続けた。
「武田騎馬隊も存在しなかったとみられます」
「有名な武田の騎馬隊もなかったのですか!?」
「武田の軍法などを記したとされる甲陽軍鑑には
馬に乗っているのは大将などの一部の武将だと書いてあります。
その数1部隊に7、8人程度だとか」
「少ないですね」
「更に武田の馬は木曽馬だそうです」
「木曽馬?」
「今でも長野県の木曽にいる馬ですが、
我々が想像してる競走馬のような馬とは違いポニーのような小さな馬です。
スピードも小学生が走る程度だとか」
「そんな馬が戦に向いてるんですか?」
「向いてないでしょうね。
逃げる敵を追うにはいいですが、突撃など攻撃には向いてません」
「要するに武田騎馬隊はなかったと」
「そもそも長篠の戦いの頃は梅雨の時期。
長篠の戦い前日には大雨が降っていたと言います。
しかも合戦のあった場所は田んぼでした。
前日に雨が降っていたなら、ぬかるんでいたどころではありません」
「馬が走ることは?」
「不可能でしょうね。馬に乗っていたら戦いになどなりません」
「つまり長篠の戦いはなかった。
いや、僕らの知るような合戦はなかったという事ですね」
「最近では、そう言われてます。
長篠の戦いは屏風に描かれてるほど大規模ではなかったと」
「なるほど。もう一つお聞きしてもいいですか?
合戦図屏風に描かれている"五"の旗はなんですか?」
「それは徳川家の伝令である使い番の旗印です」
「徳川の伝令、ですか・・」
もう一つと言いつつ私はその後も坂本から
いろいろな話を聞いた。
時間の経つのも忘れる程に。
それにより私の中で、本能寺の変についての
一つの可能性が浮かんでいた。
それは、本能寺の変の全く新しい解釈だった。
その頃、野中は長浜市長浜城歴史博物館に来ていた。
長浜市長浜城歴史博物館は豊臣秀吉や湖北、
長浜の文化についての資料を展示している。
周辺は桜が名所の豊公園として整備されている。
そして、ここには長篠合戦図屏風の1つが所蔵されているのである。
一通り館内を見終わると野中は博物館を後にした。
特に信長に関する資料が見受けられたわけではなかったからである。
その後、野中は安土町にある安土城郭資料館に立ち寄ったあと
安土城天主 信長の館へ向かった。
信長の館は1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された
原寸大の安土城天主が再現、展示されている。
館内に入ると安土城の5階、6階部分が再現されている
原寸大の城が目の前に現れる。
その大きさと赤や金色の鮮やかな、優雅さが溢れる建物に
野中は圧倒された。
思わず「すごい」と言ってしまうほどに。
安土城天主を一通り堪能した野中は
館内にいた関係者と思われる方に話を聞いた。
「信長はなぜ安土城をこのような形にしたのですか?」
信長の館の案内人である小早川は野中に安土城の話をはじめた。
「ここにある安土城天主は近年、
発見された天主指図を元に再現されました。
天主はキリスト教、仏教、中国思想の要素を含んでいます。
そして天主の最上階に信長は居座り
全ての神の上に立つということを表したんだと思います」
「信長は自らを神としようとしていたってことですか!?」