信長にまつわる 其ノ四
ここは名古屋市博物館。
昭和52年(1977)10月1日に開館した歴史系博物館である。
駐車場に車をとめ、鍵を片手に建物までの道を歩いた。
信長を語りながら。
さほど遠くはない道のり、私たちの話は尽きず
少しゆっくりめで歩を進める。
「国素裸さんは誰が黒幕だと思います?」
「ん〜、正直わからない」
黒幕として名があがっているものは数多くいる。
信長の後に天下をとった豊臣秀吉。
その後に天下を治めた徳川家康や、長宗我部元親、
毛利輝元など。果てにはイエズス会、濃姫説もある。
最近では、朝廷説が有力とされている。
足利義昭、近衛前久などの名もあがっている。
ありとあらゆる人物が黒幕ではないかと疑われ
今では何が真実か、我々が自ら霧の中に迷い込ませたかのようである。
博物館の中に足を踏み入れると少しヒンヤリした感じがした。
吹き抜けになっているホールの中央あたりにある階段を二階にあがると、
常設展示室のカウンターがある。
カウンターで券を見せると、左手からお進みくださいと順路を示された。
指示に従い左側より進んでいく。
少し薄暗い展示室はその場の空気さえ重たく感じさせていた。
私と野中は展示品を順次、見学して進んだ。
中央あたりより戦国の品が見え始め、そこに求める物はあった。
長篠合戦図屏風である。
が、その屏風を見て私は驚いた。
なぜなら私が知っている屏風とは少し違っていたからだ。
「これは・・」
「兵が、少ないですね・・」
野中が少ないと言った屏風には確かに我々が知る
長篠の合戦の風景を描いたものとは違っていた。
「どういうことなんだ?僕の見たことのある屏風絵とはまるで違う」
「ここに説明書きがありますよ」
説明書きによるとどうやら、この合戦図屏風は
確認されている長篠合戦図屏風の中でも最古の作らしい。
野中は屏風を覗き込みながら尋ねてきた。
「現在、最古の作ということは信憑性が高いってことになるんですか?」
「そうとも言い切れないが、その可能性はある」
だが、どういう事なんだ?私の知る屏風とは全く違うのは?
謎は更に深まった。
名古屋市博物館を後にした我々は近くのカフェに立ち寄った。
少し落ち着きたかったからである。
「少し話を整理しよう」
カフェにて私は話を切り出した。
「まず僕らは密書の"五"の文字から長篠合戦図屏風を調べだしたんだ」
「ええ」
「そこで分かったこと、それは屏風は一つではなく
少なくとも現在確認されてるだけでも八つは存在する」
「そしてそれらは博物館や美術館、個人所有されてるものもある」
「そして先ほどの名古屋市博物館の屏風。
僕らが知るものとは全然違った」
「しかも最古のものです」
「いくつも歴史的品が見つかることはよくある。
多くの場合最初に書かれたものを参考に後の作品ができる。
つまり、あの合戦図屏風に描かれていることが真実の可能性は高い」
「どういう事なんでしょう」
「もしかすると我々の認識が間違っていたのかもしれない。
あれが事実なら僕らが日本史で習ったことが
間違ってたかもしれないということになる」
「歴史認識の間違いは往々にしてありますよね」
「野中さん。滋賀に行ってくれないか?僕は調べたいことがある」
「国素裸さんはどこへ?」
「設楽原に行こうと思ってる」
「長篠の合戦の地ですね」
長篠の合戦について調べるべく、私は愛知県新城市に向かった。
時間的効率を考え野中には滋賀県の長浜に向かってもらうことにした。
長篠の合戦が信長の埋蔵金と絡んでいるかどうかはわからない。
しかし、この謎を解かねば私としては先に進めないと思っていた。
そして私は新城市へとやってきた。
ここは長篠の合戦があった地であり、
信長軍が武田軍を迎え討つ時に作ったとされる馬防柵が再現されている。
更に近くには武田武将の石碑や設楽原歴史資料館もある。
まず私は馬防柵に立ち寄った。
ここが長篠の合戦があった場所。
歴史に残る舞台に佇み少し目を閉じてみた。
かつての戦が甦る思いがした。
続いて設楽原歴史資料館へ向かった。
ここは設楽原歴史資料館である。
「しんしろ」は、国の流れを変える2つの大きなできごとに関わってきた。
1つが「長篠・設楽原の戦い」
もう1つが日本開国の基となった幕末の
日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬忠震。
設楽原歴史資料館ではこの2つのできごとについて紹介をしている。
館内に入り奥へ進むと数々の鉄砲が展示してある。
長篠の合戦と言えば火縄銃である。
火縄銃については日本有数の資料館といえるだろう。
そしてその一角に目当ての屏風はあった。
私はその合戦図屏風を前にしてしばらく眺めていた。
それは新たな事実を見つけるという思いもさる事ながら
ただ歴史を純粋に感じたかったからかもしれない・・