5.
衛兵たちが取り囲む、出口のない蛇の巣の夜が更ける。
一見静寂に沈む王城のなかには、夢と欲望と悪意が嵐のように渦巻いている。
ソフィアの眠る寝室の平和を、私は死守しなくてはならない。
薔薇色の唇からちちくさい息を吐いて夢の中から寝言を繰り出すソフィア。ぐぐぐと呻き、歯ぎしりをしながら、悪夢を見ているらしい。
眉間に刻まれた皺を指先でそっと撫でもう一度子守唄を歌うと、ソフィアは嬉しそうにふふふと笑った。
生まれてたった十八年の子どもだ。まだ世界を何も知らない。
橙色の灯に浮かび上がる寝顔。
ソフィアは真っ暗な部屋を怖がり、いつも明かりをつけて眠りたがる。遠い過去の記憶に、魂が縛られているんだろう。
それなのにどうして、懲りずにまたこの世界に生まれてきたのさ、眠り続けている方が絶対に楽なのに。
今度こそ守るよ、私の、翡翠の魔女。
また同じ時を生きられる日が来ると、あなたを失った二百年前の私に教えてやりたいよ。きっと喜ぶ。
温もりに満ち溢れた出難いベッドを出て、眠るソフィアのおでこにキスをすると、額が緑色に光った。
私は急になにやら口寂しくなり、星屑を食べに宇宙へ行こうと決めた。飛龍に姿を変えれば月までは一息だ。
月の石レゴリスはソフィアの手料理に遠く及ばないが、近頃ソフィアはおじいに料理を禁じられているので仕方がない。
『あのなー、だってなー、オルガよ。料理なんかしくさったら、ソフィアの錬金術が周囲にばれるだろうが。そしたら、アルノに気付かれるだろうが。だからだめじゃー』
とおじいは言った。
アルノというのは、私と同じく六神獣の名を冠する幻獣だ。ソフィアを憎むあれは私の敵。
ソフィアをこれまで無傷で守りきれたのは、私の力だけでなく、彼女の人徳による。
彼女の手料理のファンたちが、失ってなるものかと死ぬ気で彼女を守ってくれた。
でもなあ。ここはセリモラ島じゃないから、幻獣が存在しない前提で考えなければならない。
まして、彼女が王城へ嫁した今、親戚関係となった一人と一頭の距離は限りなくゼロに近いづいた。直接対峙を防ぐ術はないのか。
料理すんなとか、その場しのぎで逃げ切れるはずがないのにおじいめ、どうするんだ、この事態を。
ソフィアの料理。
山羊乳と鶏卵を混ぜ合わせて甜菜糖をたっぷり加え、かまどで焼き上げたはちみつ色のトパーズ。
豚肉の燻製と萵苣をコンソメスープで煮た新緑色のクリソプレーズ。
小麦粉とバターをこねて発酵させ、炭火でじっくり焼いた氷河色のブルーダイヤモンド。
一口食べればたちまち蕩けるような甘みがいっぱいに広がる。
ゴリゴリの触感、ザラザラの喉越し、ブツブツの後味、どれをとっても最高すぎて、過去にも未来にも現在にも、ソフィアに並び立つ天才料理人はないと断言できる。何の変哲もない自然食材から色とりどりの鉱物を作り出すその力を、おじいは錬金術と呼び、ソフィアは料理と呼ぶ。
前世から消えないその能力で、彼女は幻獣相手に料理を振る舞う店を作り、これまで生計を立ててきた。
そんなソフィアに料理を禁じるなど。
習慣を奪われ、頼るものもない王城で、人知れず肩を落とすソフィアが不憫でならない。
しかし、あの子にとっておじい言いつけは絶対なのだ。
少しだけならいいでしょうと私が願っても、困った顔で「ごめんね、オルガ。おじいちゃんには逆らえないの」と謝るソフィアは、腰は低いが頑固者だ。
セリモラ島でおじいに放っておかれている間に子供の小さな手で羊を育て、山羊乳を搾り、初めてケーキを焼き上げたのは彼女が七歳の頃だっただろうか。出来上がったのは、血赤色のレッドジェダイトだった。
掌に乗るほどの小粒な塊が百程あったか。
ああ、やはりこの子はあの人なのだなあと感動すると同時に、愕然としたものだ。
たまたま近くに居合わせたガーゴイルが止める間なくレッドジェダイドを奪って食べ、うまいうまいと叫んだ。そしてすっかり虜になり、仲間を連れてまた来店し、同じ料理を注文した。
こうして幻獣たちの憩いの場、『宝石屋』が誕生した。
ソフィアはこれまで一度たりとも客の願い通りの料理を出せたことはないが、それでも商売は繁盛していた。結婚を機に、店じまいする直前まで。
例えばいますぐ逃げ出しても、ソフィアは自力で生きていける能力があるのに、どうしてそれを選ばずに困難な救済への道ばかり選ぶのか。そういう心根の彼女を、どうして人は異形とみるのか。
もういっそ城も王子も法王も全部なぎ倒してソフィアを攫ってしまえればどんなにか楽だろう。
この世のたいていのことは力でどうにかなるが、ことソフィアに関してだけはねじふせてやろうという気がおきない。彼女以外の誰かなら、殺してでもいうことを聞かせてやるのに。恋しいよ、ソフィアの手料理。
「さて、少し行ってくるよ」
私が離れる間に彼女の守護となるよう、鱗を一枚、髪の隙間に滑り込ませた。
淡雪の舞散る空へ踊り出て、橙色の明かりが灯るソフィアの眠る部屋を見下ろすと、警備や従者が寝ずに働く中、高いびきを掻いているはずのヴァレンタイン王子が廊下を歩く姿を見つけた。行く先の突き当りには、ソフィアの部屋がある。
まじか。
恋愛とは無関係に結婚したソフィアとヴァレンタイン王子だが、世継ぎはそれなりに期待されているらしいとは聞いていた。
だから、最初の夜から目をぎらつかせ、寝ずに見張っていたけれど、婚儀からここ数か月、ソフィアを夜に尋ねる意志をあいつが見せなかったからすっかり安心しきっていたものを……まさかここにきて気持ちが変わったのか。
まともにソフィアを愛する気持ちを毛ほども持っていないくせに娶ったあの野郎に腹立ちながら感謝したものだが、愛はなくとも夜伽だけはさせようというならぶっとばす。殺す。
あふれ出る殺意をもふもふ黒猫の身体に押しこめ、冷たい窓枠に腰掛け息をひそめて見守る中、ヴァレンタインが寝室の扉を開いた。