閃光
王妃の専属となって一年ほどたったある日。城で開かれた夜会で、エルサーナはいつもどおり王妃付きの侍女として別室に控えていた。
ここ半年ほどは、王妃の公務について華月宮の外での仕事も増えている。周囲の噂話も、さすがに1年もたてば落ち着いてきていて、他人の視線もそれほど気にならなくなっていた。
けれど、元は公爵令嬢の義務として出席していた今夜のような夜会には、今はほとんど顔を出すこともない。さすがにそこまでの勇気はまだ持てなかった。
侍女たちは、和やかに控え室で談笑している。エルサーナも、侍女長と共に長椅子に腰を下ろし、つかの間の休息を取っていたその時、トラブルは起こった。
夜会の間、王妃は時折化粧直しや休息のため、控室に戻ってくる。それが、髪を整えて出て行ってすぐ、困った顔でやってきたのだ。
「手を滑らせて、ワインをこぼしてしまったの。すぐにハンカチをあてたのだけれど…」
見れば、繊細なレースの手の甲に、薄赤く残るシミ。すっと眉をひそめたエルサーナは、いつもの通りに持参した衣装箱から、替えの手袋を取り出した。
「シェルミラ様、こちらを」
だが、渡そうとしたその手が止まった。
「エル、どうかして?」
訪ねる王妃にすっと頭を下げ、エルサーナは手袋を手にしたまま女官長に駆け寄った。
「侍女長様、手袋の丈が違っています」
「なんですって?」
切れ長の瞳が、きりりと吊り上がり、エルサーナが差し出した手袋をさっと受け取って検分すると、見る間にその表情に緊張感がみなぎった。すぐにシェルミラの御前に取って返し、侍女長は深々と頭を下げる。
「シェルミラ様、申し訳ございません。こちらに手落ちがございました」
その手袋は、レースの模様をシェルミラが気に入っており、肘までのものと、肘より上の長さのものと2種類作らせていたものだった。確かに柄は同じだが、それでも混在させるようなことはあってはならない。
「私、取ってまいります」
「頼みます、エルサーナ。シェルミラ様、大変申し訳ございませんが、こちらでしばらくお待ちくださいませ」
「構わないわ。エル、お願いね」
「かしこまりました」
深く頭を下げると、エルサーナはすぐに控室を後にする。
喧騒から離れ、明かりの灯る渡り回廊は、しんとしていて人気がない。いつもならば大股で歩くことなどしないが、今は緊急事態だ。もう少し足を速めても、誰かに見とがめられることもなさそうだ。
安心して、小走りに華月宮を目指すエルサーナの前に、不意に誰かが立ちふさがった。
「きゃ…!」
ぶつかりそうになり、思わず悲鳴を上げかけた口を大きな手で塞がれる。そのまま引きずるように、テラス窓から露台に連れ込まれた。
明るい月明かりで透かし見たその顔に、エルサーナは息を飲んだ。それは、3度目の婚約を破棄し、逃げるように別れた元婚約者だったからだ。
声を上げる間もなく乱暴に突き放されて、大理石の手すりにわき腹を打ち付ける。
「っう…!」
痛みに息がつまり、ずるずると崩れ落ちた。
それをさげすむように見下ろす目は据わっていて、背中が冷えるような気がした。
「やっと会えたな。城はガードが固くて嫌になるよ。下っ端役人じゃ、王妃陛下の専属侍女様にはお目通りできないんだってさ。ふざけんなよ!」
上等な革靴が、ガンッ! と手すりを蹴り上げ、エルサーナはびくりとすくみ上がった。
「ようやく都合よく一人になってくれたよなぁ」
「い、嫌…!」
にやにやと笑いながら、手が伸びる。振り払おうとしてもかなわず、乱暴に襟首をつかまれて、無理に立たされた。顔が近づくと、酒のにおいがする。
「何が専属侍女だよ。ウォーロックの娘ってだけで俺の人生めちゃくちゃにしやがって!」
酒精ににごった目が、エルサーナを嘗め回すように見下ろす。恐怖と嫌悪で、声も出ない。
「お前に断られたおかげで、僕がどれだけ恥をかいたかわかってんのかよ!?」
「だっ…て、あなた、恋人が…」
ようやくに反論する声は、情けなく震えていた。それに、相手は軽く目を見張る。
「なんだよ、知ってたの? もしかして、婚約破棄ってのはそれが原因? ははっ、くっだらない! 貴族の男なら、愛人の一人や二人居て当然だろう!?」
当たり前のように言い放たれて、エルサーナは唇をかむ。
そんなはずはない。父には愛人なんて居なかった。結婚した兄にも、そんな存在は居ない。それをくだらないと嘲笑う彼の思考が理解できない。
「女にはとっくに逃げられたよ。事業も頓挫して大損出して、そっちからもらった慰謝料も吹っ飛んだ。おかげで親父はかんかんだ。僕の人生めちゃくちゃだよ。どうしてくれるんだよ!」
男の手が、エルサーナを荒々しく揺さぶる。こんな暴力に晒されたことなんか、これまで一度もなかった。怖くて涙がにじむ。
「や…いやっ! やめて…!」
か細い悲鳴は喉に絡まって、夜の闇に消える。
「うるせぇよ! 責任取れよっ!」
「きゃあっ!」
男の手が振り上げられた。反射的にかばうように腕を上げることができたのは、奇跡に近かった。
瞬間、襲ってきた拳に吹き飛ばされ、露台の石造りの床にたたきつけられる。
遠慮ない力で殴られた腕は、痛みで動かせない。倒れた時に打ち付けた膝が、じんじんと割れるように痛む。うずくまったまま動けない。
怖い。
どうして、私がこんな目に会わなければいけないの? どうして私が悪いの? それとも。
私がエルサーナ・ウォーロックでさえなかったら、こんなことにならなかったの?
「お詫びくらいしてもらうよ。物慣れない箱入りのお嬢様とは、キスぐらいしか出来なかったしね。こんなことになるくらいなら、さっさとやっちゃえばよかったよ。年増でどうせ貰い手なんかないんだろう? だったら味見くらいさせてくれてもいいんじゃないか? それとも、既成事実を作って、愛人くらいにはしてやろうか?」
まるで舌なめずりをしているような顔で、男が覆いかぶさってきた。
自分の身に起きていることが信じられなかった。悔しいのに、悲しいのに、怖いのに。どこかで自分自身を責める声がする。目の前の彼の瞳も、そう言っている。
一年前にはあんなに好きで、寝ても覚めても忘れられなかったはずの彼は、今や自分に理不尽な暴力を向けている。それに、どうしても嫌悪しか抱けなかった。
「やめて…、やめてっ! お願い、やめてぇっ!」
無遠慮な手がスカートのすそから入り込んで、内腿を撫で回す。悲鳴はか細く、こんな人気のない場所では誰かが気づくとも思えない。
嫌だ。いやだ。怖い。気持ちが悪い。助けて、誰か、誰か。
絶望と恐怖で視界が暗くなりかけたその時。
覆いかぶさっていた男が、不意にいなくなった。
うわぁっ、という悲鳴と、ドッと石造りの床に叩きつけられる音がする。重さと圧迫感がなくなって、エルサーナは思わず喘ぐように荒い呼吸を繰り返した。まるで、息ができない水中から助け出されたように。
エルサーナがのろのろと身を起こすと、その目に飛び込んできたのは、白いマントをひらめかせた、背が高い大きな背中。
「何するんだ! 僕はファイン・エラルドだぞ! エラルド伯爵家子息だぞ! たかが騎士風情が僕にこんなことをして、ただで済むと思ってるのか!?」
口汚くののしる声に、その後ろ姿は微動だにしない。エルサーナは、自分をかばうように立つその背中に、吸い寄せられるように視線を奪われる。
「本日この王宮の警備を預かっているのは私だ。陛下より全権をゆだねられ、今夜王宮で起こるすべての事象の裁量権をいただいている。すなわち、私に逆らうということは、陛下に逆らうも同義。それ以前に、こんなところで嫌がる侍女に乱暴を働こうとしている酔っ払いなど、何人たりとも許す筋合いはない。大体、王妃陛下の専属侍女に無体を働いて、そっちこそただで済むと思っているのか? 文句があるなら別室で聞く」
朗々と響く声には、一切の容赦はない。どういうわけか、青ざめたまま固まっている元婚約者は反論する気力もないようで、廊下の向こうから二つの人影か駆けてくる足音にも、情けなくへたり込んだまま動かなかった。
登場しました、団長!
…ええと、一応、ね…。