専属侍女二人・前
ライトのごたごたから1ヶ月ほど過ぎたある日。
エルサーナの私室で、『王室侍女規範』とにらめっこするアーシェと、それを穏やかな瞳で見守るエルサーナの姿があった。
騎士団からの書簡を持ってきたアーシェに、専属侍女の役割について教えてほしいと請われ、喜んで私室に招き入れたのは、つい数分前のことだ。
「変なお願いをしてすみません。ほかに聞ける人、知らなくて…」
「ああ、ぜんぜんかまわないのよ、気にしないで」
恐縮する少女は、明るく、素直でまっすぐな、とてもかわいい女の子だった。平民だからか、気取ったところも構えたところもなく、親しみやすい。
猫のときにも接していたおかげか、どこか反応に面影がある気がして、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
ライトの元に居た黒猫。エルサーナ自身もそれなりにかかわったそれが、実はライトの手によって姿を変えられていたこの子だったとは。
自分が知らぬ間に罪を犯した。それを告白して城から下がり、自宅に閉じこもっていたライトに憤慨して、ひどく落胆して、混乱して、心配のあまり押しかけて、けれどすべてを捨てたように投げやりなライトをひどくなじった。
責任は取る、姿を消すというライトにまた腹が立って、子供のようにかんしゃくを起こして逃げ出して、団長室に乗り込んでレイドに泣きついて駄々をこねた。
最終的に、ライトを繋ぎとめたのは、そんな自分の浅はかな行動ではなくて、この少女だった。
そして、この少女のことを知るにつけ、ライトが傷付けたくないといった意味がわかるような気がする。きっと、自分たちがなくしてしまった純粋さを、この子は変わらず持っているからだ。
アーシェは、あの時、自らの意思で王城に来てくれた。そして、後ろむきなライトを叱り飛ばし、審判をひっくり返してライトを救ってくれたのだと聞いた。
ライトがしたことを、アーシェに対して申し訳ないと思う気持ちはある。けれど、ライトを選んでくれたアーシェに、深く感謝をしている。
ライトは、審判の前と変わらず、いやそれ以上に穏やかになって、日々をこの少女と共に過ごしている。
「それより、急ぎの書簡じゃなかったのに、わざわざ持ってきてもらって、ごめんなさいね。ライトに、空いた時間でかまわないって言ってあったのだけれど」
「いえっ、全然大丈夫です! それに、レイド様がすぐに行けっておっしゃってくださったので」
「…そう…」
その小さな呟きに複雑な想いが込められていることなど知る由もなく、アーシェは侍女規範に再び視線を落とす。
王妃からレイド宛の書簡を、ライトを経由して届けてもらったのは今日の午前中だ。急ぎのものではなかった為、返事はいつでもいいと言ってあったのに、午後一にはアーシェが件の書簡に団長印を押印したものを携えて、エルサーナの下にやってきた。
それも、レイドの指示だと言う。
今までは、騎士団への用事は、弟のライトを経由して依頼し、自分では決して西棟に近づかなかった。
向こうもそれを承知してか、特別扱いするようなことはなかったのに、ライトの一件でレイドと接触してからは、こうしてエルサーナからの依頼を最優先としてくれることが多くなったように思う。
けれど、それだけではない。
あの日以来、レイドが会いに来るようになった。
それも、差し入れに対する礼だとか、奥の警備についてだとか、普通は侍女や侍従に持たせる書簡を、自ら届けに来たりだとか、それに…エルサーナの顔が見たいだとか、それこそ些細な理由で。
華月宮は、王族と城勤めの女性が住まう宮だ。他の棟と違って、出入りは城勤めの人間でもフリーパスとはいかない。そのため、出入り確認がいらない応接間がいくつか設けられていて、レイドとはいつもそこで会う。
言葉を交わすときにはきちんと距離を取っているのに、別れ際、必ずレイドはエルサーナに触れる。
その、大きくてごつごつした指先で、頬や、髪、耳、唇、指…。
その、鷹のような目元をわずかに和らげて。
そっと、壊れ物を扱うように優しく撫でて、去っていく。
昨日は、指先であごを捉えられ、熱のこもった視線に見下ろされながら、親指で唇を撫でられた。思い出すたびに、唇の上にそのときの感触を思い出して、落ち着かなくなるから困る。
どんなに気をつけていても、意識の範囲外から伸びる指は、エルサーナの警戒をからかうように触れてくるから。
そして、触れた跡は、まるでじりじりと焼けるように熱くなるから。
そのまま、真っ赤になっていすにへたり込んで、動悸と顔の熱を冷まさなければ戻れないことが常だった。
今思えば、ライトの事は、レイドしか頼れる人がいなかったわけではない。
その気になれば、王への直訴だって可能だった。
それをしなかったのは、ただ…自分がレイドに助けてもらいたかっただけ。
何とかしてくれると、いまだに信じて甘えているだけ。
だけど、そのときのことは、一ヶ月たった今でも忘れられない。
自分を苦しいほどに抱きしめた太い腕、厚い壁のように大きな体、鋭いのにやさしく、けれど射抜くように見つめる瞳と、ごつごつした手、肌に触れた暖かい唇。
胸の奥の熾き火は、待ち望んでいた燃料を得て、轟々と燃え上がっている。レイドに焦がれる気持ちはすでにあふれかえっていて…止められない。
抑えようと思っても、どうにもならない。
華月宮を出れば、いつでもレイドを探してしまう。
会えば顔が熱くなって、心臓が暴れる。
恥ずかしくて、まともに目もあわせられない。
触れれば、そのまま崩れ落ちそうになる。
前にレイドと付き合っていたときよりもひどいような気がするのは、押さえつけていた反動だろうか?
「エルサーナ様、聞いてもいいですか?」
「あ、ええ、何かしら?」
不意にアーシェに声をかけられて、はっと我に返る。
「あの、エルサーナ様? 大丈夫ですか? 顔、真っ赤ですけど」
「…やだ、少し暑いみたい。ごめんなさいね、なんでもないのよ」
気遣うように尋ねるアーシェにあわてて取り繕い、エルサーナは思わず頬を押さえた。動揺している姿は、あまり見られたくはない。
専属侍女になって日が浅いアーシェは、王室の作法を勉強している最中だ。もともとが平民の彼女は、まだ貴族の侍女たちになじめていない。専属の役割を相談できるのは、身近では自分くらいしかいないのだろう。
それに関しては、いつでも相談に乗ると、ライトを通じて伝えてある。
遠慮してわからないままでいて大きな失敗をするよりは、早く聞いて一人前になりたい。そのアーシェの貪欲な姿勢には、好感が持てる。
何より、エルサーナ自身がそうだったから。
そのときのことを思い出すと、今でも胸の奥が痛むけれど。
いくつか質問を聞きながら、出来るだけ噛み砕いて教えてやり、アーシェは侍女規範をぱたりと閉じる。
「はぁぁ、なんか、こういうのってどうとも取れるような言葉で書いてあるから、解釈が難しいです~」
「ほんとうにそうね。私も、何を言わんとするところなのかを理解するのに、結構時間がかかったわ。こういう規約的なものって、わざと難しい言い回しをしたり、曖昧にしたりするものよね。きっちり決めてしまうと、きりがないし」
「ほんと、そうですね。あ、お茶くらい私がしますから!」
「いいのよ、せっかくのお客様ですもの。座ってて」
「でも…」
「いいからいいから、ね?」
恐縮するアーシェを強引に座らせて、エルサーナは慣れた手つきで、華奢なカップにお茶を注いだ。
「さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
ふうふうと湯気の立つカップを冷ますアーシェを見ながら、エルサーナもいすに腰を下ろした。
「おいしいです!」
「ありがとう」
にっこりと微笑んで、エルサーナも一口お茶を含み、カップを受け皿に戻した。
「困ったことや相談したいことがあったら、なんでも言ってね? 私でわかることなら、いつでも教えてあげるわ」
「はい、ありがとうございます!」
素直でまっすぐな女の子。
だから、ライトはそばに置くのかもしれない。
だからだろうか。ふと、ライトの領域にあっさり収まった少女に、聞いて欲しいと思ったのは。
あのときの黒猫に、聞いてほしいと思ったのは。
「ねえ、アーシェ。少しだけ、聞いてくれる?」
「はい、なんですか?」
「昔の話。私と、…レイド様のこと」
少しだけ言いよどんで付け加えると、アーシェは一瞬の間の後、その大きな翡翠のような瞳を、こぼれんばかりに見開いた。
「え、…えぇっ!? そんな、いいんですか、私なんかにそんな話なんかして!?」
「だって、前にも私の話を聞いてくれたでしょう? 私も、ずっと誰かに話したかったことがあるの。ダメかしら?」
「そ、それって私が猫だったからですよね!? あの時はよかったけど、私、しゃべっちゃうかもしれませんよ!?」
わたわたと困ったように手を横に振るアーシェに、エルサーナは笑う。
この子は素直で正直で明るくて、そしてとてもやさしい。
「しゃべっちゃうような人は、『黙っているから聞かせてくれ』って言うのよ。あなたは逆ね。だから、絶対話さない。これは私の勘」
エルサーナはすでに数年、王妃付きの侍女をやっている。女性ばかりの場所に特有の駆け引きは見飽きているくらいだ。まだまだ女官長には及ばないが、人を見る目はそれなりにあるつもりだ。
「そ、そんな…。買い被りですよぅ…」
困ったように見返すアーシェに、エルサーナはダメ押しとばかりに首を傾げて見せた。
「あなたがいいのよ。もちろん、迷惑でなければだけど」
「そんなっ、迷惑だなんて! ええと、はい、私でよければいくらでも!」
頬を上気させて意気込むアーシェに、エルサーナは美しく笑った。